2017年11月1日水曜日

最終兵器の日本古代史 辰国


 辰国は朝鮮南部にあったとされ、漢の頃に滅亡し後を辰韓が継いだと言われるが、漢書に辰国が倭種と記述されていないため、また、外交的配慮から無視していた。しかし、かなり後代の史書で原本が見れないため、無視していた『契丹古伝』をフェィスブックの「友達」から進められてネット上にあった『契丹古伝』を読んでみたら、原本でないので正しい内容か解らないが辰国が記述されてしかも漢と敵対しておりいかにも日本列島の話の様相だった。辰国は「堯・舜」の頃の建国の契丹より建国が古く、朝鮮は殷の孫と書きながら辰国は「姻」と書いているが、その血縁がどこからか書けない、契丹建国より古くて解らないようなので、おそらく、文化程度が近い程度の表現と思われるが、殷と同種とは記述されていない。
「sazanami.sitemix.jp」の原文を写させてもらったが、読み下しや訳は私の自己流です。
『契丹古伝』
「寧識堯與舜者東族翅報也・・・蓋辰者古國。上代悠遠也。 傳曰。神祖之後。・・・與殷爲姻。・・・先是弁那有二汗落。・・・伊逗氏者殷密矩王孫・・・」

そして、漢のころには辰国は東西に分国し境界は海おそらく関門海峡で東の辰国は朝鮮半島の山と海を盾にして漢に勝ち、西の分国と漢の連合軍にも勝利したと記述されているように私は解釈できた。
『契丹古伝』
「辰以蓋馬大山爲固。以奄淥大水爲城。拒漢、碎破其眞敦之志。・・・漢寇方薄、・・・爲辰守郭・・・以掣漢。」

日本書紀には新羅の王子「日槍」が人質ともとれそうに思えたり、「神国聖王」と呼んだり、新羅の建国に倭人が関わったりと良く対応している。それに対して、中国史書には、朝鮮での倭人を無視し、倭国の東方を倭種と呼ぶだけ、倭国を支配したのなら書かないはずがないので、倭国を冊封体制に組み入れて共同で辰国と戦い勝てなかったと記述されていると解釈できた。ただ、不明なのはどうして辰韓の前が辰国と漢は記述したのだろうか。史記を記述した頃に辰国が朝鮮に有ったのなら、まだ4郡設置前なのだから辰国と戦う前であるにも拘らずだ。私は、辰韓の地域が辰国の影響下にあったことを示したのではないかと考え、新羅の伝説とまさに合致している。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀 「新羅王遥望以爲・・・吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王」
『三國遺事』
「第八阿達羅王即位四年丁酉 東海濱有延烏郎・細烏女 夫婦同居 一日延烏歸海採藻 忽有一巖 一云一魚  負歸日本國人見之曰 此非常人也 乃立爲王 按日本帝記 前後無新羅人爲王者 此乃邊邑小王而非真王也」
『三國史記 卷第一 新羅本紀第一  始祖赫居世』
「遣瓠公聘於馬韓 馬韓王讓瓠公曰・・・瓠公者 未詳其族姓 本倭人 初以瓠腰 渡海而來 故稱瓠公」

『三国史記』にも『三国遺事』にも『契丹古伝』の影響が無いが、一つ不明なのが『三国遺事』の「延烏郎」記事のみ「日本」と記述してそれ以外は「倭」と記述して、「倭」はいつも悪者で、「倭」と「日本」は別者ととらえている。すなわち、新羅の建国は西の「倭」ではなく東の「日本」と感じさせてしまうし、日本書紀での新羅との関係が「日本」との関係に思われる。そして、もし「辰国」が朝鮮王朝ならそれを『三国史記』や『三国遺事』が書かないはずがないし、朝鮮は殷王朝の流れをくむことを誇りとしているが、朝鮮王朝が「堯・舜」より古いのならそれを誇らないはずがない。
『三國遺事』
「第八阿達羅王即位四年丁酉。東海濱有延烏郎細烏女。夫婦同居。一日延烏歸海採藻。忽有一巖負歸日本」

『契丹古伝』は後代史書のため、それより前の史書の影響があり、即座にすべて真実とは言えないが、『契丹古伝』が記述された時期にはこの記事に有るような「辰国」の伝説があったことは確かである。

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