2017年11月24日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅲ

時代背景

 肥後の近辺で大王と呼べるのは継体天皇以前なら「古田史学」で論じられている「玉垂命」の支配する地域で磐井以前には畿内系土器が出土していることからも畿内天皇家の配下だ。「稲員」家系図には初代物部保連と物部氏でつらと呼ぶそうだが「連」という「氏姓」がつけられていて、天皇と呼ばれていたと古田史学は言っている。磐井が豊国や火国を侵略した磐井の乱では天皇が物部大連麁鹿火に九州を与えると言っているが、本来天皇は磐井を配下の国造と言い、少なくとも磐井が支配する筑紫(福岡平野)以外を既に支配している。支配地に侵略されてはいるが、もともと本州は天皇の支配下で、この言葉は近畿天皇家の天皇や太子を殺害して滅亡させた人物の言葉である。継体紀を書いた人物は自分が継体紀から天皇だったとして書いたのであり、物部麁鹿火が勝利して葛子に九州を与えたと考えるべきだろう。物部麁鹿火が九州と無関係なのに空手形で九州を与えると言っても信用されず、物部麁鹿火が自領を与えるから協力しろとしたと考えるべきで、以前天皇だった「玉垂宮」の支配者が物部麁鹿火だった可能性があり、再度天皇と呼ばれることになった。近畿天皇家が滅亡して磐井の墓が八女に造られるということは、「玉垂宮」の人物と協力して葛子が動いて糟屋郡は盗られてしまったが、筑後・肥後を得たと考えるべきだろう。結果から見れば、近畿王朝が滅亡して九州を得たのは葛子だったということは、物部麁鹿火が葛子に九州を、自分が本州を盗る条件で連合して近畿王朝を滅亡させたのであり、本州を盗ったのはおそらく物部麁鹿火だったということである。(物部麁鹿火大連薨536年を古事記の継体天皇在位43年目とすると元号継体元年517の前年は日本書紀継体23年で巨勢男人大臣薨と無関係とは思えない)ここでも、日本では力が有れば天皇になれるということでは無い様で、物部という家柄が日本をまとめるための必須の条件だったと思われる。
『日本書紀』
継体天皇廿一年夏六月壬辰朔甲午
「於是筑紫國造磐井陰謨叛逆 猶豫經年 恐事難成恒伺間隙 新羅知是 密行貨賂于磐井所 而勸防遏毛野臣軍 於是磐井掩據火豐二國」
継体天皇廿一秋八月辛卯朔  
「恭行天罸 天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」

火君

 葛子が肥後を得たことで、安閑天皇以降は肥後の支配者は葛子やその末裔の可能性が高く「火君」と呼ばれたと考えるべきで、欽明天皇紀には筑紫火君は筑紫君(葛子)の子で火中君の弟だと書いているように読める。欽明紀で活躍しているのだから宣化天皇時代の子で古事記に出現しない上殖葉皇子が火中君と想像される。上殖葉皇子は亦名で椀(まろ)子といかにも葛子と名前の付け方が類似している。しかも、欽明天皇の時に立太子してそれ以前は立太子しておらず、この立太子の時に、欽明天皇の長男以外が太子になった。日本書紀の時計では葛子とその長男火中君がそれまで大王だったのであり、筑紫火君を立太子して、葛子の長男の火中君は上殖葉皇子がその候補になり得る。(安閑天皇の1人は葛子、宣化・欽明天皇の1人が火中君?)
『日本書紀』 
継体天皇元年正月丙寅 「宣化天皇元年三月己酉 次曰上殖葉皇子 亦名椀子」
欽明天皇十七年正月  「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」

江田船山』の被葬者の主人

 『江田船山』の被葬者は「玉垂宮」の官僚か「筑紫火君」の官僚かを考えると、「稲員」系図には「王・大連」と記述されていないので、自称大王とは言いにくく、しかも玉垂君でもないため銘文の大王とは整合性を持っていない。それに対して、「火中君」の場合には磐井の墓と言われる岩戸山古墳が近くにあって、葛子が磐井の墓を新しい領地に築造したことは大いに考えられ、この地域が火中、すなわち肥前と肥後の中間でピタリと符合する。従って、江田船山』の被葬者の主人が肥後北部に居た「火中君」自称火中大王の可能性が非常に高い。

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