2017年11月6日月曜日

最終兵器の日本古代史 現天皇家の王朝

 これまで、日本の古代史を俯瞰してきたけれど、天智天皇が日本を復活させて天皇になったが、璽の移動があった孝徳天皇のときから「大王」から皇位に就いたと書かなかった。すなわち、孝徳天皇の即位は天智天皇が書いたため、もともと皇位は自分たちのものだったと言っているとゆうことだ。仁徳天皇の時代から天皇の下に大王がいて、皇太子が即位しない場合は正直に大王が皇位に就いたと書いていることをずっと書いてきて、葛城圓・平群眞鳥・巨勢男人・物部麁鹿火・物部守屋・蘇我馬子まですべて大王が即位して天皇になった。それが、日本書紀を書いた人々は孝徳天皇からは最初から大王ではなかく、その皇位が持統天皇の時璽の移動はあったけれど元正天皇の時代まで引き継がれていると述べている。
『日本書紀』
仁徳天皇前紀
「時太子菟道稚郎子。讓位于大鷦鷯・・・仍諮大鷦鷯・・・大王者風姿岐嶷・・・我則爲臣之助耳。大鷦鷯尊對言」
仁徳天皇元年(癸酉313)正月己卯《三》 大鷦鷯尊即天皇位。

すなわち、日本書紀に書かれている天皇以外の王は王が複数出現した時から王の中の王である大王と呼ばれるようになったとゆうことだ。日本書紀の最初の狹狹城山君は天皇の配下の臣や国造とは違う独立した同盟関係の王のため君と書いたのであり、王も君も読みは「きみ」で全く変わらず、後で漢字を使い分けたに過ぎない。そして、天皇自身も王ではなく大王と呼び始めたのだろうけれど、倭王のように国造が王・君と呼ばれるようになったため、天皇自身を天皇と呼び元の王・君は大王と呼ぶようになったと思われる。
『日本書紀』
孝元天皇七年(癸巳前208)二月丁卯 兄大彦命。・・・狹狹城山君。筑紫國造。越國造・・・凡七族之始祖也。

その、直接支配を受けない大王のなかにいたのが現天皇家で、倭国王の筑紫國造の磐井の子の葛子が出世して筑紫君となって、扶桑国を滅ぼした新しい朝廷と同盟関係を結んだようだ。筑紫君は麁鹿火の地盤である筑後・肥後を筑紫君に与えて麁鹿火の旧国名の大倭を名乗らせて隋書では「俀国」と書いた。そして「俀国」と筑紫王の蘇我氏の「倭王」が「秦王国」を破ったけれど、「俀国」の皇位継承などの隙に、おそらく、「俀国」の代わりに中国と交流したのが「倭国」だ。筑紫・豊国の実力者の蘇我氏が俀国王の暗殺などで実権を握って「倭国」を名乗った王朝を「秦王国」に代わって樹立したと推理でき、そして、元天皇家が蘇我氏から政権を奪った。旧唐書は「倭国」と「日本国」を別国と記述していて、白村江の敗戦の酋長と665年に会っているけれどこの時も「倭国」と書いている。唐と戦ったのは倭と言っているのに孝徳天皇と同じ王朝に対して670年から友好国と寛容になれるのだろうか。通常、白村江で戦った相手には責任を取らせてから友好関係となれ、実際に対戦相手は倭国で、新しい日本国は倭国を併合したと記述している。
『隋書』
隋書俀国伝  「俀国・・・則魏志所謂邪馬臺者也・・・大業三年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」
帝紀第三 煬帝上 「大業六年 己丑 倭國遣使貢方物」
『旧唐書』
東夷伝 倭國 日本 「日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 
              改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
劉仁軌傳 「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

そして、壬申の乱によって蘇我氏は連子の家系を残して滅び、名実ともに蘇我氏の王朝は潰えたけれど、改元する力は新しい王朝に無かったことに変わりがない。さらに、持統天皇の長男草壁皇子が天智元年668年に生まれていて681年に皇太子になり年は13歳で適齢期だが壬申の乱や同盟の記事は草壁皇子の話とは思えない。このように多くの矛盾が有り、以降に現天皇家の歴史を考えていく。
『日本書紀』
天武天皇元年八月甲申 則重罪八人坐極刑・・・左大臣蘇我臣赤兄・・・及子孫・・・蘇我臣果安之子悉配流
天武天皇八年(679)五月乙酉
則草壁皇子尊、先進盟曰、天神地祇及天皇證也。吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹。然不別同異、
天武天皇十年(681)二月甲子《廿五》 是日。立草壁皇子尊爲皇太子。
持統天皇即位前紀 天命開別天皇元年。生草壁皇子尊於大津宮。

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