2017年11月20日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 Ⅰ

従来説と江田船山の出土物の問題点

 『江田船山』の銀象嵌の刀は『稲荷山鉄剣』が発見されて以降、大王名を「ワカタケル」と読んだために、 『江田船山』の大王名も「ワカタケル」と読んで雄略天皇の「大長谷若建 」に当てた。しかし、古田氏は稲荷山鉄剣』の主は稲荷山近辺の志木を支配する王の墳墓で雄略天皇の宮は長谷朝倉宮と斯鬼宮ではないことや、左治天下は天皇の近親者が王のそばで補佐するものだとした。金象嵌という位取りからしても、大王の近親者に合致し、この鉄剣の主は墳墓の主ではなく他に真の主が葬られているようだ。まさに合葬してもらえる人物が墓の主を佐治し、鉄剣の内容が生き生きしてくる。従来、『稲荷山鉄剣』が発見される前までは江田船山』鉄剣も確立した説が無かったのだから古田氏の証明でよく解らない人物の配下の剣もしくは、『稲荷山古墳』の配下の人物となる。 しかし、No2の配下が斯鬼宮に常駐しながら、祐筆のような官僚が遠く離れた九州と言うのは理にかなわず、祐筆は王の直近にいてこそ活躍できる。すなわち、江田船山』古墳の主は肥後北部に仕える王がいたと考えるのが妥当である。さらに、出土須恵器の年代基準が『稲荷山鉄剣』の辛亥(かのとい年471年を基準にしており、それに対して、531年の説もあり、さらに後ろの年代も日本書紀の崇峻天皇の飛鳥寺の記事を基準にしている。しかし、畑中英二氏によると豊浦寺の創建瓦作成の隼上(はやあがり)瓦窯跡が杯Gに注目すると640年頃開始とわかり飛鳥寺建造が後ろにずれた。狭山池築造時樋菅コウヤマキの年代616年が確定し、それ以降の狭山窯から基準土器が出土して、基準の高蔵寺窯跡には隋以降の硯が出土している。全体の編年はもともと古墳開始を卑弥呼に無理やり合わせるためだったので編年が後ろに移動する。さらに、江田船山』古墳建造時ころから円筒埴輪の型式が変わり、近辺の地域の土器の空白が突如出現して、さらに江田船山』古墳の2系統(加耶系から百済系へ)の時期の副葬品の存在が、出土埴輪から近畿に影響されていた地域が新しい勢力の支配に変わったこと、さらに、系統の土器の空白は前の系統の編年も間違いであることが考えられる。そして、決定的な出土遺物が心葉形垂飾付耳飾で523年に死亡した百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾と同時期の物が出土して、大王の配下という位取りから武寧王より前は考えられず、古墳建造年の530年代は十分考えられる。
『稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣』 
辛亥年七月・・・今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作」
『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』 
 「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸」

須恵器の変遷

TG232 231)型 式(上町谷)→ON231型式(=TK73型式古段階)→TK73→TK216→(ON46)→TK208→
TK23(江田船山、稲荷)→TK47(稲荷)→MT15(榛名山噴火)→TK10→MT85→TK43(高蔵寺・太満池・狭山池)
TK209(飛鳥寺・太満池・狭山池)→TK217(飛鳥Ⅰ期640-70)→TK46→TK48→MT21
TK23が従来は5世紀末としたが6世紀初め530年頃、TK43が従来は6世紀末が7世紀初めの620年頃となる。

0 件のコメント:

コメントを投稿