2017年11月10日金曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 倭国

 若御毛沼は紀元前178年に天神の天照大神を祀って猪野に倭国を建国し、事代主を祀った神を並べて祀ることで国を安定させ、国を安定させたことで紀元前88年に奴国・不彌国に進出した。しかし、緩やかな同盟関係だったため、魏志倭人伝で官位が統一できていなかったと考えられる。
『日本書紀』
神武天皇四年二月甲申 
「我皇祖之靈也自天降鑒光助朕躬・・・可以郊祀天神用申大孝者也・・・用祭皇祖天神焉」
崇神天皇四年十月壬午 「今朕奉承大運 愛育黎元 何當聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚」
崇神天皇六年 「天照大神 倭大國魂二神 並祭於天皇大殿之内」
崇神天皇十年(癸巳前88)九月甲午 吉備津彦遣西道。
『三国志』
「對海國其大官曰卑狗副曰卑奴毋離・・・一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離・・・伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚・・・奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴毋離・・・不彌國百里官曰多模副曰卑奴毋離」

西暦88年に大倭国が周芳から八女・浮羽まで熊襲を討伐し熊襲を筑後川北岸に押し込め、この熊襲が拘奴国と筑紫の東の国が筑紫の南の国に縮小した。従って倭国は熊襲に対抗するため、西暦125年に猪野・山田から室見川流域に都を遷し最前線で熊襲と対抗し、西暦200年には、伊都国・末盧など九州の日本海岸西部に進出し、大宰府・朝倉まで支配した。しかし、筑後には対応しきれずに、「漢委奴國王」印を授かって冊封体制に組み入れられていて、安帝にも朝貢していたので、漢の後継の魏に泣きついたのが卑弥呼で、それが成功して「張政」が派遣され、安定させた。三国史記の新羅の資料は日本書紀と同じように当てはめ間違いがあって確定できないが、阿達羅尼師今20年の卑弥呼記事は奈解尼師今の頃の話で奈解尼師今十三年記事が神功皇后の新羅遠征と考えられる。戦闘状態の時に女王が対戦相手の国を訪問するなど有り得ない。卑弥呼は209年に24歳で即位し255年崩じ、3年間弟の長男が王位を継承したけれど治まらず、卑弥呼に王位を譲った本家の媛の壱与が259年に13歳で即位し、卑弥呼の都は志賀島の対岸の汽水域にあり、壱与の都は香椎宮だ。
『三國史記』 卷第二 
阿達羅尼師今 「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」
奈解尼師今 「十三年 春二月 西巡郡邑 浹旬而返 夏四月 倭人犯境 遣伊伐飡利音 將兵拒之」
『日本書紀』
景行天皇十二年 「到周芳娑麼・・・故號其處曰京也」
景行天皇十八年 「故八女國之名由此而起也 昔筑紫俗號盞日浮羽」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年 
「皇后欲撃熊鷲而自橿日宮遷于松峽宮・・故時人號其處曰御笠也・・至層増岐野即擧兵撃羽白熊鷲而滅之」
『室見川銘板』 「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」
『後漢書』 
「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
『三国志』
「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
「倭女王卑彌呼與狗邪國男王卑彌弓呼素不和・・・遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之」
「十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 百姓不得安居 吾欲與百濟謀 一時浮海 入撃其國」

倭国は壱与の頃から百済とは友好関係のようだが中国の冊封体制に入らない大倭国と友好関係の新羅・高句麗を侵略し、大倭国が崩壊後は中国の官位を得るため一層侵略に力を入れ、409年から賛・438年から珍・443年から斉・451年から興・477年から武が王となって猟官活動をして扶桑国より優位に立とうとしたのだろう。珍以降は計算と朝貢の年があっていて賛の即位時、腆支王5年409年と同時の訪中考えられる。
『三國史記』
百済本紀第三 腆支王 「五年 倭國遣使 送夜明珠 王優禮待之」
『宋書』
元嘉十五年 是歳 武都王・河南國・高麗國・倭國・扶南國・林邑國並遣使獻方物
元嘉二十年  是歳 河西國・高麗國・百濟國・倭國並遣使獻方物
元嘉二十八年 秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍
昇明元年 冬十一月己酉 倭國遣使獻方物

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