2017年11月13日月曜日

最終兵器の現天皇家の古代史 俀国

 倭国は筑後川北岸・福岡平野より西が領域で、倭国建国時に甕棺墓から木棺や石棺に出土物が変わり、5世紀までは横穴石室や須恵器は福岡平野に限定されていたのに対し、銅鐸・三角縁神獣鏡・前方後円墳、肥後の彩色古墳を受け入れていた。6世紀になると横穴石室や須恵器が肥後方面に広がったけれど、丁度そのころ筑紫国造の磐井が火・豊国を侵略している。そして、磐井は殺害されて子の葛子が糟屋の屯倉を献上して許されたけれど、負けたはずの葛子は出世して筑紫君になった。そして、その継体天皇の記事に九州と本州の分割、すなわち分割して物部麁鹿火が九州を取れと相談しているのに葛子が盗ってしまった。これは天皇の言葉ではなく物部麁鹿火が本州を取り葛子が九州を取れという相談としか結果を見ると考えられない。物部麁鹿火が継体天皇と考えると、応神天皇5世の孫、すなわち扶桑国の天皇が応神天皇と書いていることから、神倭国最後の天皇も同世代の応神天皇(最後の大臣・最初の大連の大新河)で5世の孫と記述しているように大倭国の子孫と書いている。そして、その、麁鹿火から継承した九州の王朝・倭国王朝は大倭の名前を受け継いで「俀国」と呼び、麁鹿火は先祖の宇摩志麻治が建国した神倭国の神を使って「秦王国」としたと思われる。
『日本書紀』
継体天皇二一年六月甲午 「於是筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・於是磐井掩據火豐二國」
継体天皇二一年八月辛卯朔 「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」
継体天皇即位前紀 「男大迹天皇 更名彦太尊 譽田天皇五世孫 彦王人王之子也」

「俀国」王は筑紫君葛子・火中君・筑紫火君と秦王国では呼ばれたが、「俀国」王は自ら「大王」と呼び、新しい王朝の隋に対しては同等の立場と自ら皇帝と呼んだ。そして、天皇の名前があるのにもう一人の天皇の名前が解らないのは片手落ちで、すなわち、タリシヒコ・法興帝とその弟で皇太子のリカミタフツリ・聖徳法王で倭国の伝統の皇太子イコール天皇と同等だ。王と皇太子は一心同体・ワンセットの天皇で、長男でない場合立太子を行い、欽明天皇の立太子は筑紫火君で欽明天皇29年は聖徳太子の死後の推古29年のことで、長男の彦人は長男でありながら水派宮に出ているので立太子し、推古元年の立太子は聖徳太子・上宮法皇のことだ。
『日本書紀』
欽明天皇十五年正月甲午 「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」
欽明天皇十七年正月 「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」
敏達天皇即位前紀 「廿九年立爲皇太子」
用明天皇二年四月丙午 「遂作太子彦人皇子像與・・・歸附彦人皇子於水派宮」
推古天皇元年四月己卯 「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」
『隋書俀国伝』
「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌・・・俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟・・・名太子為利歌彌多弗利」
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月・・・上宮法皇枕病弗悆・・・翌日法皇登遐」

俀国は606年に隋と決裂して中国との冊封体制から外れ、火君・火中君に対する、おそらく豊君すなわち蘇我氏が倭国として中国の冊封体制に組み入れられ、大業4・6年、 貞觀22年と647年まで訪中し、670年国名を日本に変更している。
『隋書』
俀国伝 「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」
帝紀第三 煬帝上 
「大業四年 三月・・・壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。六年春正月 己丑,倭國遣使貢方物。」
『舊唐書』 「貞觀・・・二十二年 又附新羅奉表 以通起居」

そして、俀王は物部氏(秦王国)を滅ぼしたにもかかわらず彦人が蘇我氏に殺害されたりして天皇になることができず、俀王はナンバー2の地位に甘んじていた。倭王の蘇我氏が百済にテコ入れしたため白村江の大敗戦となり、乙巳の変で俀王は皇位を取得し、壬申の乱で名実ともに日本の天皇となり大倭国と秦王国が使用していた日本国を国名としたが、唐の進駐で筑紫都督府が実権を握っていたため、改元できなかった。
次周からは秦王国と俀国と倭国の関係を考古遺物から考えるため古田史学で発表した論文と発表を拒絶(発表者が多い・発表するなら来年度から会員になれ・会員は古田史学から逸脱するな)されたので、発表のため準備した論文の抜粋を発表する。

0 件のコメント:

コメントを投稿