2026年5月27日水曜日

最終兵器の目 新しい真実の古代 『三国志』の距離はデタラメ?1

  「魏志倭人伝なんて 距離がめちゃくちゃだよ」。そう言って、ふいに話を打ち切ろうとする人に、何度出会ってきたことか。たいていの場合、決まり文句のように持ち出されるのが、あの「混一疆理歴代国都之図」。歪んだ地形。東と南が、どこかゆがんだ世界。目にするだけで、つい言いたくもなる。「これで 魏の使節が本当に来られる?」

しかし、そこには、見落としていることがある。たとえば、『三国志』の一節、「一大国 方可三百里」。これは、領域の直径が300里ほどとする記述である。現代の壱岐を見れば、東西約15km、南北約17km。単純に計算すると、1里は53メートル、およそ50メートル。400メートルではない。もうひとつ。狗邪韓国(いまの釜山)から対馬北端の鰐浦までの海路は約49.5km。『三国志』には「千餘里」とある。これもまた、1里=50mで、少ないけど、おおよそ同じだ。

となると、魏の編者たちは、数字を想像で並べていたのではなかった。むしろ、彼らは足で測り、体で数えていた。彼らが記していた「里」は、後代の一里400mではない当時の短い「里」。彼らが記録したのは、地図ではなく、風と土地の記録であった。しかも、彼らは「島全体」を測っていたわけではない。実際に踏み入れ、観察した場所だけを記していた。 

たとえば、対海国。『三国志』では「方可四百餘里」、一里50mなら約20km。しかし、対馬全体の長さは約82km。幅は約16km、どうして記録は一部分だけを語るのか? それは、使節が上陸したのが「下県郡」であったから。そうすれば、狗邪韓国から対馬厳原町小茂田までの距離、約55kmで千余里。彼らが歩いた範囲が、彼らの世界のすべてだった。

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