2025年10月31日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇3

     高麗國貢鐵盾鐵的」の仁徳十二年秋七月辛未朔癸酉は九州の日干支である。『晋書』には七月壬申朔と記述され、晋書に合わせれば七月辛未晦となる。訖解尼師今三年「倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」と倭国は皇女を妃に迎えて友好関係だったのだから、新羅人が朝貢し、勞役させ、高麗との通商の邪魔をしなかった。八月庚子朔己酉は正しい日干支で、「饗高麗客於朝」と高麗の客人は近江朝に遣って来た。

仁徳十六年秋七月戊寅朔は九州や吉備の日干支で、物語も播磨國造の祖の速待と玖賀媛の説話である。仁徳卅年秋九月乙卯朔乙丑は正しい日干支で、「遊行紀國」と紀国に遊びに行き、帰って難波に着いた皇后が上陸せず川を引き返して山背そして倭に向かった。紀国の方に引き返して山背・倭に向かったように、紀国は淀川・宇治川の上流で、近江の暦だから正しい日干支である。

仁徳卅年冬十月甲申朔も九州の日干支で、的臣の祖の口持臣の説話で、口持臣は『百済本記』に記述される人物である。注釈では「和珥臣祖口子臣」と和珥臣とも記述し、仲国王の襲津彦東征の仲間だ。河内には倭国、日向・宇佐・安芸、吉備、但馬の神武東征で稚足彦と足仲彦の軍勢が居た。

仁徳卅年十一月甲寅朔庚申は正しい日干支で、「天皇浮江幸山背」と記述され、皇后は筒城宮に滞在中である。すなわち、天皇は難波から追い出されて、紀角(木菟)宿祢の元に逃れ、難波高津宮には神武東征軍が占拠したのだろう。『古事記』の355年に崩じる若帯日子の時代、武内大臣、おそらく、意乎巳大臣の頃に帯中日子と息長帯日売が難波から女国の宇治川沿いを制圧したのだろう。仁徳卅一年春正月癸丑朔丁卯の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」は九州の王朝交代と考えられる。阿知使主が畿内で活躍するのだから、都加使主に王朝交代したのだろうか。

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