2025年10月15日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后2

  西暦201年神功摂政元年冬十月癸亥朔甲子は正しい日干支で、「尊皇后曰皇太后是年也太歳辛巳則爲攝政元年」と神功元年と呼んだ。しかし、『舊事本紀』は十月丁巳朔甲子と間違いの日干支で、「改為攝政元年」は「大歳辛巳」の十月の日干支ではない。正しくは西暦202年壬午年である。『舊事本紀』の元年は「物部多遅麻連公為大連」の記録で、多遅麻纏向天皇元年である。西暦201年三月丙申朔庚子は正しい日干支で、武内宿禰と和珥臣の祖の武振熊が山背から菟道で忍熊と戦い、その結果、勝利した。そして、翌年、多遅麻が大連天皇になったのだから、忍熊が纏向天皇か纏向皇太子だった。多遅麻は纏向天皇の五十琴彦(五十功彦)の娘の安媛の婿の多遲摩國造の祖の大多牟坂である。多遅麻の孫は莵道稚郎で、莵道稚郎の祖父は丸迩の比布禮大臣なので、多遅麻は和珥大臣である。すなわち、多遅麻と莵道稚郎の母の山無媛の間の90年程度の何処かで和珥臣の祖の武振熊の子達と婚姻関係を結んだと考えられる。

神功二年冬十一月丁亥朔甲午は正しい日干支で、「葬天皇於河内國長野陵」の被葬者は難波根子と考えられ、弟媛の父の大酒主、恐らく、武内宿禰の義父の珍彦と考えられ、木国造が山代に移住したと考えられる。

神功三年春正月丙戌朔戊子は間違いの日干支で、「立譽田別皇子爲皇太子」は卑弥呼の死後3年間、男王が倭国を治め、男王に替わって壹輿が王になったことを示す。この正月丙戌朔の日干支は234年の日干支で、纏向朝廷から磐余稚櫻宮朝廷に替わった。天皇は「都於磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連」と五十琴宿祢で、多遅麻の娘の香兒媛に婿入りしたとある。しかし、名前や世代から考えると五十功彦の娘、香坂の妹ではないだろうか。

 

年候補

丁巳10月朔日 109 166 202 233 290

丙戌1月朔日 43 110 167 234 296

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