2025年10月24日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇2

応神十九年冬十月戊戌朔の「幸吉野宮時國樔人來朝之」は正しい日干支である。國樔人を接待するのだから、この吉野宮は首都近辺で、奈良県の吉野ではなく、私は日吉大社を想定した。応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」、秋九月辛巳朔丙戌の「天皇狩于淡路嶋」も正しい日干支である。この時期は新羅との戦乱が続いているので、倭に対する警戒が不要の為、平穏である。

西暦306年応神卅七年春二月戊午朔は間違いの日干支で、「由是得通呉呉王於是與工女」と呉との通商だ。神功皇后の外交史は神功皇后元年を西暦321年としないと朝鮮史と合致しない。東晋も西暦317年建国で、306年はまだ晋朝でなければ相応しくないが、西暦399年ならば、合致する。阿知使主は去來穗別の即位時に近くで仕えたのだから、西暦399年はよく符合する。倭も朝鮮で戦うには、畿内とは和平が必要だったのだろう。

応神四十年春正月辛丑朔戊申の「立菟道稚郎子爲太子之情」は正しい日干支だが、『舊事本紀』は三十年春正月辛丑朔戊申と記述される。皇太子を決めた記述は倭王朝の交代を示していた。本来は西暦299年応神三十年の1月8日に印葉が大臣になった記録なのだろう。

応神四十一年春二月甲午朔戊申は九州や吉備・河内の暦である。「天皇崩于明宮・・・一云崩于大隅宮」とあるように、大隅宮なら応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」と符合する。西暦291年に尾綱根の豐明王朝から大隅宮朝廷になったことを示し、豐明王朝は丸迩の比布禮大臣の王朝になったと考えられる。

 

年候補

戊午2月朔日 156 213 280 337 399 523

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