日本武は『古事記』の3人の太子や纏向朝・磯城朝の太子を合体させた人物と考えられる。西暦95年景行二十五年に日本武は草薙横刀を受け取り、すなわち、将軍に任命されたことを示す。初代膽咋が日本武ならば、五十琴が生まれているので、二十代後半の年齢で将軍になったようだ。景行五十三年秋八月丁卯朔も正しい日干支だが、「冀欲巡狩小碓王所平之國」が西暦123年では間延びしてしまう。西暦97年景行二十七年ならば東国征服開始に相応しそうである。伊勢から東海へ出発し、十月に上總國、十二月に東國から伊勢の綺宮に帰った。垂仁妃の山背大國の娘の綺戸邊の宮の兩道入姫の宮(母の宮)で寛いだようだ。五十四年秋九月辛卯朔己酉の「自伊勢還於倭居纒向宮」は間違いの日干支で西暦98年が相応しいようだ。
景行五十五年春二月戊子朔壬辰の「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」は<景行天皇4>の項で述べたように、151年成務二十一年であった。翌年「御諸別汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨故汝専領東國」と御諸別が受け継いだ。
西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥、この日干支は正しい日干支で、恐らく、初代膽咋の日本武が薨じ、孫の大臣になる二代目膽咋が高穴穗宮の鴨姫に婿入りしたのだろう。成務元年に膽咋が大臣になっているのだから、師木天皇の建忍山垂根が崩じたのだろう。
『舊事本紀』も全く同じで、朔の日干支を使っている。師木天皇の記録であることを示している。
年候補
丁卯8月朔日 30年 97年 123年 154年 216年 340年
辛卯9月朔日 31年 98年 155年 222年 279年 341年
戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275年
0 件のコメント:
コメントを投稿