西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥幸は正しい日干支で、「近江國居志賀三歳是謂髙穴穂宮」と穴穂へ遷った。西暦130年景行六十年冬十一月乙酉朔辛卯も正しい日干支で、天皇が崩じた。そして、西暦131年成務元年春正月甲申朔戊子、これも正しい日干支で即位した。『舊事本紀』は「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」とあるように、天皇は膽吐大臣である。
西暦132年成務二年冬十一月癸酉朔壬午も正しい日干支で「倭國之山邊道上陵」に葬られた。山邊道上陵は崇神天皇と同じ場所で、当然師木にあり、古代の男子は母と同じ土地に埋葬された。西暦133年成務三年春正月癸酉朔己卯、これも正しい日干支だが、「以武内宿禰爲大臣也初天皇與武内宿禰同日生之」、武内宿禰が大臣になった。これは、319年に葛城氏を継承した若帯日子で、292年が相応しい。年齢を比較しているのだから、天皇と若帯日子(武内宿祢)は別人で、天皇は印葉大連だろうか。291年に葉田葦守宮に移っていて、よく合う。
西暦134年成務四年春二月丙寅朔は九州の日干支で、「國郡立長縣邑置首」と各地の首長を決めた。そして、五年秋九月に「則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横」と国境を決めた。縦横の境を決めるためには、鏡での測量が必要で、九州には中国から輸入した漢式・後漢式の鏡があった。畿内は景初四年鏡が有るように、230年代頃から神獣鏡の作成が始まったと考えられ、測量は不明である。九州では国境の線引きを強行したために、戦乱が起こり、「桓霊之間」の倭国大乱に繋がったと考えられる。成務四十八年春三月庚辰朔の立太子も九州の暦で、倭王朝交代の記述だ。
年候補
癸酉12月30日 292年 1月朔日 324年 350年
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