神功五年春三月癸卯朔己酉の日干支は間違いの日干支で、新羅王が汗禮斯伐を派遣した。この日干支に相当するのは西暦112に祇摩尼師今が新羅王に即位している。前王の人質を返してもらうように、新しい王が使者を派遣するのは当然のことだ。その記録に西暦355年に襲津彦を百濟に送った記録を併せた可能性がある。
神功十三年春二月丁巳朔甲子も間違いの日干支で、内容は「命武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神」である。息長帯日売の伊奢沙和氣大神と御食津大神の名前交換の説話の時の内容と考えられる。二月丁巳朔の日干支は西暦363年が相応しく、帶中津日子は361年壬戌年の六月十一日に崩じ、河内惠賀長江に葬られた。神功二年冬十一月丁亥朔甲午の「葬天皇於河内國長野陵」は正しい日干支だったが、吉備や九州の暦なら西暦362年10月30日に当たる。
西暦246年神功四十六年春三月乙亥朔の「遣斯摩宿禰于卓淳國」は九州の暦の日干支で、正始六年西暦245年に『三國志』「倭難升米黄幢付郡假授」と印を仮授された。翌年、魏朝配下の王として、対朝鮮外交を推し進めるのは、理に適う。
神功五十二年秋九月丁卯朔丙子「七枝刀」説話は間違いの日干支で、朝鮮説話の神功五十二年は西暦376年にあたる。9月30日なのだろうか。「泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■」の泰■四年十■月十六日を日本の元号秦和四年、旧暦372年七月十六日丙午の日に作刀したと考えた。日本は既に元号を持っていて、376年に九州倭国から石上神宮に奉納されたと考えられる。268年の秦始も369年の太和も7月16日は丙午でない。神功皇后の朝鮮記事は西暦321年を元年として記述されている。『二中歴』の継体元年以降は俀国の元号、紀元前53年から始まって西暦71年に改元したのは畿内の元号だったのでは?
年候補
癸卯3月朔日 45 112 169 236 355 422年
丁巳2月朔日 177 239 306 363 430年
丁亥10月30日 238 269 362 393 486年
376年丁卯朔候補日 9月晦日30 12月朔日(252年8月晦日)
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