前項で、七支刀の記録が旧暦372年の記録としたが、その他の朝鮮関連の記録も神功元年が西暦321年とするとよく符合する。神功五十二年の七支刀は372年近肖古王27年に阿莘王が生まれた記念に作成したと考えた。近肖古王27年28年は「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢し、倭には七支刀をプレゼントしたのだろう。阿莘王は枕流王が崩じた385年、「太子少故叔父辰斯卽位」と若かったため王になれなかった。太子なのだからこの時13歳以上20歳未満、392年に阿莘が20歳以上なので王になれたのだから、371か372年に阿莘王が生まれたのならよく符合する。
神功皇后五十五年は375年に当たり、「百濟肖古王薨」、そして、神功皇后五六年は376年に当たり、「百濟王子貴須立爲王」と記述されるが、『三国史記』「近仇首王一云諱須近肖古王之子」と須(近仇首王)が即位した。神功皇后摂政六四年も384年に当たり、「百濟國貴須王薨」とあるが、近仇首王が崩じ、神功皇后摂政六五年も385年に当たり、「百濟枕流王薨」とあり、枕流王が崩じた。
すると、神功皇后四十七年夏四月の「百濟王使久氐」は367年、神功四十九年春三月の「撃新羅而破之因以平定比自㶱南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」の記事も369年の可能性が高い。同様に390年即位の応神が存在し、392年に応神天皇三年、「百濟國殺辰斯王以謝之」記事、405年に応神天皇十六年の「百濟阿花王薨」記事、420年に応神天皇二五年、「百濟直支王薨」記事と記述された。
神功六十九年夏四月辛酉朔丁丑の「皇太后崩」も、冬十月戊午朔壬申の「葬狹城盾列陵」も正しい日干支である。『舊事本紀』には「追尊皇太后日氣長足姫」と、既に皇太后の氣長足姫に皇太后を追号と矛盾がある。矛盾は皇太后が崩じたのではなく、崩じたのは天皇で、埋葬場所が成務天皇と同じなのだから、木國の徳勒津宮天皇の品陀真若だろう。皇太后になったのは金田屋野姫、神功皇后は卑弥呼と壹輿を『日本書紀』は想定している。西暦289年、『晉書』の「東夷絶遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻」が新しい倭王の誕生と考えられ、その前年に壹輿は崩じたのだろう。王が交代した時に遣使するのは理に適う。
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