西暦190年政務六十年夏六月己巳朔己卯は正しい日干支で「天皇崩」と高穴穂宮の成務天皇が崩じた。『舊事本紀』も正しい日干支で記述しているので、纏向宮の記録ではないようだ。そして、西暦192年仲哀元年春正月庚寅朔庚子も正しい日干支で、「太子即天皇位」と仲哀天皇が即位した。同年秋九月丙戌朔も正しい日干支で「尊母皇后曰皇太后」と首都が変わって、前の首都の皇后を皇太后と呼んだ。
そして、仲哀二年春正月甲寅朔甲子も正しい日干支で「立氣長足姫尊爲皇后」と氣長足姫を皇后にした。しかし、仲哀朝では、大連も大臣も賜姓されず、武内大臣が記述されるのみである。神功皇后は金田屋野姫、夫が品陀真若で皇位に就いていない。仲哀天皇は襲名した武諸隅と五十琴姫の子の五十功彦の可能性が高い。皇后は「大酒主之女弟媛」と木国造の宇豆彦道彦男(忍山垂根)が平群県の紀里に移住し、その忍山垂根の孫が弟媛と考えられる。西暦201年神功元年に多遅麻が纏向大連を賜姓され、多遅麻は武諸隅の子と記述されるが、武諸隅は襲名した五十功彦、その娘婿である。五十功彦の娘は五十琴彦の娘と記述される安媛と考えられ、婿が多遅麻である。纏向は桃の種の年代測定で240年頃まであった。
仲哀元年冬十一月乙酉朔の日干支は九州や吉備、吉備の勢力下の河内の日干支で、その地域の白鳥の説話である。大帯日子の項に河内舊市邑や河内國の志幾の白鳥御陵の説話があり、この白鳥陵の地域の説話だろう。
帯中日子か息長帯日売かよく解らない崩御年の西暦382年壬戌年の六月十一日に河内の惠賀の長江に埋葬された。帯中日子は直ぐに埋葬できず、その翌年の383年10月30日が仁徳七十一年十一月乙酉朔に、長江襲津彦を埋葬した日ならよく合致しそうである。192年の説話は長江襲津彦の説話の可能性がある。十一月乙卯朔も西暦383年11月1日、10月の晦は29日である。
年候補
乙酉10月30日 192年 259年 316年 383年
乙酉11月朔日 223年 347年
0 件のコメント:
コメントを投稿