2025年10月10日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇2

  西暦193年仲哀二年二月癸未朔戊子も九州の日干支で吉備の王が角鹿笥飯宮を訪問したようだ。その王に淡路屯倉を奪われ、太子は九州へ、子の日向襲津彦は安芸で仲国王となり、そして、山代に進出したのだろう。

西暦193年仲哀二年三月癸丑朔丁卯も正しい日干支で、「天皇巡狩南國」、「紀伊國而居于徳勒津宮」、勿論、角鹿から南方の野洲近辺の木国の徳勒津宮、品陀真若の宮に出向いた。そして、協力して穴門へ熊襲を撃ちに出発した。

西暦193年仲哀二年夏六月辛巳朔庚寅も正しい日干支で、神功皇后は穴門豐浦宮に到着した。仲哀二年秋七月辛亥朔乙卯も正しい日干支で、「皇后泊豐浦津」と穴門に滞在していた。景行二七年冬十月丁酉朔は195年の記事と考えられ、「日本武尊令撃熊襲」、と熊襲を撃った。『舊事本紀』の神武前紀の已未年春二月辛卯朔庚辰は西暦197年の記事と考えられ、「道臣命率軍兵而撥伏逆賊之狀奏矣」と大伴氏と日向襲津彦が熊襲の乱を平定したのだろう。『舊事本紀』の神武前紀已未年三月辛酉朔の「自我東征於茲六年矣・・・中州之地無復風」は道臣の安芸平定の説話で西暦197年仲哀六年の説話と考えた。3月2日が辛酉だが、2月は小の月、3月1日が晦日と『日本書紀』の編者は理解したと考えた。

仲哀八年春正月己卯朔壬午の日干支は正しい日干支で、「幸筑紫」との説話があり、岡縣主の祖の熊鰐が記述される。遠賀川周辺が熊国(旧狗奴國)、その王が鰐君(和迩君)なのだろう。遠賀川周辺が筑紫、日向から「天皇將向京以巡狩筑紫國」、この京は京都郡が筑紫に含まれ、筑前・豊前の京都郡の北が元々の筑紫と解る。そして、橿日宮へ向かうが、その地は儺縣で筑紫とは別国、そこの王が夏磯媛、儺津の壹襲の女王の卑弥呼、橿日宮で女王を追認した。すなわち、狗奴国と邪馬台国を大倭王が仲裁したのだろう。

 

年候補

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

辛卯2月朔日 -698 -605 -512 -481 -388 -295 -264 -202 -171 -145 -78 -47 47 73 197 233

辛酉3月朔日 -698 -631 -574 -538 -512 -388 -321 ・・・171 -78 16 47 140 171 233

辛酉230 -786 -688 -662 -569 -445 -352 -228 -104 -42 -11 83 207

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