2025年10月29日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇2

  仁徳四年秋八月己巳朔丁丑は正しい日干支で、「爲大兄去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部」とあるように、壬生部と葛城部を定めた。壬生部は推古天皇十五年にも定めていて、要するに、政権が追認したことを示す。すなわち、この仁徳時の壬生部は大和以外、葛城と同時に定めたのだから、近江の葛木に定めたと考えられる。そして、大兄去來穗別は次代の天皇、部を造るのは分家ということを意味し、大兄去來穗別が葛木の姫に婿入りしたことを示す。分家の相応しい人物が「葛城野伊呂賣」の()子の伊奢能麻和迦で、黒比賣の婿だろう。仁徳四年秋八月己巳朔丁丑の日干支は九州・河内の暦の西暦386年7月30日が晦の己巳朔が最も相応しい。これなら、襲津彦が30歳代後半、葦田宿禰が伊奢能麻和迦で葛城部を賜姓されても矛盾がなく、黒媛の婿の去來穗別の即位が20歳を超えている程度になる。

仁徳十一年夏四月戊寅朔甲午は閏3月1日で、「是國者郊澤曠遠而田圃少乏且河水横逝以流末不駃聊逢霖雨海潮逆上而巷里乘船道路亦泥」と記述する。この記事は水路を掘り、溜池を掘って、残土で大量の古墳を造った河内を示している。

すなわち、仁徳七年夏四月辛未朔の「天皇居臺上而遠望之烟氣多起」で徴税を始めたのは、裕福になったからではなく、徴税出来る権力を握ったことを示したと解る。そして、河内が正しい日干支を使ったということは、河内の政権が正しい日干支を使う政権に代わったことを示し、仁徳十一年ではなく、西暦354年仁徳四十二年と考えられる。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅は正しい日干支で、「立八田皇女爲皇后」と皇后が代わり、難波が和珥氏印葉の王朝に代わり、用水や溜池を造ったと考えられる。すなわち、仁徳天皇は河内の志幾大縣主の大別となったようだ。

 

年候補

己巳7月晦日30 169 293 386 510

戊寅4月朔日 230 261 354 421 447

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