2025年10月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇5

『舊事本紀』の景行三十六年八月の「大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫今為妃」の記事は当然膽咋がまだ大臣ではない。初代膽咋と比咩古の娘の五十琴姫が10代半ばである。五十琴姫は膽咋と比咩古の娘の清媛なのだろう。纏向天皇の物部武諸遇の妃である。

西暦110年景行四十年の夏六月に「東夷多叛」、秋七月癸未朔戊戌の日干支は正しい日干支で「今東國不安」東国の現状を記述している。同じく、冬十月壬子朔癸丑も正しい日干支で「日本武尊發路之」と日本武が東国に出発した。<景行天皇4>の項で述べたように、彦狹嶋が151年に東山道十五國都督に賜姓された。そして、彦狹嶋は赴任地に向かう途中に薨じてしまうのだから、110年に10代の彦狹嶋が東国に向かったのだろうか。そして、彦狹嶋に代わって、子の御諸別が受け継いだ。

景行五十一年春正月壬午朔戊子も正しい日干支で、西暦109年景行三十九年に太子が生まれたと述べた。109年景行三十九年生まれなら、西暦121年景行五十一年は13歳、太子になれる年齢である。「時皇子稚足彦尊武内宿禰不參赴于宴庭」と膽咋が纏向の朝廷に仕えた。

景行五十一年秋八月己酉朔壬子も正しい日干支で西暦121年に「立稚足彦尊爲皇太子」は倭国の王朝交代で、それに、日本武に草薙横刀を与えた記事が付加されている。日本武に横刀を渡したのは倭姫だが、116年に五百野皇女に女王は交代している。ところが、景行五十一年秋八月己酉朔壬子の日干支が間違いなら、西暦95年景行二十五年が相応しい。

景行五十二年夏五月甲辰朔丁未は正しい日干支であるが、「皇后播磨太郎姫薨」は吉備の出来事、新しい皇后が秋七月癸卯朔己酉とこれも正しいが、共に吉備の日干支と考えれば、西暦91年が相応しい。91年に大帯彦は師木王朝の八坂入媛の娘を迎え入れた。師木王朝が分家の建忍山垂根(大碓)と妃の弟姫に政権が遷ったことを示しているのだろうか。

 

年候補

己酉8月朔日 2年 95年 121年 245年 281年 338年 369

甲辰4月晦日30日 91年 215

甲辰5月朔日 55年 122年 179年 184

癸卯6月晦日30日 34年 65年 91年 158年 215

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