2025年9月29日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇4

  景行廿年春二月辛巳朔甲申は間違いの日干支で西暦116年景行四十六年と考えられる。「遣五百野皇女令祭天照大神」とあるように、伊勢遺跡の皇大神宮を三尾君の始祖の磐衝別と兩道入姫の子の磐城別の妹、兩道姫の妹の五百野皇女が倭姫に替わって祀ったようだ。

景行廿五年秋七月庚辰朔壬午は正しい日干支だが、武内宿禰は成務三年、大臣になったのであるから、凡そ110年以降でないと理に適わない。「<景行天皇1>の項で西暦109年景行五十年に九州・吉備の暦で武内宿禰が生まれたと結論付けた。それを考えれば、成務元年西暦131年6月30日の日干支が相応しい記事が「遣武内宿禰令察北陸」で、成務三年131年に大臣になった。ただし、実際の大臣は物部胆咋宿祢で、武内大臣なら319年だろう。

景行廿七年春二月辛丑朔壬子の「武内宿禰自東國還之奏言」は間違いの日干支である。東国に関しては、景行五五年二月戊子朔壬辰に東国の都督を賜姓している。この景行五五年二月戊子朔も間違いの日干支で151年成務二十一年が相応しい。すると、景行廿七年二月辛丑朔は128年景行五十八年が相応しく、大臣が128年に東國視察、131年北陸視察、151年に彦狹嶋を「東山道十五國都督」に賜姓した。

景行二七年冬十月丁酉朔己酉も間違いの日干支で、128年と195年とを併せた記事と考えられる。128年に膽咋が弟彦(大玉)を後ろ盾に高穴穗宮に婿入りし、131年成務元年大臣になった。そして、195年に仲哀天皇が「撃熊襲」と熊襲と戦ったと考えられる。

景行廿八年春二月乙丑朔も間違いの日干支で、191年、仲哀元年の前年に日向襲津彦から和訶奴氣が襲津彦の名を襲名して、仲国王・帯中日子になったと考えられる。熊襲建の名前を貰ったのではなく、襲津彦の名を貰ったと考えられる。

 

年候補

癸酉2月朔日 45年 138年 169年 195年 262年 319年 386

辛巳2月朔日 -71年 116年 209

辛丑2月朔日 4年 128年 190年 247年 314

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

乙丑2月朔日 67年 124年 191年 248年 377年 

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