2025年9月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇2

  前26年垂仁四年秋九月丙戌朔戊申に「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」と記述される。狹穗姫は纏向の皇后なので、大和神社を創建した淳名城入姫に比定される。「皇后母兄狹穗彦王」と皇后の淳名城入姫の母の大海媛の兄の建諸隅が狹穗彦と記述する。

崇神六十五年に大連に即位した建諸隅が狹穗彦だろう。大和神社は大國魂神を祀り、市磯長尾市が大國魂を祀ったので、狹穗姫の子の譽津別の後裔は市師宿祢の祖の穴太足尼、穴太宮天皇と考えられる。

前25年垂仁五年冬十月己卯朔に『舊事本紀』「狹穗彦與妹皇后共死」と天皇の狹穗彦(2代目も)は崩じた。狹穗彦が天皇になっても遷都していないので、狹穗彦は師木の天皇である。しかし、前23年垂仁七年秋七月己巳朔乙亥の「左右奏言當麻邑有勇悍士曰當麻蹶速」とあるように騒乱があった。後継者の八坂入彦が纏向天皇と争ったのだろう。そして、前15年垂仁十五年春二月乙卯朔甲子に「喚丹波五女納於掖庭」、秋八月壬午朔の「立日葉酢媛命爲皇后」とあるように、皇后が代わった。丹波の姫なのだから、首都は師木なので、師木の天皇が交代した。

垂仁天皇の妹の日葉酢媛・豐耜入姫が師木の皇后と考えられ、前5年垂仁廿五年三月丁亥朔丙申の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」の記事は倭姫の夫と考えられる五十瓊敷入彦に天皇が代わったのだろう。豐城入彦は崇神六十五の「武諸隅命為大連」の時に太子、垂仁元年に天皇なので、廿五年後に義兄弟の八坂入彦もかなり老齢になっていたと考えられる。垂仁十五年の日葉酢媛皇后も、2代目なのだろうか。

『舊事本紀』は前7年垂仁二十三年秋八月丙申朔已亥に「大新河命為大臣」、丁巳に「大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と、纏向珠城宮の大連に就いた。この日干支は7月朔日の日干支、他の候補として、9月2日、紀元25年垂仁五十四年がある。妃が木国造りの荒川戸俾の娘、豐城入彦の母も紀伊國荒河戸畔の娘なので、豐城入彦を継承したのだろう。苅幡戸邊の子の祖別は兄弟に五十日足彦(伊香色雄の後継)が存在し、大新河にピタリの人物だ。豐城入彦の年齢から考えれば、吉備の記録で、垂仁二十三年前7年9月2日の朔の日干支でよさそうだ。(8月は29日までで9月1日が晦日)

 

日干支候補

「垂仁二十三年秋八月丙申朔」-77月朔1日 丙申に対する-789月の日干支

7月晦日30日 乙丑 8月朔1日 丙寅 82日 丁卯

8月晦日29日 甲午 9月朔1日 乙未 92日 丙申

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