西暦1年垂仁卅年春正月己未朔甲子は正しい日干支の、「天皇詔五十瓊敷命大足彦尊曰汝等各言情願之物也」と皇位継承の記述がある。この記事は垂仁廿八年に薨じた倭彦を後継した五十瓊敷入彦が継承したのだろうか。弓矢は天皇の璽の象徴、それを五十瓊敷入彦は大中姫に継承させた。朝廷の統治を五十瓊敷、大足彦が敗れて大国王になった。結果的に大足彦は播磨稻日大郎が住む播磨入りしていて、五十瓊敷に敗れている。大足彦が播磨に入って、大国が琵琶湖から西へ移動した。
西暦3年垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯は正しい日干支で「皇后日葉酢媛命薨」の記事である。それに続く、5年垂仁卅四年春三月乙丑朔丙寅も正しい日干支の「先是娶山背苅幡戸邊」と皇太后が代わった。苅幡戸邊が倭彦の妃、綺戸邊が倭比賣なのだろうか。
西暦8年垂仁卅七年春正月戊寅朔は九州の日干支で、「立大足彦尊爲皇太子」は九州倭国の王朝交代である。
『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に該当する朔日近辺の日干支は全く無い。記事は「十市根命賜姓物部連公即為大連」、十市根が天皇になった。十市根大連はすでに垂仁二六年にも記述されて、これ以前にある該当する日干支は紀元前30年崇神三十年が相応しかった。『舊事本紀』独自の記述は九州や吉備の日干支は考えられない。
紀元前30年に十市根、世代的に大根が天皇になったのだが、既に、崇神六十五年に武諸隅が大連になっている。ところが、この武諸隅は尾張氏の建諸隅で、物部氏の武諸隅ではないので、『舊事本紀』は十市根を記述し、おそらく、垂仁八十一年に十市根が八坂入媛の婿になったのだろう。紀元前30年は纏向朝と師木朝が分裂した年である。
年候補
壬子2月朔日 -221年 -97年 -30年 -4年 28年 95年閏2月
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