2025年9月19日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇6

天皇崩於纒向宮」、垂仁天皇の崩御の西暦70年垂仁九十九年秋七月戊午朔は間違いの日干支である。『舊事本紀』は西暦70年垂仁九十九年秋七月戊子朔と記述している。異なる日干支を記述していて、『日本書紀』の日干支は西暦73年6月が該当する。そして、『舊事本紀』の日干支も73年の7月の日干支で間違っているが、纏向朝廷は物部氏の大新河の朝廷なので、『舊事本紀』が正確と考えられる。『日本書紀』と『舊事本紀』が異なる日干支を記述するのは2朝廷が存在し、74年に遷都しているので、73年の垂仁天皇の崩御は相応しい。西暦70年垂仁九十九年秋七月戊午朔は73年の8月2日の可能性が高い。7月は29日までの小の月で、8月1日が晦日()、それを2日が朔日と考えたのだろうか。

それに対して、西暦70年冬十二月癸卯朔壬子の日干支が正しい「葬於菅原伏見陵」の記事は対応する73年だった間違いの日干支と矛盾がある。そして、西暦71年景行元年秋七月己巳朔卯己卯も正しい日干支で、「太子即天皇位因以改元」とある。すなわち、師木天皇の五十瓊敷は景行即位前紀に「九十九年春二月活目入彦五十狹茅天皇崩」と6月でも7月でもない2月に崩じた。五十瓊敷を西暦70年12月に陵墓へ埋葬し、十千根大連が天皇になって、穴太に翌年遷都して、改元したのだろう。

『二中暦』に継体元年517年以前に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」と記述された。紀元前53年に元号が始まったが、当然、師木朝廷の元号である。埋葬場所は菅原伏見陵で、野洲には古社に菅田神社、現代に菅原神社が存在する。桜井市の菅原神社は山の中だ。

71年 明年(景行天皇元年辛未)春三月辛未朔壬午は九州の日干支で「田道間守至自常世國」と記述する。田道間守が持ち帰った「非時香菓」は萩市に自生している。萩は拘奴國の領域なのだから、九州の暦に矛盾がない。

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