景行「十八年春三月天皇將向京以巡狩筑紫國」は西暦181年成務五十一年に日向から京都郡にいったことを記した。京都郡近辺を筑紫と呼んでいるので、筑前を筑紫と呼んだのだろう。日向高屋の王は諸縣君、後裔は諸縣君牛諸井、葛木天皇の後ろ盾である。夏四月壬戌朔甲子は正しい日干支であるが、やはり、西暦181年4月朔の日干支と考えられる。
4月3日球磨郡の弟熊を誅殺して兄熊を配下に、11日水嶋を支配下とした。五月壬辰朔も西暦181年5月朔日で、「市鹿文賜於火國造」とあるように、葦北を首都に市鹿文を国造に任せた。『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」の拘奴國から『三國志』の「女王之南又有狗奴國」の狗奴國なのだろうか。領地は熊縣、水嶋、葦北、さらに、阿蘇國、御木國、八女國、浮羽も含み、もちろん、元々の領地の追認だろう。
神功皇后は御笠に陣を張って、熊襲(狗奴國)と戦い、層増岐野、山門縣が戦場であった。山門縣は八女の西、御木(三池)の北で、この地が反抗する最後の狗奴國である。六月辛酉朔癸亥の日干支は正しいのだが、「自高來縣渡玉杵名邑」は181年5月30日が相応しい。秋七月辛卯朔甲午の日干支は間違いの日干支で、「到筑紫後國御木」も181年が相応しい。
景行十九年秋九月甲申朔癸卯も正しい日干支であるが、これも一連の説話と考えれば、182年10月か187年9月である。187年では少々間延びしている。213年9月も候補になるが、この場合は卑弥呼の凱旋で日向の高千穂へ行ったことになる。
仲哀九年に山門縣の田油津媛と田油津媛の兄の夏羽と戦っているが、朔日の日干支が記述されていないため、いつの説話か不明である。夏磯媛・卑弥呼と姻戚関係かと考えられる夏羽との戦いなのだから、熊襲梟と市鹿文の姉の市乾鹿文との戦いの可能性が高い。火國造が夏磯媛卑弥呼の宗家、市鹿文の孫あたりが壹輿なのだろう。
年候補
壬戌4月朔日 88年 181年 212年
壬辰5月 88年 119年 181年 212年
辛酉5月晦日 155年5月29日 181年5月30日 248年5月29日
辛卯7月 119年 181年 248年
甲申9月朔日 187年 213年 244年
甲申8月晦日 156年 280年
甲申朔日 177年7月 182年10月 187年9月
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