『舊事本紀』は西暦71年「元年歳次辛未秋七月皇太子尊即天皇位」と『日本書紀』が元年秋七月己巳朔卯己卯と記述するのと異なり日干支を記述しない。天皇の即位年の基準となる朔の日干支を記述できないのは、異なる王朝の記事だからと考えられる。すなわち、『舊事本紀』に日干支が記述される出来事は、他王朝の記録の可能性が高い。日干支を知っているのに記述せず、気が向くと記述するなどということは考えられない。知識は惜しみなく表記して、優位であることを示す。知っていることはすべて書き、日干支を知らないから書けなかった。
西暦72年、景行二年春三月丙寅朔戊辰の日干支は正しいが、二月は小の月29日までなので、二月の晦日(30日目)が丙寅の吉備・九州の暦だったと考えられる。「立播磨稻日大郎姫」は播磨の姫なのだから、大帯日子の説話と考えられ、吉備・九州の暦である。
西暦73年景行三年春二月庚寅朔も吉備の暦の1月30日の日干支で、「卜幸于紀伊國將祭祀群神祇・・・遣屋主忍男武雄心」と記述される。しかし、武内宿禰は稚足彦の時に大臣になっている。『古事記』の稚足彦は355年崩なので、吉備の暦で290年が相応しい。屋主忍男武雄心は吉備での名が少彦男心で、比古布都押之信の分家と考えられる。
景行四年春二月甲寅朔甲子は正しい日干支であるが、「仍喚八坂入媛爲妃」は世代が異なる。八坂入媛は八坂入彦の娘なのだから、前15年に皇后になった日葉酢媛の娘(大中姫)なので、西暦7年垂仁三十六年が相応しい。纏向朝とは別系統の師木・穴太の朝廷の説話である。垂仁八十七年に十千根が婿入りするまでの51年間は八坂入媛の娘と、五十瓊敷の皇子との婚姻で朝廷を継承したのだろう。冬十一月庚辰朔の正しい日干支の「則更都於纒向是謂日代宮」は前項で述べた景行天皇の遷都、景行元年は穴太への遷都と考えられた。纏向(垂仁・景行)朝は大新河大連が天皇だ。
年候補
庚寅
104年 2月朔 ・・・2月朔 290 1月晦 321年 2月朔 347年 2月朔
甲寅
7年 2月朔 74年 2月朔 100年 2月朔 131年 2月朔
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