景行十二年秋七月の「熊襲反之不朝貢」は倭國が朝貢しなかったことを意味する。以降は九州の記事である。神武即位前の冬十月丁巳朔辛酉は景行三十九年西暦109年が相応しく、「汝誰也對曰臣是國神名曰珍彦」と、おそらく、倭者師木登美豐朝倉の曙立王が和迩君の祖の阿田賀田須の後裔の武日を従えて、景行三十七年西暦107年、漢に朝貢した倭國王帥升を倒したのだろう。
神武天皇即位前紀甲寅年十二月丙辰朔の「至安藝國」記事は成務三十六年西暦166年が相応しく、拘奴國王(豐国王)の日臣武日が安芸王になったと考えられる。景行十二年八月乙未朔己酉は正しい日干支だが、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂」とあるように、西暦146から188年の間の185年成務五十五年に一旦休戦したのだろう。「幸筑紫」と倭国に行幸した。九月甲子朔戊辰、この日干支は175年8月晦と考えられ、「豐前國長峽縣」を破って、「故號其處曰京也」と拘奴國の首都を遷した。『三国史記』や『後漢書』の卑弥呼記事に符合するように、夏磯媛も記述した。周芳→筑紫→豊前は方向がバラバラで、理に適わず、首都を遷したあとの休戦交渉で筑紫の倭王と面談したのなら、筋が通る。十二月癸巳朔丁酉も175年11月晦日、「議討熊襲」と熊襲を撃つ相談をしている。「仍以弟市鹿文賜於火國造」は壹輿の祖母か曾祖母、卑弥呼(夏磯媛)の宗家である。
景行十三年夏五月に「居於高屋宮已六年也」と記述するが、戦いが始まったのは景行十二年で景行八年から首都に4年いた。ところが、175年からなら6年で180年、高屋宮に居住し続けたのなら、符合する。そして、景行十七年春三月戊戌朔己酉は正しい日干支だが、実際は成務五十年西暦180年2月30日なのだろう。「故號其國曰日向也」と大伴氏は日向を支配下にした。
年候補
丁巳 10月朔 -636 -543 -512 -450 -419 -393 -326 -295 -233 -202 -109 -16 16 42 109 166 202 233 290 326 352
丙辰 12月朔 -636 -512 -450 -393 -326 -269 -202 -145 -16 42 109 166 233 290 352
乙未 7月晦日 25 118 185 211
甲子9月晦日 25 149 175 211
癸巳11月晦日 118 175 243
戊戌2月晦日 56 149 180 273
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