纒向珠城宮の天皇は豐城入彦だと思われるが、前69年崇神廿九年春正月己亥朔に「生於瑞籬宮」と生まれた。この生まれならば、42歳で皇后を迎え、後継者を生んだことになる。奇異であるが、崇神四十八年春正月己卯朔戊子の太子選びが13歳以上になっていないとまずいからだろう。立太子は倭国の王朝交代で、太子は13歳以上、成人していないと皇位を継承できないからである。
実際は崇神六十五年春正月の武諸隅命為大連の時に太子の豐城入彦は十三歳以上で垂仁元年に二十歳以上である必要があり、崇神五十年以前に生まれていないと理に適わない。私は、四十八年春正月己卯朔戊子の相続競争が生まれた年ではと考えている。それで、前38年に豐城入彦が太子の年齢に、武諸隅が出雲の神宝を得て前29年皇位に、豐城入彦は纒向に王朝を建てたのではないだろうか。
垂仁天皇は前29年垂仁元年春正月丁丑朔戊寅に「皇太子即天皇位」と即位しているが、この日干支は九州や吉備の日干支である。前天皇の埋葬も『舊事本紀』『日本書紀』は「明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵」、『日本書紀』では垂仁紀にも「冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵」と2度目の異なる記述をしている。「八月甲辰朔」が九州の日干支ならば、2日が甲辰となるのは10月なので、『日本書紀』の垂仁紀は間違えたのだろうか。さらに、「尊皇后曰皇太后」も垂仁元年十一月壬申朔は晦の九州・吉備の日干支で、纒向珠城宮に遷都するまで豐城入彦の記録は出雲神社の記録だった可能性が高い。
『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔の日干支は間違いの日干支で、「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と大連(天皇)に即位したと記述された。しかし、正しい日干支の年は垂仁元年の前年の紀元前30年にあたり、十市根の父の大根(狹穗彦)が師木水垣宮の天皇に即位したと考えられる。
狹穗彦は『日本書紀』に、前33年崇神六十五年秋七月「天皇踐祚」と崇神天皇から皇位を譲られた。そして、豐城入彦は前28年垂仁二年春二月辛未朔己卯に「立狹穗姫爲皇后后生譽津別命」と狹穗姫は纒向珠城宮皇后となった。狹穗姫は大和神社を創建した渟名城入姫である。
年候補
己亥 -96年12月晦日 -69年1月朔 -39年12月晦日 -33年1月晦日-12年1月朔
壬子 -221年2月朔日 -97年2月朔日 -30年2月朔日 -4年2月朔日
前29年8月朔日前後
7月晦日29日壬寅 8月朔1日癸卯 8月2日甲辰
前29年10月朔日前後
9月晦日30壬寅 10月朔1日癸卯 10月2日甲辰
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