2025年10月31日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇3

     高麗國貢鐵盾鐵的」の仁徳十二年秋七月辛未朔癸酉は九州の日干支である。『晋書』には七月壬申朔と記述され、晋書に合わせれば七月辛未晦となる。訖解尼師今三年「倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」と倭国は皇女を妃に迎えて友好関係だったのだから、新羅人が朝貢し、勞役させ、高麗との通商の邪魔をしなかった。八月庚子朔己酉は正しい日干支で、「饗高麗客於朝」と高麗の客人は近江朝に遣って来た。

仁徳十六年秋七月戊寅朔は九州や吉備の日干支で、物語も播磨國造の祖の速待と玖賀媛の説話である。仁徳卅年秋九月乙卯朔乙丑は正しい日干支で、「遊行紀國」と紀国に遊びに行き、帰って難波に着いた皇后が上陸せず川を引き返して山背そして倭に向かった。紀国の方に引き返して山背・倭に向かったように、紀国は淀川・宇治川の上流で、近江の暦だから正しい日干支である。

仁徳卅年冬十月甲申朔も九州の日干支で、的臣の祖の口持臣の説話で、口持臣は『百済本記』に記述される人物である。注釈では「和珥臣祖口子臣」と和珥臣とも記述し、仲国王の襲津彦東征の仲間だ。河内には倭国、日向・宇佐・安芸、吉備、但馬の神武東征で稚足彦と足仲彦の軍勢が居た。

仁徳卅年十一月甲寅朔庚申は正しい日干支で、「天皇浮江幸山背」と記述され、皇后は筒城宮に滞在中である。すなわち、天皇は難波から追い出されて、紀角(木菟)宿祢の元に逃れ、難波高津宮には神武東征軍が占拠したのだろう。『古事記』の355年に崩じる若帯日子の時代、武内大臣、おそらく、意乎巳大臣の頃に帯中日子と息長帯日売が難波から女国の宇治川沿いを制圧したのだろう。仁徳卅一年春正月癸丑朔丁卯の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」は九州の王朝交代と考えられる。阿知使主が畿内で活躍するのだから、都加使主に王朝交代したのだろうか。

2025年10月29日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇2

  仁徳四年秋八月己巳朔丁丑は正しい日干支で、「爲大兄去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部」とあるように、壬生部と葛城部を定めた。壬生部は推古天皇十五年にも定めていて、要するに、政権が追認したことを示す。すなわち、この仁徳時の壬生部は大和以外、葛城と同時に定めたのだから、近江の葛木に定めたと考えられる。そして、大兄去來穗別は次代の天皇、部を造るのは分家ということを意味し、大兄去來穗別が葛木の姫に婿入りしたことを示す。分家の相応しい人物が「葛城野伊呂賣」の()子の伊奢能麻和迦で、黒比賣の婿だろう。仁徳四年秋八月己巳朔丁丑の日干支は九州・河内の暦の西暦386年7月30日が晦の己巳朔が最も相応しい。これなら、襲津彦が30歳代後半、葦田宿禰が伊奢能麻和迦で葛城部を賜姓されても矛盾がなく、黒媛の婿の去來穗別の即位が20歳を超えている程度になる。

仁徳十一年夏四月戊寅朔甲午は閏3月1日で、「是國者郊澤曠遠而田圃少乏且河水横逝以流末不駃聊逢霖雨海潮逆上而巷里乘船道路亦泥」と記述する。この記事は水路を掘り、溜池を掘って、残土で大量の古墳を造った河内を示している。

すなわち、仁徳七年夏四月辛未朔の「天皇居臺上而遠望之烟氣多起」で徴税を始めたのは、裕福になったからではなく、徴税出来る権力を握ったことを示したと解る。そして、河内が正しい日干支を使ったということは、河内の政権が正しい日干支を使う政権に代わったことを示し、仁徳十一年ではなく、西暦354年仁徳四十二年と考えられる。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅は正しい日干支で、「立八田皇女爲皇后」と皇后が代わり、難波が和珥氏印葉の王朝に代わり、用水や溜池を造ったと考えられる。すなわち、仁徳天皇は河内の志幾大縣主の大別となったようだ。

 

年候補

己巳7月晦日30 169 293 386 510

戊寅4月朔日 230 261 354 421 447

2025年10月27日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇1

 西暦313年仁徳元年春正月丁丑朔己卯は正しい日干支で、「大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都難波是謂高津宮」と難波高津宮で意乎巳が大臣になったのだろう。尾綱根と高城入姫の子で、仲姫の娘の婿になる。武内宿禰が平群県紀里に婿入りし、紀角(木菟)宿祢となり、318年、大臣位を意乎巳と交替し、これが名の交換である。

314年、仁徳二年春三月辛未朔戊寅は3月2日の日干支で、「立磐之媛命爲皇后」は九州の暦、で西暦371年3月2日の可能性が高い。去來穗別の崩御は432年、母の婚姻が60年程度前なら相応しい。すると、正しい日干支の314年に皇后を迎えた政権が存在していることが想定でき、和珥大臣の菟道稚郎子の政権が西暦291年から継続していることを示す。難波朝は和珥氏が権力を握り、大別が八田皇女を妃に迎えた、印葉大臣の政権である。

仁徳四年春二月己未朔甲子も三月己丑朔己酉も正しい日干支で、「於茲三年」、「悉除課役」と即位後三年経っても税収が無く、これ以降も税が入って来ないと記述している。正しい日干支なのだから、和珥大臣の菟道稚郎子の記事で、大鷦鷯の難波朝に徴税を邪魔されているようだ。

仁徳七年夏四月辛未朔の「遠望之烟氣多起」は九州・河内の日干支で、菟道稚郎子が敗北したのだろう。正しい日干支を探すなら、西暦350年仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅の「立八田皇女爲皇后」が該当し、八田皇女の兄弟の大別が難波の王になったならば、相応しい。『舊事本紀』は仁徳天皇を大別と記している。

 

年候補

229日が晦日で辛未32 128 247 314 371 438

辛未4月朔日 226 350 412年  

2025年10月24日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇2

応神十九年冬十月戊戌朔の「幸吉野宮時國樔人來朝之」は正しい日干支である。國樔人を接待するのだから、この吉野宮は首都近辺で、奈良県の吉野ではなく、私は日吉大社を想定した。応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」、秋九月辛巳朔丙戌の「天皇狩于淡路嶋」も正しい日干支である。この時期は新羅との戦乱が続いているので、倭に対する警戒が不要の為、平穏である。

西暦306年応神卅七年春二月戊午朔は間違いの日干支で、「由是得通呉呉王於是與工女」と呉との通商だ。神功皇后の外交史は神功皇后元年を西暦321年としないと朝鮮史と合致しない。東晋も西暦317年建国で、306年はまだ晋朝でなければ相応しくないが、西暦399年ならば、合致する。阿知使主は去來穗別の即位時に近くで仕えたのだから、西暦399年はよく符合する。倭も朝鮮で戦うには、畿内とは和平が必要だったのだろう。

応神四十年春正月辛丑朔戊申の「立菟道稚郎子爲太子之情」は正しい日干支だが、『舊事本紀』は三十年春正月辛丑朔戊申と記述される。皇太子を決めた記述は倭王朝の交代を示していた。本来は西暦299年応神三十年の1月8日に印葉が大臣になった記録なのだろう。

応神四十一年春二月甲午朔戊申は九州や吉備・河内の暦である。「天皇崩于明宮・・・一云崩于大隅宮」とあるように、大隅宮なら応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」と符合する。西暦291年に尾綱根の豐明王朝から大隅宮朝廷になったことを示し、豐明王朝は丸迩の比布禮大臣の王朝になったと考えられる。

 

年候補

戊午2月朔日 156 213 280 337 399 523

2025年10月22日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇1

  西暦270年応神元年春正月丁亥朔は正しい日干支で「皇太子即位」、『舊事本紀』は「皇太子尊即天皇位都輕嶋地謂豐明宮」と記述される。高島の輕嶋豐明宮なのだから大連は、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」の尾綱根が即位した。

応神二年春三月庚戌朔壬子は間違いの日干支で、「立仲姫爲皇后」と仲姫が皇后なので、襲津彦の家系が仲国王になった記録だ。襲津彦を貰った纏向朝時なら西暦191年以降、西暦266年が相応しい。応神尾綱根皇后は高城入姫で、大山守(尾治弟彦・稚彦連)が二代目応神、皇太弟の額田大中彦が尾治針名根だろうか。意乎巳連が大萑天皇で、大萑は仲姫の娘の磐之媛の婿である。

応神三年冬十月辛未朔癸酉の「東蝦夷悉朝貢」、応神五年秋八月庚寅朔壬寅の「令諸國定海人及山守部」は正しい日干支である。応神九年夏四月、甘美内宿禰が許されて「賜紀伊直等之祖也」と紀伊直の祖を賜っている。将来紀伊直を賜姓すると口約束され、それが賜ったなどと、とても奇妙だ。『紀氏家牒』にある、紀伊国造の宇豆彦道彦男の娘婿になって、平群県紀里を与えられて、木菟宿祢(紀角直)を賜姓されたと考えられる。紀伊国造が御真木入日子なのだろう。

そして、これ以降、武内大臣は記述されず、武内宿禰は河内・山背・琵琶湖南部の大臣の地位を丸迩の比布禮(多遅麻)に奪われたのだろう。大伴氏の諸縣君牛諸井、葛木氏、和珥氏が揃った。紀武内宿禰(若帯日子)は318年に葛城国造荒田彦と姻戚になり、葛木王になったようだ。

応神十五年秋八月壬戌朔丁卯の「百濟王遣阿直岐貢良馬二匹」も正しい日干支だが、前月は小の月で、八月壬戌は晦にあたり、九州の暦と言える。この後、新羅と倭・百濟が戦い、西暦284年は相応しい。

 

年候補

庚戌3月朔日 80 147 204 209 266 333

2025年10月20日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后4

  前項で、七支刀の記録が旧暦372年の記録としたが、その他の朝鮮関連の記録も神功元年が西暦321年とするとよく符合する。神功五十二年の七支刀は372年近肖古王27年に阿莘王が生まれた記念に作成したと考えた。近肖古王27年28年は「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢し、倭には七支刀をプレゼントしたのだろう。阿莘王は枕流王が崩じた385年、「太子少故叔父辰斯卽位」と若かったため王になれなかった。太子なのだからこの時13歳以上20歳未満、392年に阿莘が20歳以上なので王になれたのだから、371か372年に阿莘王が生まれたのならよく符合する。

神功皇后五十五年は375年に当たり、「百濟肖古王薨」、そして、神功皇后五六年は376年に当たり、「百濟王子貴須立爲王」と記述されるが、『三国史記』「近仇首王一云諱須近肖古王之子」と須(近仇首王)が即位した。神功皇后摂政六四年も384年に当たり、「百濟國貴須王薨」とあるが、近仇首王が崩じ、神功皇后摂政六五年も385年に当たり、「百濟枕流王薨」とあり、枕流王が崩じた。

すると、神功皇后四十七年夏四月の「百濟王使久氐」は367年、神功四十九年春三月の「撃新羅而破之因以平定比自南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」の記事も369年の可能性が高い。同様に390年即位の応神が存在し、392年に応神天皇三年、「百濟國殺辰斯王以謝之」記事、405年に応神天皇十六年の「百濟阿花王薨」記事、420年に応神天皇二五年、「百濟直支王薨」記事と記述された。

神功六十九年夏四月辛酉朔丁丑の「皇太后崩」も、冬十月戊午朔壬申の「葬狹城盾列陵」も正しい日干支である。『舊事本紀』には「追尊皇太后日氣長足姫」と、既に皇太后の氣長足姫に皇太后を追号と矛盾がある。矛盾は皇太后が崩じたのではなく、崩じたのは天皇で、埋葬場所が成務天皇と同じなのだから、木國の徳勒津宮天皇の品陀真若だろう。皇太后になったのは金田屋野姫、神功皇后は卑弥呼と壹輿を『日本書紀』は想定している。西暦289年、『晉書』の「東夷絶遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻」が新しい倭王の誕生と考えられ、その前年に壹輿は崩じたのだろう。王が交代した時に遣使するのは理に適う。

2025年10月17日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后3

神功五年春三月癸卯朔己酉の日干支は間違いの日干支で、新羅王が汗禮斯伐を派遣した。この日干支に相当するのは西暦112に祇摩尼師今が新羅王に即位している。前王の人質を返してもらうように、新しい王が使者を派遣するのは当然のことだ。その記録に西暦355年に襲津彦を百濟に送った記録を併せた可能性がある。

神功十三年春二月丁巳朔甲子も間違いの日干支で、内容は「命武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神」である。息長帯日売の伊奢沙和氣大神と御食津大神の名前交換の説話の時の内容と考えられる。二月丁巳朔の日干支は西暦363年が相応しく、帶中津日子は361年壬戌年の六月十一日に崩じ、河内惠賀長江に葬られた。神功二年冬十一月丁亥朔甲午の「葬天皇於河内國長野陵」は正しい日干支だったが、吉備や九州の暦なら西暦362年10月30日に当たる。

西暦246年神功四十六年春三月乙亥朔の「遣斯摩宿禰于卓淳國」は九州の暦の日干支で、正始六年西暦245年に『三國志』「倭難升米黄幢付郡假授」と印を仮授された。翌年、魏朝配下の王として、対朝鮮外交を推し進めるのは、理に適う。

神功五十二年秋九月丁卯朔丙子「七枝刀」説話は間違いの日干支で、朝鮮説話の神功五十二年は西暦376年にあたる。9月30日なのだろうか。「四年十月十六日丙午正陽造百錬七支刀」の泰四年十月十六日を日本の元号秦和四年、旧暦372年七月十六日丙午の日に作刀したと考えた。日本は既に元号を持っていて、376年に九州倭国から石上神宮に奉納されたと考えられる。268年の秦始も369年の太和も7月16日は丙午でない。神功皇后の朝鮮記事は西暦321年を元年として記述されている。『二中歴』の継体元年以降は俀国の元号、紀元前53年から始まって西暦71年に改元したのは畿内の元号だったのでは?

 

年候補

癸卯3月朔日 45 112 169 236 355 422

丁巳2月朔日 177 239 306 363 430

丁亥1030 238 269 362 393 486

 

376丁卯朔候補日 9月晦日30 12月朔日(2528月晦日)

2025年10月15日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后2

  西暦201年神功摂政元年冬十月癸亥朔甲子は正しい日干支で、「尊皇后曰皇太后是年也太歳辛巳則爲攝政元年」と神功元年と呼んだ。しかし、『舊事本紀』は十月丁巳朔甲子と間違いの日干支で、「改為攝政元年」は「大歳辛巳」の十月の日干支ではない。正しくは西暦202年壬午年である。『舊事本紀』の元年は「物部多遅麻連公為大連」の記録で、多遅麻纏向天皇元年である。西暦201年三月丙申朔庚子は正しい日干支で、武内宿禰と和珥臣の祖の武振熊が山背から菟道で忍熊と戦い、その結果、勝利した。そして、翌年、多遅麻が大連天皇になったのだから、忍熊が纏向天皇か纏向皇太子だった。多遅麻は纏向天皇の五十琴彦(五十功彦)の娘の安媛の婿の多遲摩國造の祖の大多牟坂である。多遅麻の孫は莵道稚郎で、莵道稚郎の祖父は丸迩の比布禮大臣なので、多遅麻は和珥大臣である。すなわち、多遅麻と莵道稚郎の母の山無媛の間の90年程度の何処かで和珥臣の祖の武振熊の子達と婚姻関係を結んだと考えられる。

神功二年冬十一月丁亥朔甲午は正しい日干支で、「葬天皇於河内國長野陵」の被葬者は難波根子と考えられ、弟媛の父の大酒主、恐らく、武内宿禰の義父の珍彦と考えられ、木国造が山代に移住したと考えられる。

神功三年春正月丙戌朔戊子は間違いの日干支で、「立譽田別皇子爲皇太子」は卑弥呼の死後3年間、男王が倭国を治め、男王に替わって壹輿が王になったことを示す。この正月丙戌朔の日干支は234年の日干支で、纏向朝廷から磐余稚櫻宮朝廷に替わった。天皇は「都於磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連」と五十琴宿祢で、多遅麻の娘の香兒媛に婿入りしたとある。しかし、名前や世代から考えると五十功彦の娘、香坂の妹ではないだろうか。

 

年候補

丁巳10月朔日 109 166 202 233 290

丙戌1月朔日 43 110 167 234 296

2025年10月13日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后1

  仲哀八年秋九月乙亥朔己卯は九州の暦の日干支で、新羅國侵攻説話である。西暦198年頃は、倭国は大飢饉、千人以上が新羅に食を求め、帯方郡に属した後だ。西暦13年垂仁四十二年ならば、『三国史記』に翌14年、新羅南解次次雄十一年の記事「倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戸」がある。この侵略が新羅に対する最初で、穴門の王が新羅の内情を知らないと述べるのは、理解できる。それ以降に、新羅が解らないと言うことは有り得ない。仲哀九年夏四月壬寅朔甲辰は西暦14年4月2日(3月は小月)、秋九月庚午朔己卯、冬十月己亥朔辛丑、十二月戊戌朔辛亥も西暦14年の新羅國侵攻説話である。

仲哀九年春二月癸卯朔丁未は正しい日干支で、「天皇忽有痛身而明日崩」と天皇が崩じた。『舊事本紀』では天皇が崩じる前、武内宿禰に進められて天皇が琴を彈き、翌朝天皇が崩じていたが、『日本書紀』では仲哀九年三月壬申朔、武内宿禰に琴を彈かせ、天皇が崩じた後なのに吉日と記述する。『舊事本紀』は皇后と武内宿禰の呪い、『日本書紀』は天皇の崩御を感謝している。すなわち、実際は仲哀九年春二月癸卯朔丁未の『舊事本紀』記事だったと考えられる。

『日本書紀』は、その後、中臣烏賊津使主の記述があって、吉備臣の祖の鴨別と共に、熊襲國を撃退した。これは、神武東征の天種子が菟狹津彦を破った202年に充てた神武即位前紀甲寅年冬十月丁巳朔辛酉の発端記事と考えられる。安芸王になる襲津彦と菟狹津媛を妃にして菟狹王になる天種子(中臣烏賊津使主)、吉備國高嶋宮の王となる吉備臣祖の鴨別と考えられる。仲哀九年3月25日、「山門縣則誅土蜘蛛田油津媛時田油媛之兄夏羽」と卑弥呼・夏磯媛の兄と考えられる夏羽や義姉と考えられる田油媛を撃ち夏磯媛が邪馬壹國の女王となったのだろう。

しかし、仲哀九年三月壬申朔は17日の御笠、20日の安の説話は奇異である。邪馬壹國の南方で戦うのは南にある狗奴國で卑弥呼の生存中は対峙していて、勝利していない。すなわち、この三月壬申朔は西暦257年が妥当である。3月25日の記事は西暦200年の卑弥呼(夏磯媛)を壹國の魁帥と認めた記録と西暦257年市鹿文を火國造にした記録を併せた記事だろう。

 

年候補

庚午9月朔日 -44 14 81 138 143 200

己亥10月朔日 -44 14 81 107 138 231

戊戌12月朔日 -80 14 107 138 231

丁巳10月朔日 -729 -636 -543・・・-16 16 42 109 166 202

壬申3月朔日 14 71 133 200 257

2025年10月10日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇2

  西暦193年仲哀二年二月癸未朔戊子も九州の日干支で吉備の王が角鹿笥飯宮を訪問したようだ。その王に淡路屯倉を奪われ、太子は九州へ、子の日向襲津彦は安芸で仲国王となり、そして、山代に進出したのだろう。

西暦193年仲哀二年三月癸丑朔丁卯も正しい日干支で、「天皇巡狩南國」、「紀伊國而居于徳勒津宮」、勿論、角鹿から南方の野洲近辺の木国の徳勒津宮、品陀真若の宮に出向いた。そして、協力して穴門へ熊襲を撃ちに出発した。

西暦193年仲哀二年夏六月辛巳朔庚寅も正しい日干支で、神功皇后は穴門豐浦宮に到着した。仲哀二年秋七月辛亥朔乙卯も正しい日干支で、「皇后泊豐浦津」と穴門に滞在していた。景行二七年冬十月丁酉朔は195年の記事と考えられ、「日本武尊令撃熊襲」、と熊襲を撃った。『舊事本紀』の神武前紀の已未年春二月辛卯朔庚辰は西暦197年の記事と考えられ、「道臣命率軍兵而撥伏逆賊之狀奏矣」と大伴氏と日向襲津彦が熊襲の乱を平定したのだろう。『舊事本紀』の神武前紀已未年三月辛酉朔の「自我東征於茲六年矣・・・中州之地無復風」は道臣の安芸平定の説話で西暦197年仲哀六年の説話と考えた。3月2日が辛酉だが、2月は小の月、3月1日が晦日と『日本書紀』の編者は理解したと考えた。

仲哀八年春正月己卯朔壬午の日干支は正しい日干支で、「幸筑紫」との説話があり、岡縣主の祖の熊鰐が記述される。遠賀川周辺が熊国(旧狗奴國)、その王が鰐君(和迩君)なのだろう。遠賀川周辺が筑紫、日向から「天皇將向京以巡狩筑紫國」、この京は京都郡が筑紫に含まれ、筑前・豊前の京都郡の北が元々の筑紫と解る。そして、橿日宮へ向かうが、その地は儺縣で筑紫とは別国、そこの王が夏磯媛、儺津の壹襲の女王の卑弥呼、橿日宮で女王を追認した。すなわち、狗奴国と邪馬台国を大倭王が仲裁したのだろう。

 

年候補

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

辛卯2月朔日 -698 -605 -512 -481 -388 -295 -264 -202 -171 -145 -78 -47 47 73 197 233

辛酉3月朔日 -698 -631 -574 -538 -512 -388 -321 ・・・171 -78 16 47 140 171 233

辛酉230 -786 -688 -662 -569 -445 -352 -228 -104 -42 -11 83 207

2025年10月8日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇1

  西暦190年政務六十年夏六月己巳朔己卯は正しい日干支で「天皇崩」と高穴穂宮の成務天皇が崩じた。『舊事本紀』も正しい日干支で記述しているので、纏向宮の記録ではないようだ。そして、西暦192年仲哀元年春正月庚寅朔庚子も正しい日干支で、「太子即天皇位」と仲哀天皇が即位した。同年秋九月丙戌朔も正しい日干支で「尊母皇后曰皇太后」と首都が変わって、前の首都の皇后を皇太后と呼んだ。

そして、仲哀二年春正月甲寅朔甲子も正しい日干支で「立氣長足姫尊爲皇后」と氣長足姫を皇后にした。しかし、仲哀朝では、大連も大臣も賜姓されず、武内大臣が記述されるのみである。神功皇后は金田屋野姫、夫が品陀真若で皇位に就いていない。仲哀天皇は襲名した武諸隅と五十琴姫の子の五十功彦の可能性が高い。皇后は「大酒主之女弟媛」と木国造の宇豆彦道彦男(忍山垂根)が平群県の紀里に移住し、その忍山垂根の孫が弟媛と考えられる。西暦201年神功元年に多遅麻が纏向大連を賜姓され、多遅麻は武諸隅の子と記述されるが、武諸隅は襲名した五十功彦、その娘婿である。五十功彦の娘は五十琴彦の娘と記述される安媛と考えられ、婿が多遅麻である。纏向は桃の種の年代測定で240年頃まであった。

仲哀元年冬十一月乙酉朔の日干支は九州や吉備、吉備の勢力下の河内の日干支で、その地域の白鳥の説話である。大帯日子の項に河内舊市邑や河内國の志幾の白鳥御陵の説話があり、この白鳥陵の地域の説話だろう。

帯中日子か息長帯日売かよく解らない崩御年の西暦382年壬戌年の六月十一日に河内の惠賀の長江に埋葬された。帯中日子は直ぐに埋葬できず、その翌年の383年10月30日が仁徳七十一年十一月乙酉朔に、長江襲津彦を埋葬した日ならよく合致しそうである。192年の説話は長江襲津彦の説話の可能性がある。十一月乙卯朔も西暦383年11月1日、10月の晦は29日である。

 

年候補

乙酉1030日 192年 259年 316年 383年 

乙酉11月朔日 223年 347

2025年10月6日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 政務天皇

  西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥幸は正しい日干支で、「近江國居志賀三歳是謂髙穴穂宮」と穴穂へ遷った。西暦130年景行六十年冬十一月乙酉朔辛卯も正しい日干支で、天皇が崩じた。そして、西暦131年成務元年春正月甲申朔戊子、これも正しい日干支で即位した。『舊事本紀』は「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」とあるように、天皇は膽吐大臣である。

西暦132年成務二年冬十一月癸酉朔壬午も正しい日干支で「倭國之山邊道上陵」に葬られた。山邊道上陵は崇神天皇と同じ場所で、当然師木にあり、古代の男子は母と同じ土地に埋葬された。西暦133年成務三年春正月癸酉朔己卯、これも正しい日干支だが、「以武内宿禰爲大臣也初天皇與武内宿禰同日生之」、武内宿禰が大臣になった。これは、319年に葛城氏を継承した若帯日子で、292年が相応しい。年齢を比較しているのだから、天皇と若帯日子(武内宿祢)は別人で、天皇は印葉大連だろうか。291年に葉田葦守宮に移っていて、よく合う。

西暦134年成務四年春二月丙寅朔は九州の日干支で、「國郡立長縣邑置首」と各地の首長を決めた。そして、五年秋九月に「則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横」と国境を決めた。縦横の境を決めるためには、鏡での測量が必要で、九州には中国から輸入した漢式・後漢式の鏡があった。畿内は景初四年鏡が有るように、230年代頃から神獣鏡の作成が始まったと考えられ、測量は不明である。九州では国境の線引きを強行したために、戦乱が起こり、「桓霊之間」の倭国大乱に繋がったと考えられる。成務四十八年春三月庚辰朔の立太子も九州の暦で、倭王朝交代の記述だ。

 

年候補

癸酉1230 292年 1月朔日 324年 350

2025年10月3日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇6

  日本武は『古事記』の3人の太子や纏向朝・磯城朝の太子を合体させた人物と考えられる。西暦95年景行二十五年に日本武は草薙横刀を受け取り、すなわち、将軍に任命されたことを示す。初代膽咋が日本武ならば、五十琴が生まれているので、二十代後半の年齢で将軍になったようだ。景行五十三年秋八月丁卯朔も正しい日干支だが、「冀欲巡狩小碓王所平之國」が西暦123年では間延びしてしまう。西暦97年景行二十七年ならば東国征服開始に相応しそうである。伊勢から東海へ出発し、十月に上總國、十二月に東國から伊勢の綺宮に帰った。垂仁妃の山背大國の娘の綺戸邊の宮の兩道入姫の宮(母の宮)で寛いだようだ。五十四年秋九月辛卯朔己酉の「自伊勢還於倭居纒向宮」は間違いの日干支で西暦98年が相応しいようだ。

景行五十五年春二月戊子朔壬辰の「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」は<景行天皇4>の項で述べたように、151年成務二十一年であった。翌年「御諸別汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨故汝専領東國」と御諸別が受け継いだ。

西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥、この日干支は正しい日干支で、恐らく、初代膽咋の日本武が薨じ、孫の大臣になる二代目膽咋が高穴穗宮の鴨姫に婿入りしたのだろう。成務元年に膽咋が大臣になっているのだから、師木天皇の建忍山垂根が崩じたのだろう。

『舊事本紀』も全く同じで、朔の日干支を使っている。師木天皇の記録であることを示している。

 

年候補

丁卯8月朔日 30年 97年 123年 154年 216年 340

辛卯9月朔日 31年 98年 155年 222年 279年 341

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

2025年10月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇5

『舊事本紀』の景行三十六年八月の「大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫今為妃」の記事は当然膽咋がまだ大臣ではない。初代膽咋と比咩古の娘の五十琴姫が10代半ばである。五十琴姫は膽咋と比咩古の娘の清媛なのだろう。纏向天皇の物部武諸遇の妃である。

西暦110年景行四十年の夏六月に「東夷多叛」、秋七月癸未朔戊戌の日干支は正しい日干支で「今東國不安」東国の現状を記述している。同じく、冬十月壬子朔癸丑も正しい日干支で「日本武尊發路之」と日本武が東国に出発した。<景行天皇4>の項で述べたように、彦狹嶋が151年に東山道十五國都督に賜姓された。そして、彦狹嶋は赴任地に向かう途中に薨じてしまうのだから、110年に10代の彦狹嶋が東国に向かったのだろうか。そして、彦狹嶋に代わって、子の御諸別が受け継いだ。

景行五十一年春正月壬午朔戊子も正しい日干支で、西暦109年景行三十九年に太子が生まれたと述べた。109年景行三十九年生まれなら、西暦121年景行五十一年は13歳、太子になれる年齢である。「時皇子稚足彦尊武内宿禰不參赴于宴庭」と膽咋が纏向の朝廷に仕えた。

景行五十一年秋八月己酉朔壬子も正しい日干支で西暦121年に「立稚足彦尊爲皇太子」は倭国の王朝交代で、それに、日本武に草薙横刀を与えた記事が付加されている。日本武に横刀を渡したのは倭姫だが、116年に五百野皇女に女王は交代している。ところが、景行五十一年秋八月己酉朔壬子の日干支が間違いなら、西暦95年景行二十五年が相応しい。

景行五十二年夏五月甲辰朔丁未は正しい日干支であるが、「皇后播磨太郎姫薨」は吉備の出来事、新しい皇后が秋七月癸卯朔己酉とこれも正しいが、共に吉備の日干支と考えれば、西暦91年が相応しい。91年に大帯彦は師木王朝の八坂入媛の娘を迎え入れた。師木王朝が分家の建忍山垂根(大碓)と妃の弟姫に政権が遷ったことを示しているのだろうか。

 

年候補

己酉8月朔日 2年 95年 121年 245年 281年 338年 369

甲辰4月晦日30日 91年 215

甲辰5月朔日 55年 122年 179年 184

癸卯6月晦日30日 34年 65年 91年 158年 215