2025年6月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ2

古代は末弟が継承すると主張するが、伊邪本和氣→水齒別→男淺津間若子、穴穗→大長谷と兄から即位している。伊邪本和氣・水齒別の在位年数は6年と5年で、兄弟の年齢差とすれば妥当である。

立太子は意味が無く、史書は皇后が決まってから太子を記述しているように、皇后の子が次の天皇になっている。そして、男子が100年後の天皇なのだから、100年間は皇后の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えて皇位を継承すれば、皇后の()子が天皇だ。そして、娘が生まれないと、男子が他家へ婿に、または、分家の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えれば継承される。

皇后が余曾多本毘賣になった時、余曾多本毘賣の兄の子の数代の國押人が婿に入り皇太子になる。皇后に娘が居ないとき、いつも迎えていた國押人が他家に婿入りして、婿入り先の宮で皇位を継承する。これが、合理的な継承方法だろう。皇后の男子は皇后の兄弟の婿に入って奧津余曾を襲名し、その子も次の太子の國押人である。

そして、王家を形成する人々は、人名を地名や役職名使って名前にした。同じ名前の人物は、同じ家系と考えるのが合理的だ。他家の人物が同名を使うのは、自らのアイデンティティーを捨てることになる。逆に、移住する時は、そのアイデンティティーを持って、地名を持って移住する。

このような原則に立って、神話集である『古事記』を分析した。日子坐のように多くの妃を記述するが、開化朝から崇神朝の120年の間に、何代もの意祁都比賣の子の日子坐が存在し、婿入りして分家を設けたと考えれば理に適う。

120年間あれば、親子の年齢差が20歳とすれば、6・7代の日子坐が存在する。そして、日子坐には4柱(4家)の妃が存在し、80年間、4代の天皇の分家の日子坐が存在したと考えられる。そして、1・2代の日子坐は2・3代の皇后の父だろう。妃の家系の権力を高めるためには、日子坐ブランドは利用価値が高い。

2025年6月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ1

『古事記』には年代や暦の日干支が記述されないため、いつの出来事か特定できない。従って、歴史とは言えないが、親子関係を詳細に語っている。しかし、親子関係は『日本書紀』で解るように、一世代が百年、親子で孝昭・孝安など百八十五年も国を治めている。これを、一部の歴史家はまじめに親子だと考えている不思議な生き物たちである。

しかし、常識的に考えれば、孝昭家から孝安家に政権が遷ったと帰結する。93歳で崩じた前天皇を継いだ子の天皇が123歳まで102年間皇位に就いていたなど有り得ない。孝昭天皇六八年に「立日本足彦國押人尊皇太子年廿」と20歳で太子になって、15年後に21歳で即位など、計算が合わない。

この年齢は異なる意味を持ち、間違いだからと無視はできない。いい加減だと言って、無視して即位期間の平均で1代20年程度とするのは、論理的ではない。20年は親子の年齢差に過ぎない。「太子年廿」は最後の孝昭天皇の太子が婿入りした年齢、93歳は葛城掖上宮が続いた年数と考えた。

もしも、太子の居ない68年間に天皇が崩じたら、皇位継承争いで王朝崩壊するだろう。神武天皇は神沼河耳を太子にしたが、神沼河耳には日子八井・神八井の兄も共に當藝志美美を倒そうと立ち上がり、頼りない兄に替わって即位した。立太子は全く無意味だった。私は立太子が九州倭国の王朝交代と考えた。

478年雄略二二年に「白髮皇子爲皇太子」と記述されるが、翌478年昇明二年に興の弟の武が安東大將軍倭國王を叙された。434年允恭二三年に「立木梨輕皇子爲太子」と記述されるが、「賛死立弟彌」と弟への王朝交代があり、「文帝元嘉十五年夏四月己巳以倭國王珍為安東將軍」と438年に叙された。賛は430年に遣使し、「贊死立弟彌、彌死立子濟濟死立子興、興死立弟武」と記述されるように、弟への王朝交代はこの2回である。弟が即位するというのは、皇后が異なる分家が即位することを意味する。

2025年6月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造2 

  大和國造の祖は鸕鷀草葺不合の弟の武位起で、『舊事本紀』に「椎根津彦命爲大倭國造即大和直祖」とあるように、武位起が曲浦の王の祖で、紀伊名草姫の子の大御氣主が大倭國の民磯姫を妃にして生まれた阿田賀田須が丸迩君の祖、曲浦の王になった。

民磯姫は卑弥呼の別名の夏磯媛と同じく、熊襲の一員の壹襲(壹国)の姫で、但馬の姫なのだろう。孝安天皇の子の建斗禾の娘が民磯姫と考えられ、建宇那比が大海宿禰(大倭國王)()弟が建手和迩なので、大御氣主が大海宿禰の妹の民磯姫の婿なのだろう。建手丸迩と民磯姫は紀伊國造智名曽の妹の中名草姫の子と義子、大御氣主は紀伊名草姫の子なので、従兄妹同士の婚姻である。

大御氣主は「拘奴國」を倭國の東から南に追い遣り、子が曲浦や丸津の王で丸迩君の祖と呼ばれたと考えられる。宇豆比古が釣りをしていた浦や神功皇后が新羅に出発した丸津は丸や曲の文字を使うのだから、形状から神功皇后がいた橿日宮の海岸か筑紫の宇佐へ向かった関門海峡が有力である。

迩君は多遲摩國造の祖の大多牟坂、すなわち纏向大連・比布禮大臣の多遅麻と考えられ、娘の弟日賣眞若比賣の婿は曾都毘古の子の葦田宿禰・若野毛二俣だった。葦田宿禰は丸迩臣の許碁登であり、大倭國造は吾子篭で、吾子篭は「吾子篭遣於韓國而未還」とあるように、韓国に出向いたままだった。呼び返したのは兄の麻呂、同じように「襲津彦久之不還」と加羅に出向いたままの曾都毘古と重なり、迎えに行ったのは木菟宿禰(平群氏)と的戸田宿禰(丸迩臣の祖)であった。

兄弟は葦田宿禰と的戸田宿禰で、葦田宿禰は曾都毘古と共に加羅に行っていて、的戸田宿禰は倭直(淡海)の祖、葦田宿禰は倭(淡海)直だ。首都が河内の丹比に遷った時、丸迩の許碁登・葦田宿禰が大倭國造に賜姓されたようだ。丸迩佐都紀臣は深目・意富富杼で、その娘が袁杼比賣・童女君・春日大郎女と考えられる。春日大郎女は倭直の跡取り娘なので、倭比賣が相応しく、袁杼比賣を継承したと考えられる。その婿が袁本杼、すなわち、巨勢男人だろう。そして、倭国に勝利して、九州の倭国は俀国と名を変え、男人の娘婿の仲国王と考えられる広国押建金日が倭国王となった。

2025年6月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造1 

  倭國造の祖は槁根津日子で、吉備から日下の蓼津に向かう途中の速吸門を進む水先案内を行った国神であり、宇豆比古は木國造の祖である。しかし、『日本書紀』と『舊事本紀』は珍彦が倭國造であり、珍彦は曲浦の漁師で椎根津彦の名を貰う、筑紫國菟狹へ向かう海導者である。

すなわち、木國造の祖の宇豆比古が曲浦の王であり、宇豆比古の協力で「拘奴國」を攻めた。そして、屋主忍武雄心がその娘の山下影媛を妃に紀武内宿祢が生まれた。そして、宇豆比古の子の紀伊国造の宇豆彦道彦男が大荒田の婿と考えられる建忍山垂根で、二代目武内宿禰の若帯日子が生まれる。宇豆比古の跡取りが槁根津日子を賜姓され、九州の倭國造、すなわち、『後漢書』の大倭王なのだろう。

倭直の祖は麻呂、倭直は吾子篭であり、倭國造の祖は比香賀君だ。比香賀君は君だから、倭直を賜姓されている。履中天皇と考えられる稚櫻柴垣二宮大連の伊莒弗の義父、すなわち、黒比賣の父であり弟比賣の父の葦田宿禰、すなわち、丸迩臣許碁登である。許碁登のもう一人の娘は都怒郎女で、その娘の都夫良郎女の婿が紀角宿祢だろう。武内宿祢と宇乃媛の子の紀角宿祢が圓大臣で、娘が韓媛、婿が雄略天皇の一人の平群真鳥大臣である。

すなわち、倭國造の祖は比香賀君、天皇の伊莒弗は稚櫻と柴垣宮の大連・天皇で、伊耶本和気と水歯別は兄弟ではなく矛盾する。ところが、伊耶本和気と水歯別の義父は共通の葦田宿禰なので、葦田宿禰が伊莒弗、伊耶本和気が倭國造の祖の比香賀君ならば相応しい。多遅麻の妃は世代的に五琴彦ではなく同名の五十功彦と弟媛との娘の安媛(弟媛)で、その娘の香兒媛は弟比賣眞若比賣、夫は若野毛二俣・葦田宿禰である。

伊耶本和気の子の市邊忍齒別の子の意祁は大和の石上の廣高宮天皇、すなわち、大和國の王である。清寧伊波禮甕栗宮天皇には子が無く、飯豐・忍海郎女が皇后だったと考えられる。皇后も居ないのに、子が無いことを嘆くのは奇異である。子も妃も無かったのは武烈天皇に敗れた鮪臣なのだろう。

2025年6月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 忌部と凡河内國造

  大印岐が大國の領主の印岐という氏姓と考えられる。同じ用法の凡河内忌寸が『舊事本紀』に「凡河内國造即凡河内忌寸祖」と記述される。凡河内國造は凡河内忌寸の祖と同等とするが、他の國造を忌寸と記述せず、祖はその人物、若しくは次代の賜姓を意味することが多い。すなわち、天武朝の忌寸なら遠祖なので、忌寸の祖は凡河内國造が忌寸(印岐)と呼ばれたことを意味する。

師木王の太玉(大国王・大縣主)が大印岐、河内の大縣主が凡河内の印岐である。その凡河内國造()の祖は伊勢神宮と考えられる御上神社に祀られる丹波道主の祖母の天之御影である。これで、忌部・伊勢國造・凡河内國造が繋がった。

最初に記述される凡河内國造の祖は天津日子根、すなわち、彦根が印国(国=岐)と考えられる。遠津待根の母は阿遅鍬高彦根の妹の天照大神と思われる下光照比賣(高比賣)と考えられる。すなわち、下光照比賣を祭祀する娘の遠津待根が阿遅鍬高彦根を受け継ぐ彦根の女王である。

下光照比賣の夫は天津国玉の子の若日子、すなわち、天津日子根の末裔の天津国玉が大津の国王の太玉(布刀玉)で、下照比賣が大宮賣、天照大神を引き継ぐ比賣、大宮賣の娘が遠津待根、若日子が櫛磐間戸、阿遅鍬高彦根が豐磐間戸と考えられる。

遠津待根の子孫が天之御影で、天照大神の意思の代弁者である。高御産巣日が見る人物名と大国主が見る人物名、その神話を併せた世界である。

阿遅鍬高彦根を受け継いだのが饒速日である。阿遅鍬高彦根の本来の後継者の奈賀命は隠岐王(食国王)、饒速日の義兄は那賀須泥毘古(奈賀州根彦)とされ、偶然ではないだろう。隠岐の政大夫の饒速日は高御産巣日の子の天富の子の登美の御炊屋姫を妃に足尼の地位を得、それを子の宇摩志麻治に与えた。

遠津待根を祀る足尼の宇摩志麻治、師木縣主の彦湯支も足尼、子の浮穴宮朝の大祢、婿が出石心大臣・和知都美である。和知都美の娘の蝿伊呂杼の婿は出雲大臣の子の三見宿祢と考えられ、三見宿祢は秋津嶋朝の足尼になっている。三見の子の大綜杵が堺原宮の大祢(?大峯大尼・武建大尼)、建胆心大祢(屋主忍武雄心)、十市根の父の大根と続く。

大根は子の十市根と同一視、義兄弟の三野の八坂入日子とも同一視される。八坂入日子は伊勢麻績君と考えられ、伊勢神麻績連の祖である。八坂入日子の妃は天照大神を祀る遠津(息長)氏の娘の豐鍬入姫で、御上神社で天照大神を祀ったのだろう。

2025年6月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 伊勢國造

  『舊事本紀』によると、天照大神を祀る国の国王の伊勢國造は橿原朝に粟の忌部首の祖の天日鷲が賜姓された。粟は勿論、淡海のことであるが、奇妙な記述、「伊勢國造即伊賀伊勢國造祖」とある。伊勢國造になったのに、伊勢國造の祖は矛盾しているので、後の現代の三重県の伊勢の國造の祖を意味すると考えられる。

現代の伊勢神宮の王だった人物は孝徳天皇が国造を賜姓しているので、665年頃に伊勢神宮は遷ったと考えられ、蘇我馬子大臣の頃の伊勢は御上山にあった。天照大神を祀る伊勢皇大神宮が有るのに、管理する国が伊勢国ではない、また、伊勢皇大神宮が無いのに伊勢国というのは奇異である。ただし、三重の伊勢国の前に、伊賀伊勢國造なので、伊賀が伊勢国だった可能性もあり、天武朝の時に分けているので、再度、遷った可能性がある。すなわち、日鷲は伊勢遺跡の国造で、そして、日鷲は忌部首の祖なので、忌部首の祖の天太玉の後裔である。太玉は大国王を示している。太玉の娘の大宮売は天照大神の傍に仕え、豐と櫛の磐間戸兄弟は門番、御門()を守る、天照大神を支える人物だ。櫛磐間戸は天照国照彦天火明櫛玉饒速日の可能性が高い。

その太玉の名を引き継ぐ人物の娘の鴨姫を妃にするのが2代目膽咋の高穴穂大臣、鴨姫の父は建部君の祖の大荒田と考えられた。鴨縣主の祖は櫛玉、すなわち、この、天太玉のことのようだ。玉姫の父なのだから、太玉は相応しく、玉姫の婿は大印岐の孫の建稲種なので、大荒田の妃も大印岐の娘の可能性が高い。

志紀縣主の祖の印岐美(忌君)は建稲種と思われ、忌部と印岐は職制の部と領地の国と名が異なるだけで、指し示すものは同じ意味に近く、伊勢國造を継承した人物と考えられる。大根が大印岐、娘の兄比賣の婿の大荒田(大碓)、姉妹の弟比賣の婿の伊勢麻績君の子の大筒木眞若という師木・高穴穂朝廷の関係図である。

2025年6月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 お天道様と天照大神

  天照大神を祀る天皇家にとって、尾張氏がその祖と言える。尾張氏は木国造との姻戚関係が、権威の始まりと言って良い。師木水垣宮天皇と考えられる丹波比古多多須道主の娘の豐鋤入日賣は、豐鋤入日賣の祖母の息長水依比賣を祀った。豐鋤入日賣は水依比賣の母の天之御影が祝ふる御上山の神の天照大神を託されたのである。そして、沼名木之入日賣(佐波遲比賣)が大國魂を託されて、尾張氏が分裂したのだから、それ以前は皇后が託されていたと考えられる。沼名木之入日賣は豐木入日子の妃、八坂之入日子の義姉妹で大和神社を創建した。

豐鋤入日賣の母の遠津年魚目目微比賣は木国草津の姫と考えられ、丹波比古多多須道主は丹波大縣主の姫の竹野比賣の子で、木国に婿入りした。すなわち、息長水依比賣は多多須道主の母ではなく義母と思われ、遠津年魚目目微比賣が息長水依比賣と解る。遠津氏と息長氏は同じ氏族を指し、迦迩米雷と丹波の遠津臣の娘の高材比賣との子は息長宿禰で息長氏だ。

豐鋤入日賣は木国の入()の比賣で、曾祖母が祝ふる御上宮を託されたと考えられる。遠津氏は天狹霧の娘の遠津待根が起源で、天照大神は狹霧とともに跡取りの姫を生んでいる。その天照大神を豐鋤入日賣が託された。

一方、伊邪那美・伊邪那岐が最初に生んだ神の一柱に木国の大屋毘古(五十猛)が存在し、大屋毘古を祀ったのが天道尼()の孫である。尾張氏は天道日女の末裔で、尾張連の姓を最初に記述されたのが尾治弟彦だ。弟彦は八坂之入日子の子の大筒木眞若が始まりで、八坂之入日子が豐鋤入日賣の夫で、伊勢神麻績連の祖の伊勢麻績君である。

すなわち、この頃の伊勢皇大神宮は御上神社だったことが解る。御上神社は孝霊天皇の時に創建され、繩伊呂泥・意富夜麻登久迩阿禮比賣が祀られ、夜麻登登母母曾毘賣が繩伊呂泥を祀った。繩伊呂泥の父の和知都美が開いた淡道御井宮朝はこの御上神社を祀る入町にあったと思われ、景行朝に出現する伊勢の綺(かむはた)宮の可能性が高い。綺戸邊は布多遲能伊理毘賣の母なので伊勢の入()の姫の母に当たる。

2025年6月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子3

  足尼の宇摩志麻治は政大夫も兼ね、食国王の配下が政大夫で、大津の根国王を兼ねたようだ。綏靖朝では彦湯支が大津の根国王の足尼と政大夫を兼ね、師木の片鹽浮穴(草津市に片岡町・穴村町がある)を首都にして安寧天皇となった。懿徳朝では皇位を出雲醜大臣に奪われ、根国は大祢が「奉齋大神」とあるように、王になった。

大神は大国の神、元々大津にあった日吉大社の気比社と考えられ、気比社が宇迦能山の石根と考えられる。その後、三見と出石心が皇位を争い、根国を支配する足尼は一般の宿祢・王となり、劔根の孫の忍鹿比賣の子と考えられる葛木氏の大諸見(?大吉備諸進)が足尼となった。大神は気比から御上神社に権力が遷り、天照大神を祀ったのが大諸見足尼、神子の天皇は大倭根子である。

しかし、孝元朝に大綜杵が神と同等の大祢、政務を司る天皇が大倭根子だったのが、開化朝では分裂した。すなわち、内色許男の娘婿の武建と大峯が大祢、天皇は大臣の比古布都押之信と若倭根子となった。そして、崇神朝に建膽心が大祢(大根・伊理泥)となり、大国の神は御上神社の天照大神と大和神社の大國魂神の分裂状態、二王朝が続いた。

大根は子の十市根が天皇になって穴太足尼、婿の大碓の子が建忍山垂根と継承し、末裔が山代の山背根子、平群の眞根子、そして河内の長江の難波根子と継承した。建忍山垂根の義子の武内宿禰、その子の襲津彦に関連した地域である。

『日本書紀』は小碓を「一書云」で稚倭根子と記述し、稚倭根子を八坂入日女の子にしているのは、太子小碓が(十市)根の婿なのだから根子と考えているのだろう。そして、難波根子の婿と考えられる圓大臣、その娘の韓比賣と婿の大長谷若建との子の白髪が伊波禮甕栗宮の天皇が大倭根子の名を引き継いでいる。

大化二年・696年に唐から独立し、由緒ある天皇の「明神御宇日本倭根子」・「明神御大八洲日本根子」を天武天皇が襲名していたとした。そして、翌年の697年に成人した文武天皇が現御神大八嶋國所知倭根子を宣言したと考えられる。中臣(藤原)氏が熊襲の政権から皇位を取り戻した。

2025年6月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子2

  『伊未自由来記』に宇津志の奈賀は出雲から来て、美豆別之主と取って替わったと記述される。出雲は島根県ではなく若狭湾の出雲である。美豆別之主には幾多の部の民が配下にいたとされ、その中に久米物部も存在し、久米部は美豆別之主を祖神として祀った。『舊事本紀』に、高御産巣日と共に天降った物部氏(物部造の祖の天津麻良・築紫弦田物部の祖の天津赤星)には天物部達の二十五部が存在した。その中に久米物部を含み、この久米物部の首領の天津麻良の後裔に饒速日が存在したのだろう。奈賀の国()は於佐神が建国した土地、長門の須佐出身と考えられる流宮の加須屋大海祇の子と考えられる。

隠岐王は、宇都須山祇が加須屋大海祇の協力を得た宇津志の奈賀なので、大津の王と考えられる宇都須山祇(宇都志國玉)の子のようだ。根国の奈賀皇子、那賀須泥毘古はピタリと合致する名前だ。そして、天富の祖と関係が有りそうな、國忍富は八国野洲の姫と考えられる八河江比賣を妃にし、生まれた子は速甕之多氣佐波夜遲奴美と甕の人物、御炊屋姫も甕師木八姫と考えられる甕の姫である。

天富は『舊事本紀』「天富命於安房地之大玉命社謂安房社」とあるように、太玉を祀る神社()を安房に建てた。その神社が根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱をもつ宮殿と考えられる。そして、子が宇都志の奈賀、宇都須山祇の後継の姫の婿が太玉の子と考えられる阿治志貴高日子根である。

阿治志貴高日子根は下照比賣の義兄、大国主(太玉)の子である。同じく宇都須山祇の分家の御炊屋姫で婿が饒速日、宇都志の奈賀の妃が阿治志貴高日子根の妹の丹波の須津姫である。丹波が現代の丹波か琵琶湖東岸の「たには」なのか不明である。

天若日子の妃の阿治志貴高日子根の伊呂妹の下光比賣は御上神社に祀られたと考えられる天照大神となる。天若日子は天津國玉の子とされるが、婿と考えられ、父は加須屋大海祇と考えられる。隠岐(食国)王になった那賀須泥毘古は妹の御炊屋姫の子の宇摩志麻治を大津の根を支配する足尼に賜姓して、政大夫とした。

すなわち、足尼というのは、食国に代わって根(国神)を治める(たらす)人物で、神武朝の時の足尼は宇摩志麻治だった。神を治める足尼と統治する尼の一人である神武天皇(鞴五十鈴)の傍で実際に統治するのが政大夫である。「衣冠帶劍」の君子国の神武天皇と「冠帶」の周饒国の隠岐だ。

2025年6月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子1

「根子」の「ね」の最初の記述は豐秋津島が根別だとの記述である。豊国の安芸が根国の分国だと述べている。天一根は恐らく宇摩志阿斯訶備比古遲の出身地で、天比登都柱と対と考えられ、その後、根国は「妣國根之堅洲國」と記述された。五島列島の女島・天一根から遣ってきて、壱岐を岩根に建てた柱と考え、壱岐を起点に国を生んだ。阿斯訶備比古遲は子ではないことにした淡嶋近江の伊邪那岐の王朝がその説話を奪った。それは、隠岐から近江に入って来たと考えられる。

父が多賀の出身なのだから、母も同じ近江、堅洲国は堅田のことだろう。そして、天照大神が生んだことになっているが、実際は狹霧から生まれた天子の根国王、それが凡川内國造の祖の天津日子根や活津日子根なのだろう。宇都志國玉(国王)を大国主と呼び、根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱を建てた。宇津氏の王は宇治川の津氏(氏は嶋の「シ」)の意味だろう。そこの女王は狹霧の娘の遠津待根の可能性が高い。

宇都志國玉は大津の國玉、すなわち、天津國玉を意味する。天津日子根の子孫が淡海の忌部の祖の伊勢國造の天日鷲(天照大神を祀る日輪氏)、太玉は活津日子根なのだろうか。事代主の妃が活玉依(玉櫛)姫で、太玉と活津が無関係とは思えない。多紀理毘賣を妃にした太玉(大国主)の子は大宮賣と豊磐間戸と櫛磐間戸、櫛磐間戸は天日方奇日方を生む事代主、豊磐間戸が建御名方、大宮賣が下光比賣だろうか。『舊事本紀』に「娶大國玉神女下照姫」と記述され、下照姫は『古事記』「大國主神之女下照比賣」と大國主の娘なので、大國玉は大国主(太玉)である。

忌部の祖の太玉を祀る神社を安房に立てた天富、勿論、太玉の神社なのだから、安房は淡海の「あは」である。天富は忌部を含む諸齋部を率いて神武天皇の即位に協力した、忌部の上位者で饒速日の義兄の登美能那賀須泥毘古と考えられる。諸齋部の中に物部が含まれ、()富の那賀須泥毘古の妹が御炊屋姫だから、そして、那賀須泥毘古が食国王だから、食国王の妹の子の宇摩志麻治が政大夫になれた。

2025年6月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇根子1

  「根子」の「ね」の最初の記述は豐秋津島が根別だとの記述である。豊国の安芸が根国の分国だと述べている。天一根は恐らく宇摩志阿斯訶備比古遲の出身地で、天比登都柱と対と考えられ、その後、根国は「妣國根之堅洲國」と記述された。五島列島の女島・天一根から遣ってきて、壱岐を岩根に建てた柱と考え、壱岐を起点に国を生んだ。阿斯訶備比古遲は子ではないことにした淡嶋近江の伊邪那岐の王朝がその説話を奪った。それは、隠岐から近江に入って来たと考えられる。

父が多賀の出身なのだから、母も同じ近江、堅洲国は堅田のことだろう。そして、天照大神が生んだことになっているが、実際は狹霧から生まれた天子の根国王、それが凡川内國造の祖の天津日子根や活津日子根なのだろう。宇都志國玉(国王)を大国主と呼び、根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱を建てた。宇津氏の王は宇治川の津氏(氏は嶋の「シ」)の意味だろう。そこの女王は狹霧の娘の遠津待根の可能性が高い。

宇都志國玉は大津の國玉、すなわち、天津國玉を意味する。天津日子根の子孫が淡海の忌部の祖の伊勢國造の天日鷲(天照大神を祀る日輪氏)、太玉は活津日子根なのだろうか。事代主の妃が活玉依(玉櫛)姫で、太玉と活津が無関係とは思えない。多紀理毘賣を妃にした太玉(大国主)の子は大宮賣と豊磐間戸と櫛磐間戸、櫛磐間戸は天日方奇日方を生む事代主、豊磐間戸が建御名方、大宮賣が下光比賣だろうか。『舊事本紀』に「娶大國玉神女下照姫」と記述され、下照姫は『古事記』「大國主神之女下照比賣」と大國主の娘なので、大國玉は大国主(太玉)である。

忌部の祖の太玉を祀る神社を安房に立てた天富、勿論、太玉の神社なのだから、安房は淡海の「あは」である。天富は忌部を含む諸齋部を率いて神武天皇の即位に協力した、忌部の上位者で饒速日の義兄の登美能那賀須泥毘古と考えられる。諸齋部の中に物部が含まれ、()富の那賀須泥毘古の妹が御炊屋姫だから、そして、那賀須泥毘古が食国王だから、食国王の妹の子の宇摩志麻治が政大夫になれた。

2025年6月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話52 女国

  品陀眞若の娘の飯野眞黒比賣は須賣伊呂大中日子を生んだ。天皇は宇遲能和紀郎子で正月辛丑朔のある歳は309年、比布禮大臣の子の印葉が大臣・天皇になった。すなわち、印葉が矢河枝比賣を妃にした人物で、丸迩臣に政権を奪取された。

印葉は多遅麻の子なので五十功彦に当たり、妃は弟比賣である。弟比賣の娘の弟比賣眞若比賣の夫は若野毛二俣で忍坂大中津比賣を生む。しかし、忍坂大中津比賣を生むもう一人の迦具漏比賣が存在する。

息長眞若中比賣の姉の飯野眞黒比賣の子が須賣伊呂大中日子(額田大中日子)を生む。そして須賣伊呂大中日子の妃が迦具漏比賣で忍坂大中津比賣を生むが、忍坂大中津比賣の父は若野毛二俣である。従って、忍坂大中津比賣の夫の男淺津間若子が迦具漏比賣の子、忍坂大中津比賣は義子、迦具漏比賣は石之日賣と解る。

『古事記』では大雀が427年丁卯の歳の八月十五日に崩じたが、『舊事本紀』も「歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と同じ崩御日に記述される。『梁書』に宋大明二年458年記事に「流通佛法經像」、『日本書紀』に「難波大別王寺」とあるように、大別天皇は寺を持っていた。天皇大別とあるように、大雀は意乎巳、大雀を倒した大別は多遅麻の子なので、弟比賣の子である。

木菟と鷦鷯に「取其鳥名」と名を交換した。弟比賣の子に木之菟野郎女が存在し、大雀が婿入りし、木菟宿禰、すなわち、木國王になった。木國の紀武内宿祢が平群木兎宿祢と呼ばれ、名すなわち国を交換した。

宇遲能和紀郎子の妃が八田若郎女(おそらく、宇遲之若郎女)で大別が矢田部の姓を得た。矢河枝比賣が弟比賣で、大雀が姉妹の木之菟野郎女の婿なので、八田若郎女の後見人として、矢田部の姓を得た。皇子十三柱を統治したのが稚彦と従妹の毛良姫、この二名は若野毛二俣と其の母弟の百師木伊呂辨の兄妹はその名に相応しいい。百師木伊呂辨の姉妹は石之日賣、若野毛二俣は葦田宿禰・倭直吾子篭・倭國造の祖の比香賀君で、女国天皇だろう。

2025年6月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話51 弟比賣の終焉

  弟比賣の名の継承と同様に、眞若王・眞若比賣も継承された。師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣と夫の鋤友と考えられる磯城縣主太眞稚彦が始まりである。師木は伊勢遺跡がある首都の地域だ。そして、穂積氏の祖の内色許男の妃の芹田真若姫、その母と考えられるのが春日の千千速眞若比賣である。内色許男の娘が比古布都押之信の母の先代の伊迦賀色許賣だ。そして、比古布都押之信と兄妹の伊迦賀色許賣の共通の孫の八坂之入日子と考えられる水之穗眞若、その子の山代之大筒木眞若と継承される。

伊那毘能若郎女の祖母と考えられるのが御眞津比賣の娘の伊邪能眞若だ。それを継承するのが穂積氏の祖の忍山宿禰と考えられる大碓と伊那毘能若郎女との娘の眞若比賣である。眞若比賣は尾綱真若刀婢の可能性が高い。刀婢は王の呼び名だろう。尾綱真若刀婢の子の品陀眞若、品陀眞若の娘の息長眞若中比賣と続く。

そして、息長眞若中比賣の弟と考えられる伊奢能麻和迦、伊奢能麻和迦と弟比賣との娘と考えられる弟日賣眞若比賣に繋がる。さらに、弟日賣眞若比賣の娘の弟比賣(田井中比賣)、その子と考えられる丸迩臣深目の娘の童女君の娘の春日大郎女の子の春日氏の眞若王(皇女)へと継承されたと考えられる。田井中比賣の娘も弟比賣か眞若比賣だが、その婿は誰だろうか。

反正天皇は五十琴宿祢と多遅麻の娘香兒媛との子の伊莒弗なのだろうか。伊莒弗の妃は倭國造の祖の比香賀君の娘の玉彦媛、子の布都久留・目は共に大連(天皇)になっている。すなわち、反正天皇の子は天皇になっていないので、反正天皇の義父の丸迩の許碁登が伊莒弗である。

難波朝時には比香賀君(若沼毛二俣)が近江の女國の天皇だったが、伊莒弗は難波から稚櫻宮に移り住んで、女國は弟比賣の婿が引き継いだと考えられる。許碁登の娘の子に都夫良郎女が存在し、都夫良大臣の妃と考えられ、弟比賣の夫は皇后黒比賣の兄弟の蟻臣だ。蟻臣の娘の荑媛が市辺押磐の妃でその子の袁祁・意祁が天皇になっている。

荑媛は恐らく財王と呼ばれ、春日大郎女の子に財郎女が存在する。世代的に蟻臣の娘の弟比賣が田井中比賣で、弟比賣は、『日本書紀』では衣通郎姫だが、『古事記』では輕大郎女が衣通郎女なので、輕大郎女である。弟比賣の夫は木梨之輕、意乎巳の兄弟の尾治弟彦の跡継ぎで允恭廿三年三月甲午朔庚子は434年ではなく、正しくは465年に、(三川)穂國造の葛木氏の菟上足尼によって、弟国は消滅したようだ。天照大神を豐鋤入日賣に託してから、八坂之入日子が伊勢麻績君に賜姓されて、尾張氏の弟国は六百年近く、そして、弟比賣も継承されたことになる。