2025年5月30日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話51 中比賣と弟比賣

  『舊事本紀』では五十琴姫は纏向日代宮天皇の皇妃で、纏向天皇は202年に纏向日代宮大連になった多遅麻である。すなわち、膽咋と比咩古の娘の五十琴姫は膽咋の()娘の清媛(河俣稻依毘賣)の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂の妃である。

五十琴彦の娘の安媛が襲名した五十琴姫、それが神功皇后の世代である。比咩古は景行天皇の世代なので、五十琴姫は成務天皇の世代と神功皇后の世代の二世代の五十琴姫が存在する。従って、五十琴彦は初代五十琴姫の婿で、その娘の安媛が二代目五十琴姫で、その夫が多遅麻である。

多遅麻は宇遲能和紀郎子の母の宮主矢河枝比賣の父の丸迩の比布禮大臣で、子の印葉輕島明宮大臣の妃は竹古(品陀真若)の娘の弟比賣と証明した。その弟比賣の父の品陀真若の妃の金田屋野姫も弟比賣でなければ、弟比賣を継承できない。

『日本書紀』は弟比賣の父を河派仲彦と記述し、息長田別の子の品陀真若・咋俣長日子が河派仲彦、その娘が息長眞若中比賣と継承されている。息長眞若中比賣の夫は後の曾都毘古、若狭の気比の和訶奴氣で、角鹿気比大神を祀る笥飯宮の皇子である。和訶奴氣は熊襲梟帥から曾都毘古の名を引き継ぎ、仲国王の帯中日子、妃は息長眞若中比賣である。

息長眞若中比賣の子の若沼毛二俣が弟比賣の子の弟日賣眞若比賣を妃に忍坂大中津比賣や田井中比賣(弟比賣)を生んでいる。息長眞若中比賣の子の若沼毛二俣は、『古事記』の神武天皇の若御毛沼と似通った名である。妃が弟日賣眞若比賣で、若御毛沼は御食津大神と伊奢沙和氣大神の名を交換し、葛城の野伊呂賣に婿入りして伊奢能麻和迦と名を替えた可能性が高い。

葛城の伊呂賣が弟日賣眞若比賣と考えられ、大雀は高木之入日賣の子の伊奢之眞若で、息長眞若仲比賣の娘の石之日賣に婿入りし、子の伊邪本和氣が葛城葦田宿禰と葛城の伊呂賣との娘の伊奢能麻和迦・黒比賣に婿入りしたと考えられる。

2025年5月28日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話50 弟比賣の系譜

  弟比賣が同時に二人以上存在したので弟橘比賣と弟財郎女が存在した。二人の父の建忍山垂根の妃が弟比賣だったと考えられる。同様に、若野毛二俣の妃は、同世代に弟日賣が存在したので、弟日賣の娘の弟日賣眞若比賣であったように眞若比賣を付加して区別した。同じ難波朝の世代に二人の弟日賣が存在しては、区別できないからだ。兄と弟の区別なら、弟日賣と同数の兄日賣が存在するはずである。

息長帶比賣と杙俣長日子の娘の息長眞若中比賣の妹も、眞若中比賣の子の若野毛二俣の妃も、娘の忍坂大中比賣の妹も弟比賣である。すなわち、杙俣長日子の孫の若野毛二俣が杙俣長日子の娘の弟日賣を妃にしているが、これでは世代も系図も奇異である。

三川穂國造は曾都毘古の四世の孫が穂國造なので、曾都毘古の祖父、武内宿禰の父の屋主忍武雄心が三川穂國王と考えられる。すなわち、四世の孫まで、首都に含まれ、屋主忍武雄心の妃の山下影比賣は木國造の娘、兄弟が大荒田で、その妃の玉姫が弟比賣である。そして、その娘達が複数の弟比賣で、尾綱真若刀婢、金田屋野姫、弟橘比賣、弟財郎女だ。

若野毛二俣の義父も祖父も同一人物という矛盾に対して、もう一人、矛盾した人物が存在する。それは、兄弟の娘を妃にした五十琴彦で、膽咋の子である五十琴彦と膽咋の子の竹古の娘の弟比賣を五十琴彦が妃にして、世代に矛盾がある。おそらく、竹古の娘の夫は纏向皇妃の五十琴姫の子の五十琴彦と同音の五十功彦と考えられる。

すなわち、竹古は品陀真若、品陀真若の母の尾綱真若刀婢は乎止輿の子が大酒主、建稲種が大酒主である。建稲種の妃の玉姫が弟比賣、娘も弟比賣で()子の品夜和氣が品陀真若である。品陀真若の娘が弟比賣なのだから、妃が弟比賣でないと、辻褄が合わない。息長帯比賣は362年に薨ずる、後代の人物である。品夜和氣は野洲国王の分家で、金田屋野姫も野洲の姫、弟の大鞆和氣は大伴氏に繋がる人物なのだろう。

2025年5月26日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話49 同時に複数の弟比賣

  『日本書紀』には八坂之入日子の娘に弟媛が存在し、八坂之入日賣の娘にも弟姫が存在する。『古事記』では大根の娘が兄比賣(兄達子)と弟比賣(弟達子)とされ、兄比賣は伊那毘能若郎女の可能性が高く、子が眞若王(兄比賣)と婿の兄日子、すなわち、吉備兄日子が兄比賣に婿入りした日子人之大兄と考えられ、大中比賣の父である。

『日本書紀』の仲哀朝の妃にも大酒主の娘の弟比賣を妃に息長帶比賣が生んだはずの譽屋別を生んでいる。従って、弟比賣を生む葛城の高額比賣も弟比賣、八坂之入日賣の姉妹もその娘も弟比賣と考えられる。同時に弟比賣が複数人存在した時、弟伊那毘能若郎女、弟橘比賣、弟財郎女、弟日賣眞若比賣が存在する。従って、弟比賣の一人の高額比賣は神功皇后を生み、大酒主は建稲種で、その孫の品陀真若の妃が神功皇后(弟比賣)を妃に弟比賣を生んだ。同じ宮の姫は妾と呼び、『日本書紀』は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若の妃を、『古事記』では大酒主の娘の弟比賣と神功皇后を同一人物と見做した。

建稲種の子が「玉姫爲妻生二男四女」とあるが、尾綱根、尾綱真若刀婢、金田屋野姫、の一男二女が記述されるだけなので、建稲種と尾綱根の間にもう一世代存在した。その間の世代が二代目建稲種と二人の弟比賣、弟橘比賣と弟財郎女であろう。建稲種の娘の尾綱真若刀婢の夫の五百木入日子と弟財郎女の夫の若帯日子と弟橘比賣の夫の倭建は太子、弟比賣の夫達が太子だった。

二人の弟比賣は同時に存在しない。すなわち、同時代に二人の弟媛が存在すると、橘比賣と財郎女と名を分けている。弟橘媛が高額比賣で葛木氏、その葛木氏の葛木国造の娘に武内宿祢の妃の葛比売が存在し、葛比売が弟財郎女と考えられる。そして、この葛木の娘は共に忍山の娘で、忍山は弟比賣(弟伊那毘能若郎女)を妃にした、大碓と考えられる。

2025年5月23日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話48 弟日賣の国

  咋俣長日子の子は飯野眞黒比賣と息長眞若中比賣と弟比賣である。弟比賣は同一世代に応神天皇妃が存在し、同一世代に同名の姫がいれば、どちらかに、識別できる接頭語が付かないと区別できず、付加されないので同一人物と考えられる。飯野眞黒比賣の子は須賣伊呂大中日子なので、この世代の皇太弟の大中日子は額田大中日子と考えられ、飯野眞黒比賣は高木之入日賣である。そして、飯野眞黒比賣の婿は尾綱根大臣と考えられる。大鞆和氣(品陀和氣)が中比賣の夫で、建内大臣の子の曾都毘古と考えられる。大伴(大鞆)氏日向襲津彦の娘婿だったことが解る名前だ。神功皇后は筑紫に進出して、大伴氏を日向に追い出し、仲国を支配したと考えられ、良く当て嵌まる。

咋俣長日子(品陀真若)の娘達にも矛盾がある。息長眞若中比賣の子の若野毛二俣は母弟の弟日賣眞若比賣を妃に忍坂大中津比賣を生み世代が違う。すなわち、『古事記』の弟比賣は一代ズレがあるようだ。応神天皇と迦具漏比賣の娘の忍坂大中比賣も記述されるが、これは景行天皇と迦具漏比賣の子が入り込んでいる。

若野毛二俣の母弟は弟日賣だが、弟日賣は大根の娘(『日本書紀』は八坂入日子)、大根は恐らく十市根の父、その娘の兄達子の婿が大碓、弟日賣は大荒田が婿で二代目大碓、孫が神功皇后、高国・仲国・弟国の女王で娘婿が杙俣長日子、その娘が弟比賣と引き継がれている。八坂入日子の娘の弟比賣は大筒木眞若の妃の義娘で、大筒木眞若は印色入日子の可能性が高い。高国は輕島(高島)、仲国は安芸(島根・広島・山口)、弟国は三上山近辺である。

弟比賣は息長水依比賣の子の多多須道主の娘が国に戻る途中に薨じた場所の名を弟国と名付けたことから始まった。多多須道主は丹波(タニワ)の河上の摩須郎女を妃にして、丹波の氏を持ったが、比婆須比賣の子も孫も、婿が入日子と、入国の王の名を持つので、息長氏の住む場所、御上神社を祀る三野が弟国と考えられる。忍坂大中津比賣の妹も弟姫で、「弟姫随母以在於近江坂田」と坂田に住んでいた。三野國造は輕嶋豊明朝の時に弟彦が國造になり、それ以前は首都の一部だったので、国造は存在しない。

2025年5月21日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話47 倭得玉彦と入日賣・入日子

  倭得玉彦の子には弟彦、弟彦は弟比賣の夫の大根、その娘婿も弟彦を襲名する、三野王の大筒木眞若である。すなわち、日女の婿は八坂之入日子の子の大筒木眞若と解った。弟国の唯の日女は弟日女だ。弟彦の子(娘婿)の大海部直の祖の淡夜別の子は初代の膽咋・倭建で、纏向ではなく野洲から穴穂に遷り、子が高穴穂天皇になった。玉勝山代根古は尾張大印岐、乎止輿の義父、五百木部連の祖の若都保は五百木入日子の父の十市根、五百木入日子の妃は尾綱真若刀婢で義父は初代の建稲種、実際は妹なのだろう。

置津與曽(置部與曽)の子の筑紫豊國國造の祖の大原足尼は木國造の宇豆彦道彦男と考えられる。置津與曽が木國造莵道彦、大原足尼の子の荒田彦が葛木に婿入りして葛木國造、娘の葛比売が襲津彦の母である。置津與曽は奧津余曾が支配した土地の王と考えられ、奧津余曾は葛木彦と呼ばれ、葛木國造は葛木彦でもある。彦與曽の子は甲斐國造の祖の大八椅なので、彦與曽は彦狹嶋、譽津別と沙本毘古の娘との子で、大八椅は御諸別と考えられる。大縫は大碓、すなわち、大荒田で小縫は比咩古の夫の膽咋・倭建なのだろう。実子も義子も全て兄弟に挿入されている。

ここで、奇妙なことが有る。建諸隅と意富阿麻比賣は兄弟なのに、意富阿麻比賣の子は入日子や入日賣の名に対し、建諸隅の子や孫は「別」である。「別」は淡道之穗之狹別の国から延々と袁祁之石巣別まで使用されている。しかし、「入」は御眞木入日子に始まり高木之入日賣を最後に現れない。すなわち、「別」れて「入」ではなく、「別」は分家、「入」は地名と考えられる。高木之入日賣は入邑から高島に遷った入邑の日賣を意味する。

野洲に入町が存在し、近江富士・三上山があり、三上は三野の神、八坂之入日子は伊勢神麻績、三野国の領主である。三上山には孝霊天皇の時に創建したという御上神社があり、前代の孝安天皇は尾張氏の朝廷で、尾張氏の神を祀ったと考えられる。祭神は天之御影、娘婿は美知能宇斯、御眞木入日子は兄弟だった。

2025年5月19日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話46 木國の王

  木國造の跡取りの弟比賣の婿の大荒田は木國造莵道彦の娘婿で、屋主忍武雄心の義兄弟だ。莵道彦の子は武内宿禰の義父の木國造の宇豆彦道彦男と葛城国造の荒田彦で、宇豆彦道彦男が大荒田、大津、宇治道、丹波道の王のようだ。荒田彦の娘は葛比売と葛城の高額比賣、葛城は大津の葛川、志賀高穴穂の近辺なので、首都近傍に住む姫だ。

葛城国造は高穴穂から徳勒津宮に遷都してから賜姓されたようだ。首都を含む地域の国造は天皇になってしまう。宇豆彦道彦男は武内宿禰の父の野洲の王の屋主忍武雄心妃の山下影日賣の兄妹で、木國造の莵道彦の子、屋主忍武雄の父の比古布都押之信の妃は木國造の祖の宇豆比古の妹なので、屋主忍武雄心とは従妹、木國造の莵道彦が木國造の賜姓前に妃にした。

葛比売の娘婿が若帯日子、高額比賣の婿とされる息長宿禰の兄弟で、倭建の子供である。高額比賣の娘の息長帶比賣の夫が品陀真若なので、息長帶比賣(金田屋野姫)の母は襲名した玉姫、すなわち、父の世代的に初代息長宿禰は建稲種ということになる。稲依別が二代目息長宿禰である。

五百木之入日子は師木縣主の祖なので徳勒津宮天皇、すなわち、阿波君(近江王)の祖の息長田別である。そして、子の品陀真若の妃の息長帶比賣は坂田宮伊勢斎王禊祓所の女王、近江の王である。君や王と呼ばれるのは同世代で天皇だった人物、一世代60年三代の天皇が存在する。

品陀真若には高城入姫、仲姫、弟姫という娘がいて、息長田別の子の杙俣長日子の娘も飯野眞黒比賣、(息長眞若)中比賣、弟比賣が記述される。飯野眞黒比賣の子は須賣伊呂大中日子、高城入姫の子も額田大中日子で、飯野眞黒比賣と高城入姫は同一人物である。息長眞若中比賣も品陀真若の真若、息長帶比賣の息長を引き継いでいる。飯野眞黒比賣・高城入姫の夫は譽田天皇、すなわち、輕島明宮大臣尾綱根である。尾綱根の太子の須賣伊呂大中日子(尾治弟彦)は即位できず、義兄の宇遲能和紀郎子に皇位を奪われた。宇遲能和紀郎子が嶋豐明宮大臣(大連)の印葉である。

2025年5月16日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話45 忍山宿祢の娘の弟媛の子

  穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子は、義兄弟も含めて9柱の子達が存在する。稚武彦、稻入別、武養蝅、葦敢竈見別、息長田別、五十日彦、伊賀彦、武田、佐伯の皇子である。まず、弟橘比賣の子とされる河俣稻依(稻入別)と夫の稚武彦が存在する。また、弟財郎女の子とされる波多臣の祖の武養蝅は若帯日子、玉姫の婿と考えられる阿波君の祖、阿波君は近江王を意味し、その祖の息長田別である。

讃岐君の祖の五十日彦は來熊田造の祖の大酒主の娘の山代の玖玖麻毛理比賣(弟比賣)の子で五十琴彦、伊賀彦は五十琴宿祢だろう。息長田別の子は杙俣長日子、その娘が飯野眞黒比賣、その子が額田大中日子と考えられ、息長田別は五百木之入日子だろう。

尾張國丹羽建部君の祖の武田は迩波縣君の祖の大荒田の娘の玉姫の婿の建稲種の子の尾綱根に当たるのだろう。 

大酒主は大印岐の娘の真敷刀俾の婿の乎止輿の子の建稲種と玉姫の娘との婿の志紀縣主の祖の印岐美と考えられる。また、参川御使連の祖の佐伯は三川穂国造の美己止直の妹の伊佐姫の婿と考えられる。初代膽咋の嫁である。

高穴穂宮も徳勒津宮も琵琶湖南部の師木縣主の祖の印岐美の宮で、五百木之入日子が高穴穂宮の太子だったので、印岐美が五百木之入日子と言える。そして、息長田別も近江王の祖、琵琶湖全体の王の祖で同一人物である。

仲哀天皇が徳勒津宮天皇で、神功皇后は伊勢國の五十鈴宮を祀り、齋宮で過ごした。伊勢遺跡近くに、坂田宮伊勢斎王禊祓所跡がある。そして、その後、輕島明宮大臣が近江の天皇となる。すなわち、高穴穂天皇は二代目膽咋、太子の五百木之入日子が徳勒津宮、子の品陀真若の妃の金田屋野姫が坂田宮伊勢斎王禊祓所の女王、尾綱根が輕島明宮大臣である。

膽咋は穴太足尼の娘の比咩古(布多遲毘賣)を妃に二代目膽咋大臣を生み、妃は鴨姫、大玉(大国王大碓)の娘である。穴穂天皇の十市根の子の五百木之入日子の妃は大碓の娘の玉姫の娘の尾綱真若刀婢だった。そして、五百木之入日子の子の品陀真若の妃が金田屋野姫、神功皇后だった。

2025年5月14日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話44 木國造

  木國造を最初に賜姓されたのは『舊事本紀』では天道根だった。紀伊國造と記述されるが、天道根は神武天皇に賜姓されているので、紀伊国は和泉県でまだなく、木國のことである。『古事記』は宇豆比古、『日本書紀』は珍彦を倭國造と記述した。『日本書紀』は倭國と大倭國を区別しているので、倭國は九州の倭国の可能性が高い。

『古事記』は宇豆比古を木國造の祖の義子の建内宿禰、『紀氏家牒』は紀伊国造莵道彦の義子の紀武内宿祢である。すなわち、木國の大臣の建内宿禰が山代の紀里に遷都して、珍彦は宇豆、すなわち大津で木國造になったことを示す。珍彦は建内宿禰と共に紀伊國の徳勒津宮を下し、紀建内宿禰、曲浦の九州倭國造の丸迩君の珍彦が木國造になった。品陀和気(襲津彦)は仲国王なのだから、葛城は葛川の葛木の可能性が高く、葛比売は葛城國造の荒田彦の娘、その頃、木國造は宇豆彦道彦と大津から宇治川沿いの王なので、葛川近辺に葛木國が有っても不思議ではない。その北部が高島の安曇川沿いの「しこぶちさん」を信仰する輕島明宮がある朝廷の国である。

木國造は天道根の娘の天道日女(?天照大神)、そして、天照大神を祀る伊勢幡主(伊勢神麻績連の祖は八坂彦)と引き継がれたと考えられる。伊勢主の娘の賀貝呂姫の子の豊御氣主の妃が紀伊名草姫なので、豊御氣主が伊勢幡主の義子、伊勢幡主の跡取り娘の夫が木國造の智名曽、孫が倭國曲浦王の和迩君なのだろう。

建斗禾の妃が智名曽の妹の中名草姫で、子に建手和迩が存在する。木國造の後継者の城嶋連の祖の節名草姫の夫が建宇那比であり、無関係とは言えない。名草姫の草は草津を意味していると考えられ、城嶋連の祖というのは木國の王の祖を意味し、娘の宇那比姫が跡取りで、夫は比古布都押之信(伊迦賀色許男)で、子が山代の内臣の祖の味師内宿禰である。伊迦賀色許男の妃は山代縣主の祖の長溝の娘を代々妃にしている。長溝が味師内宿禰と考えられ、従妹同士の婚姻だ。

木國造の荒河刀辨は伊勢大神を託された豐鋤入日賣の祖父なので、建宇那比(竟富那毘)のようだ。これらは、山代内臣や山代縣主の祖で、木國から後に山代に婿入りする。そして、後の河内に住む志幾の大縣主に繋がると考えられる。

山代大國の淵の娘の苅羽田刀辨が存在するが、日子坐の妃の山代の苅幡戸辨(荏名津比賣)と同名なので、その跡取り娘と考えられるのが苅羽田刀辨と綺戸邊なのだろう。娘婿は倭者師木登美豐朝倉の王の曙立の父の大俣と當麻の勾君の祖の小俣である。當麻君は稻依毘賣の子の大多牟坂、曙立は豐木入日子の子、品牟都和氣が婿入りした可能性が高い。

2025年5月12日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話43 忍山宿祢の娘の弟媛達

『舊事本紀』では、倭建の妃の中に穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛が存在し、『日本書紀』は穗積氏の祖の忍山宿禰の娘の弟橘媛、『古事記』には穗積臣の祖の建忍山垂根の娘の弟財郎女が存在する。忍山宿禰は迩波縣君の祖の建氏でない大荒田で、娘婿の建氏の稲種が建忍山垂根と考えられる。

弟媛や弟財郎女の「弟」は弟国の姫の意味で、建稲種は2代程度存在し、世代としては1世代なので、二人の弟比賣を区別するため、2つの名が必要だったのだろうか。五百木之入日子を婿に迎え入れるまでは宿祢すなわち唯の王で、品陀真若を婿に迎え入れた時は垂根すなわち天皇の隣にいる。

五百木之入日子は尾綱真若刀婢の婿なのだから、子の品陀真若は母の兄の子の婿になる。建稲種の娘の尾綱真若刀婢の婿は五百木之入日子、建稲種の孫が品陀真若、妃は孫同士の金田屋野姫で、その娘の高木之入日賣の婿が建忍山垂根の子(曾孫)の尾綱根大臣である。

『古事記』の弟財郎女の夫の若帯日子は末裔が355年に薨じる人物で、和訶奴氣は394年に薨じる荒田彦の娘の葛比売の子の襲津彦である。建内宿禰の妃には宇豆彦道彦の娘の宇乃媛も存在するが、その妃は紀国の姫で、一世代後である。

建内宿禰は200年頃に木国から山背の紀里に移住し、宇乃媛は木國造の娘だった。葛比売は葛木國造の娘なので、山代移住前、安曇川や葛川近辺の葛木國造の娘を妃にして、その後に山代の平群の王となったと考えられる。201年に宇治川で麛坂王と戦い、山代を奪った可能性が高い。

他に父母が誰か記述しない弟橘比賣が存在するが、弟橘比賣の子が若建で若建は須賣伊呂大中日子を生んで、十市根の父となり矛盾する。正しくは、『舊事本紀』の若建は布多遲比賣の子で近江建部君の祖なので、十市根の娘の布多遲比賣の子が近江朝の皇太弟大中日子である。

弟比賣の子にも、武部君の祖の稚武彦が存在し、布多遲比賣の子の若建と同一人物である。また、布多遲比賣の子の稻依別と弟媛の子の稻入別も同一人物である。実子と義子の違いだ。そして、稚武彦の兄弟に丹羽建部君の祖の武田が存在し、迩波縣君の祖の大荒田(忍山宿禰)の娘の弟媛の子に当たることが解る。

2025年5月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話42 大碓と小碓

  武内宿禰が成務三年に就位した大臣の時の纏向宮皇后は五十琴姫、母の初代の穴太へ遷る前の膽咋の妃が比咩古だ。128~190年の間の「居志賀三歳」からの高穴穂朝時の纏向女王は比咩古と呼ばれたと考えられる。『三国史記』の173年、「阿達羅尼師今・・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」や『後漢書』の189年以降の「桓・靈閒 倭國大亂・・・有一女子名曰卑彌呼」は、この比咩古を大倭女王の卑弥呼と理解した可能性が高い。200年頃から壹国を実際に統治していたのは『日本書紀』「一國之魁帥(?206年)の夏磯姫である。

すなわち、『日本書紀』は神功皇后、『舊事本紀』は比咩古を卑弥呼と想定した可能性が高い。それに対して、『古事記』の息長帯日売は382年の薨で、想定していないし、卑弥呼は記述されない。成務三年に武内宿禰が分朝廷を開くように、初代の膽咋は短命で、纏向に残った比咩古が統治したのだろう。比咩古を引き継いだ天皇の武諸遇の皇妃は穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛、山代の紀の止己呂姫(五十琴姫・清媛)で、子は大中比賣、婿が讃岐君の祖の五十日彦(五十功彦・多遅麻)と考えられる。多遅麻は山代から纏向へ202年に遷都している。

讃岐君は伊久米伊理毘古の義父と考えられる大筒木垂根の弟の讚岐垂根が祖で、大帯日子の祖と考えられた。讚岐垂根は伊那毘能大郎女を妃にした大帯日子、子の大碓は大筒木垂根(大根)の娘の兄比賣(伊那毘能若郎女)を妃にした。叔父の大筒木垂根の妃は弟比賣の沼羽田之入毘賣すなわち苅羽田刀辨で、その娘の弟比賣を妃にしたのが、2代目の大碓の大荒田である。

穗積臣の祖は内色許男、娘の伊迦賀色許賣で夫は大綜杵(日子寤間)、日子寤間の兄弟が若日子建吉備津日子である。大綜杵の娘は伊迦賀色許賣、伊迦賀色許賣の子が御真木入日子で妃が若日子建吉備津日子の娘の針間之伊那毘能大郎女だった。日子寤間は針間牛鹿臣の祖なので、無関係とは言えない。『舊事本紀』は倭建の妃を苅羽田刀辨の娘の布多遲能伊理毘賣、吉備武彦の娘の吉備穴戸武姫、忍山宿祢の娘の弟媛と記述する。

2025年5月7日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話41 大碓

高穴穂宮天皇は十市根、その太子は五百木之入日子だが、娘婿の成務天皇(膽咋)が即位した。初代の膽咋は十市根の娘の比咩古の婿、天皇に即位した2代目の膽咋は鴨姫の婿で、初代が倭建ある。

ところが、『日本書紀』では、八坂之入日賣の()妹の大根の娘の兄比賣・弟比賣を妃にしたのが大碓、小碓(倭建)は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若の子で、妃は八坂之入日賣と同年代の布多遲能伊理毘賣である。すなわち、『日本書紀』の前提は大碓が父の大帯日子の兄弟になり矛盾する。

倭建の記事が『古事記』・『日本書紀』は景行朝、『舊事本紀』は成務朝に記述され、小碓は高穴穂宮の天皇の時代の資料だったことを示している。世代から考えると、穴穂宮太子の倭建は布多遲能伊理毘賣の娘の布多遲毘賣に婿入りした。大碓と小碓は兄弟と記述しているのだから、小碓は大筒木眞若と弟比賣(妾の子)の子、すると、大碓は妾の子の弟比賣と兄比賣の婿となる。

しかし、大碓は大根の娘婿なのだから、初代大碓が大根の娘の兄()比賣、2代目の大碓が大根の娘の弟()比賣の娘の弟比賣に婿入りしたと考えれば合致する。そして、小碓と布多遲毘賣の子は大碓の娘の弟比賣を妃にした。この弟比賣は穗積氏の祖の忍山宿祢の娘、すなわち、2代目の大碓は乎止輿か大荒田である。

また、布多遲毘賣の子は仲哀天皇、そして、仲哀天皇の妃は大中津比賣、その父は『日本書紀』が伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄、『古事記』が迦具漏比賣の子の大枝だ。すなわち、伊那毘能若郎女と迦具漏比賣は同一人物である。大江は庶妹の銀王を妃に大中比賣を生むので、大碓の妃の兄()比賣の子の日子人之大兄が母の妹の弟()比賣、実際は弟()比賣の娘の弟比賣に婿入りした。すなわち、大碓は大荒田だった。

2025年5月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話40 穴穂宮の三太子

  応神天皇の立太子の神功3年は間違いの日干支で234年が正しく、膽咋と比咩古の子の五十琴宿祢が大連に就位した説話だ。しかし、膽咋の妃は他にも存在するので、膽咋の妃の比咩古以降の3妃は2代目膽咋の義兄弟の妃の説明と考えられる。妃が変われば、宮も姓も変わる。伊迦賀色許男や建諸隅の宮は娘が継承して、婿が名を引き継ぐ。比咩古は穴太足尼の娘で、穴太天皇十市根の娘、安國造の祖の意富多牟和氣の娘の布多遲比賣である。

膽咋の妃の鴨姫の父の「あと」の建部君の祖の大玉は名前から玉姫の父の迩波縣君の祖の大荒田と考えられる。『舊事本紀』には穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子に尾張國丹羽建部君の祖の武田王が記述される。すなわち、鴨姫の子、若しくは、兄弟が建部君の祖の稻依別、『舊事本紀』は蘰連の祖の竺志を当てているようだ。筑紫は天種子が攻めているので、その稻や種の文字を名前に持つ建稲種、その妃の玉姫や鴨姫の姉妹が稻依毘賣で夫が息長宿禰、太子の2代目の倭建と想定できる。

稻依毘賣の子は多遲摩國造の祖の大多牟坂で、その子の舩穗足尼が高穴穂朝の多遲摩國造である。多遅麻は纏向宮大連(神功摂政元年に大連・天皇になった)なので吉備風治國造と同祖の多遅麻君と呼ばれ、多遲摩國造の祖の多遅麻は師木出身の丹波・但馬・仲国を支配領域にして、倭と共に新羅を攻めたようだ。

次の妃の伊佐姫の兄の三川穂國造は、後に、葛城襲津彦の四世孫の菟上足尼が賜姓されている。すなわち、同じく太子であった、若帯日子(建内宿禰)と考えられる。三川穂國造の美巳止直は忍山宿祢の娘の弟媛の子の参川御使連の祖の佐伯が考えられる。現代の三河の國造は出雲臣の五世孫の知波夜なので、美巳止直の三川穂國は大根が国造の祖である三野穂國、長浜近辺である。若帯日子は角鹿笥飯宮朝大臣と考えられる。

 宇太笠間連の祖の大幹の娘の止己呂姫は宇太にいた女鳥姫の親の山無媛・宮主矢河枝比賣の家系である。止己呂姫は紀國(木国)の徳勒津宮の比賣、皇后である。建内宿禰は200年頃、大中比賣の子の香坂を滅ぼして平群県紀里に移住している。

2025年5月2日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話39 大荒田の姫の王朝

  太子の名を負った三柱の内、五百木之入日子、若帯日子は忍山宿祢(垂根)の娘婿だった。忍山宿祢は迩波縣君の祖の大荒田で娘の玉姫の婿の建稲種が後継者である。建稲種は葛木に婿入りした葛木縣主荒田彦で、琵琶湖南部木国に住み、木国は首都なので、垂根、木國造の祖の宇豆比古(大津)と呼ばれ、その娘が弟財郎女である。

若帯日子(武内宿禰)は葛比売を妃に子が襲津彦宿祢の和訶奴氣である。『古事記』の神武天皇の若御毛沼と和訶奴氣は類似した同じ地域の名前だ。成務元年131年、膽咋宿祢が大臣すなわち、高穴穂宮の皇位に就き、高穴穂宮3年には武内宿禰が大臣になり、分朝廷を開いた。『紀氏家牒』によると、武内宿禰の妃は紀伊国造宇豆彦道彦の娘なので、木國造の祖の宇豆比古は『紀氏家牒』では木國造宇豆彦道彦と呼ばれた。宇豆比古は垂根、十市根を継承する天皇に準ずる人物だった。

武内宿禰は仁徳朝以降「曰」で記述されているので、応神九年の味師内宿禰との争いまでは襲名されているようだ。応神十六年285年に平群木菟宿禰が登場しているので、武内宿禰がこの頃、木菟宿禰の後ろ盾の丸迩氏の比布禮大臣に敗れたようだ。

武内宿禰は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。その後、山代の平群県紀里へ、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大和葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。妃が葛城国造の娘の葛比売なので合致する。

応神三十年は干支が間違っているので正しくは応神四十年に印葉(菟道稚郎子)が大臣になっているので、尾張氏も紀里の木菟宿禰を頼ったのだろう。応神朝大臣は尾綱根なので、膽咋が高穴穂宮成務天皇で、子(跡取りの姫)が居なかったので、五百木之入日子の子の品陀真若が皇位を継承し、娘の高木之入日賣の婿の尾綱根が天皇(大臣)になった。

3柱の太子を負った、襲名した五百木之入日子(品陀眞若)は輕島明宮の天皇、若帯日子は木国の大臣で、倭建は娘婿が比布禮大臣、孫娘が宮主矢河枝比賣、その子が妹の毛良姫の婿の宇遲能和紀郎子(印葉大臣)で、木津から大津の宇道の大臣だろう。稚彦連・談は額田大中日子と考えられ、高穴穂の太子は大荒田の姫達の王朝の婿だった。