2025年2月14日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話7 大連誕生

  孝昭天皇の娘婿が大倭帯日子国押人だと考えられ、孝安天皇も娘婿の彦国押人・天戸目で、意富夜麻登玖迩阿禮比賣と蝿伊呂杼を生む。孝昭天皇・和知都美も二人の姫を生んだのだから、『日本書紀』の孝安皇后も、『古事記』の大倭帯日子の妃も姪、すなわち、孝安天皇と大倭帯日子は共に、孝昭天皇の娘婿(某姉・某弟)である。安寧天皇の曾孫なら孝昭天皇の子、考安天皇の子では世代が合わない。

孝昭天皇の義兄弟が奧津余曾と御眞津日子、孝昭天皇の娘の忍鹿比賣の婿が御眞津日子の子の大倭帯日子国押人、孝昭天皇の娘の押媛の婿が奧津余曾の子の彦國押人である。押媛は忍日女、忍人と対の天村雲の娘と同名の襲名した尾張氏の継承者である。

『日本書紀』に「觀松彦香殖稻天皇一云天皇母弟武石彦奇友背命」とあるように、多藝志比古は孝昭天皇の母・天豐津媛の弟である。そのことから、多藝志比古は奧津余曾の母の賀奈良知姫の弟で、息石耳の子なので、懿徳天皇や天忍男や天忍人の義兄弟である。奧津余曾大連は息石耳から継承したようで、息石耳の娘の天豐津媛の夫・出雲大臣の娘の子の建甕槌から天皇の璽の韴霊剣を得た。

天忍人は出石心大臣と記述したが、大臣は政策上の責任者で、宗教上の天皇が存在しない。『舊事本紀』は奧津余曾を大連と記述し、孝昭三十一年に大臣に賜姓と記述されている。これは、大連奧津余曾の子が出石心の婿になって大臣に、出石心の子が奧津余曾の娘婿の大連になったのではないだろうか。孝昭朝は83年続いているので、4代程度が交互に婚姻しあって王朝が続いたのだろう。

宗教上の権威は比賣・日子・大祢・大連・根子と呼ばれ、政権の実力者は政大夫・足尼(縣主)・大臣と呼ばれたようだ。宗教上の権威の天皇の史書の『日本書紀』と大連の史書の『舊事本紀』が似通って、政権の実力者の蘇我大臣の史書が異なる理由である。三種の史書は三氏族の王朝が存在したことを示す。

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