2025年1月31日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話1 韴霊剣

  尾張氏の始祖について、『日本書紀』では彦火火出見の弟である火明を「是尾張連等始祖也」としている。『舊事本紀』は天香語山(高倉下)、『古事記』では火明が迩迩藝の兄で、奧津余曾を尾張氏の始祖としている。『古事記』の火明を『舊事本紀』は饒速日と同一視し、『日本書紀』の火明と別人で、各史書まちまちだ。

しかし、それ以前の説話として、伊邪那岐が迦具土を切った十拳劒を天之尾羽張、別名を伊都之尾羽張と呼び、その劒で迦具土を切った際に血から建御雷之男、別名建布都が生まれた。これは高倉下が得た韴霊剣と同名である。後の段では、建甕槌之男が天之尾羽張の子とされ、大国主に国譲りを迫る。

すなわち、これらの説話は高倉下が祀る神の神話と考えられる。迦具土、迦は恐らく河神である「カ」を意味し、対馬出身の河神の「香久」と、対馬の黄泉の神(月讀)を撃つために香久山に集まった石拆、根拆、石筒之男、甕速日、樋速日、建御雷之男、闇淤加美、闇御津羽の八柱の神々によって勝利を収めたのだろう。火の神とする迦具土は、九州の神である加須屋の大海祇、大山津見の一員と思われ、香久山の神に対応するように八柱の山津見を生んだ。香久山は久須夜岳の住人で、久須夜岳は小浜の内外海半島に住む神の久が祀られる巣の八国の山という意味なのだろう。小浜の隣には高浜町があり、高倉下の出身地と考えられる、高浜の倉主なのだろう。

破れて生まれ故郷の対馬の黄泉の国に返されたと考えられる神は、比婆に葬られた伊邪那美とは別人の黄泉津大神である。黄泉で雷を追い返した意富加牟豆美の名を継承したのは、建御雷之男の末裔であり、出雲鞍山祇姫の子である。したがって、尾張氏は賀茂君や大神君の祖神からの分祀と考えられる。このように、武力の象徴である刀の尾羽張という尾張氏が祀る神を配下にした多賀の葛木氏の祖でもある伊邪那岐も、尾張氏が祀る神と理解できる。奧津余曾・葛木彦は尾張氏の祖でもある。

2025年1月29日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話24 磐余稚櫻宮王朝

  志賀高穴穂宮では多遅麻の子である印葉が大臣位を継いで、高穴穂、磐余、難波の三王朝が鼎立する形となった。そして、磐余若櫻宮は西暦400年まで、五十琴宿祢が大連である。

多遅麻の娘の山無媛が輕嶋豐明宮天皇妃とされるが、磐余若櫻宮の香兒媛と世代が異なる。香兒媛は纏向日代宮の多遅麻大連の娘、山無媛は輕嶋豐明宮大連の妹で、間に成務・神功が挟まる。磐余若櫻宮遷都の神功三年の日干支は西暦234年、神功三十四年の日干支で、纏向遺跡の桃の種と同じ頃である。輕嶋豐明宮天皇は尾綱根が大臣なのだから、尾張氏の朝廷であり、琵琶湖西岸の大荒田の娘の子なので、尾綱真若刀婢も「しこぶちさん」の安曇川近辺の輕島の姫と考えられる。

そして、尾綱根は大臣に就いても妃が記述されないが、印葉にも記述が無く、私は印葉が兄ではなく妃が物部山無媛と考える。そして、その娘の物部氏の八田若郎女の婿が大別で、大別は物部氏に記述された。物部氏から見ると大別、尾張氏から見ると意乎巳(大臣)連ということになる。329年に的臣の祖の葛木氏の砥田宿禰や賢遺臣が新羅人を連れて貢獻しているが、この貢献は葛木氏が難波朝天皇との友好関係の発端なのではないだろうか。

輕嶋豐明では五百木之入日子が大荒田の跡取り娘の玉姫の娘の尾綱真若刀婢(仲哀朝時)を妃に迎えられた。刀婢は木国造の王后名で高穴穂王の分王朝のようだ。子の品陀真若王は、やはり玉姫の娘の金田屋野姫(神功朝時)を妃に高城入姫、仲姫、弟姫を生み、その婿が尾綱根大臣と考えられる。

若帯日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名」と三王が太子ということは、三王朝の太子を示している。五十琴宿祢の稚櫻宮は履中朝まで続き、400年から伊莒弗が大連になって、物部氏の神話は終わり、歴史時代に突入する。大連は大和の扶桑国王、大臣は淡海の女国王と『梁書』は記述している。また、若帯日子の宮は帯中日子の宮が閉じる、362年まで続いている。

2025年1月27日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話23 纏向日代宮の王

 


 

膽咋の娘と物部武諸遇の子である多遅麻は、神功朝202年に大連に就位している。彼は神功元年西暦200年頃に高穴穂に移った纏向日代宮の大連の物部武諸遇の子と考えられ、202年に大連に就位しており、多遅麻は高穴穂宮の皇子であった可能性が高い。彼の妃は、高穴穂宮大臣の膽咋の子である五十琴彦の娘・安媛だった。膽咋は128年に高穴穂宮に入ったとされ、十市根の義子となったのだろう。そして、残った人物が物部武諸遇と考えられる。

また、多遅麻の子の物部山無媛は、輕嶋豊明宮の天皇の妃となり、八田若郎女を生んだとなっている。八田若郎女のために御名代として八田部が制定され、この八田部の首領は矢田部造だった。そして、山無媛の父・多遅麻は『古事記』で「丸迩比布禮意富美(大臣)」と記述されている。

輕嶋豊明宮は安曇川近辺にあって、尾綱根が大臣なので、宮主の権力の背景としての比布禮大臣は別の朝廷と考えられる。すなわち、高穴穂宮は分裂したと考えられる。残った膽咋の娘の清媛の婿が物部武諸遇であった。すなわち、清媛は纏向日代宮皇妃の五十琴姫で、纏向日代宮の大連は多遅麻、多遅麻は物部武諸遇を後継した人物、、安媛は五十琴姫を襲名した人物である。

一方で、『古事記』から考えると、五十琴姫の後継者である五十功彦は、大江王であると考えられる。大江王の母は迦具漏比賣で、師木宮の天皇の娘であり、纏向日代宮天皇の妃(五十琴姫)であった。纏向日代宮の後継者は大中津比賣を妃とし、炭素年代測定によれば、纏向宮は240年頃まで天皇の宮廷であったと考えられる。神功皇后摂政3年に磐余若櫻宮への遷都があったとされるが、この日干支は実際には234年であり、年代測定とも一致する。

纏向宮を滅ぼしたのは、膽咋の子で磐余稚櫻宮大連である五十琴宿祢だ。彼は纏向日代宮の多遅麻の娘である香兒媛を妃とした。香兒媛の名前は香坂に類似しており、纏向日代宮皇子の香坂は忍熊を殺害し、後継者になったと考えられる。史書によると香坂は薨じておらず、五十琴宿祢の別名であった可能性がある。

2025年1月24日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話22 纏向朝

『舊事本紀』の物部賜姓の日干支は間違っていて、十市根、実際は大根の賜姓は垂仁即位の前年と考えられる。大新河の物部大連賜姓は十市根が大中姫の婿の皇太弟となった時に賜姓されたと考えられる。首都が変わると名が異なるので、師木宮の名は大根を含めて十市根で、纏向では建諸隅大根と呼ばれたと考えられる。

建諸隅(大根)は崇神天皇65年に新たな纏向朝廷を開き天皇と同等の大連に即位し、十市根の兄弟の大新河を垂仁23年、日干支が間違っているので実際は垂仁54年に大連を任じた。一方、同じく、垂仁81年の間違った日干支を正しく求めなおした、師木玉垣宮遷都前年の紀元前30年に師木宮で建諸隅を継いだ十市根は大新河に物部連という姓を与え、大新河も対抗して十市根に同じく物部連姓を与えた。この結果、纏向と師木の二朝廷に分裂した。

十市根の子の膽咋は穴太の足尼の娘である比咩古を妃とし、高穴穂宮朝の大臣となった。唯一無二の日女の比咩古は天皇と同等の地位であり、その夫が足尼を襲名した大臣である。この足尼が代々大臣を襲名してきた可能性が高い。すなわち、膽咋大臣もそれを襲名したと考えられる。同じ時期の成務三年に大臣になった建内宿禰は景行三年の出生から仁徳五十年まで襲名した。仁徳五十年は西暦362年で『古事記』では帯中日子の薨去年なので、帯中日子まで襲名したのだろう。

一方、大新河の子である物部武諸遇大連は、高穴穂大臣の膽咋の娘・清媛を妃としている。また、膽咋の娘には纏向日代宮の妃である五十琴姫がいる。矢田部造の遠祖である物部武諸遇は、纏向珠城宮大連の大新河の子でありながら、崇神朝の師木水垣宮大連に賜姓されていて、矛盾が生じている。つまり、物部武諸遇(大根)は纏向日代宮大連になったのであり、多遅麻も纏向日代宮大連なので、五十琴彦の娘の安媛が五十琴姫を襲名したと考えられる。そして、崇神朝の師木水垣宮大連は建宇那比の子の建諸隅である。そして、伊迦賀色許男の葛木の宮が併行して存在したと考えられる。

2025年1月22日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話21 纏向と師木の宮の併存

山代の姫が苅幡戸辨と呼ばれるように、木国の姫も荒川戸俾と称され、その王は建諸隅だ。木国の王を「トベ゙」と記述されるのは、神武東征時の名草戸畔が最初で、名草姫の名も襲名されている。

十市根は建諸隅の娘を妃にしているが、孝昭朝から建諸隅も襲名されている。そのため、十市根の妃は襲名された建諸隅の妹、八坂入日賣ともいえる。また、大新河は木国造の荒河刀辨の娘である中日女を妃にしている。どちらも、建諸隅大臣の後継者である。

意富阿麻比賣の母が中名草姫から解るように荒川戸俾を襲名していると考えられ、意富阿麻比賣もまた木国造の荒河刀辨といえる。このため、大新河と十市根は荒河刀辨(長溝)の娘を介して同世代の義兄弟、日子坐の子にもあたることになる。

大新河の別名は比古意須、伝統ある食国の継承者であり、伊理泥が十市根(大根)の妃、つまり伊理泥(入姉)が十市根の妃と考えられる。このため、十市根の別名は「入杵」と考えられ、入杵の娘婿が師木玉垣宮の須賣伊呂(皇太弟)の大中日子(2代目十市根)だ。『日本書紀』ではこれを「大中姫」と記述しているため、柴野比賣が大中姫であると考えられる。

一方、『古事記』の大中姫は纒向日代宮の姫で、子には香坂と忍熊がいることから仲哀朝の妃であり、仲哀朝は纒向日代宮を首都としている。纏向日代宮の皇妃は五十琴姫であり、纏向日代宮大連は物部武諸遇の子が高穴穂に逃れた以降は分裂して、力を弱めたと考えられる。

記録が開化期の建諸隅から景行期の物部武諸遇を中心に記述されたため、妹が娘や孫が同じ世代の妃とされており、朝廷が一部で世代をまたいで表現されている。師木と纒向が220年間併存したことを一世代で表現しているため、このような系図の混在が生じている。

纏向珠城宮の大新河、纏向日代宮の物部武諸遇及び202年以降の多遅麻と師木玉垣宮の十市根、志賀高穴穂宮の膽咋の政権は並行して存在した。『舊事本紀』では神功元年は202年、『日本書紀』の201年とズレがあり、共に正しい日干支で、2つの神功朝が存在した。志賀の高穴穗の膽咋は輕嶋豐明宮の印葉まで続き、王名は1つの王朝世代に1つの名が襲名された為の混乱である。

2025年1月20日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話20 大新河と十市根

  竟富那毘の子である建諸隅は、葛木天皇の子の大諸見足尼の娘である諸見巳姫を妃とした。諸見巳姫は山代宿祢の味師の妹と考えられるが、同時に山代出身の姫がもう一人おり、それが日子坐の妃である荏名津比賣だ。

日子坐の名前は崇神朝が65年続くのだから、襲名され、継承されている可能性が高い。その襲名された日子坐が意祁都比賣を妃とし、山代の大筒木眞若という子が生まれた。大筒木眞若は意祁都比賣の孫も妃に迎えられているため、世代が混在している。師木朝が水垣宮と玉垣宮が有るからだろう。

大筒木眞若は日子坐の子だが、彼の兄弟には唯一無二の比古の名を持つ比古意須が存在する。さらに、大筒木眞若の子の迦迩米雷は遠津臣の娘を妃にしており、遠津臣は木國造の荒河刀辨の娘にあたる。遠津氏の娘の年魚目目微比賣もまた遠津氏であり、遠津氏の姫の高材比賣と迦迩米雷とが婚姻した。

木國造は智名曽で娘婿は竟富那毘で荒河刀辨にあたり、城嶋連の祖、すなわち、木国の師木宮の王である。その娘の年魚目目微比賣の夫が襲名した建諸隅の味師内宿禰となる。日子坐がその妹の袁祁都比賣(意富阿麻比賣)を妃に生んだ大筒木眞若は八坂入日子で、義兄弟が神大根と大新河である。

そして、大筒木眞若は姪である伊理泥の娘を妃に迎えているため、ここで系図に一世代の矛盾が生じた。また、十市根は物部武諸遇の娘を妃に迎えているため、兄弟の大新河の子である物部武諸遇が義父の関係になってしまった。

しかし、この矛盾は、伊迦賀色許男・日子坐と建諸隅の娘の初代伊理泥との子の比古意須が大新河、姉の伊理泥の婿が建諸隅を襲名した大筒木眞若、その娘婿が神大根の子の十市根と解釈すれば解消できる。

大新河は纏向珠城宮の王であり、その子の物部武諸遇は日代宮の王、十市根は師木玉垣宮末、日代宮と同世代の王であり、間に王が存在しないと合わない。それを埋めるのが、神大根で三野國造、三野國の王の八坂入日子の娘の八坂之入日賣の婿が十市根である。

2025年1月17日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話19 木国造は丸迩氏

  伊迦賀色許男の子は大新河で、その妃は紀伊荒川戸俾の娘である中日女である。「木國造荒河刀辨」とあるように、中日女は木国造の娘である。したがって、荒川戸俾は木國造なので、木国造の智名曽の娘であり、木国造の氏族である木島(城島)連の祖の節名草姫に婿入りした竟富那毘も木国造と考えられる。

この竟富那毘の子で大臣となった建諸隅は、紀伊国造の後継者である可能性が高い。紀伊国造の妹の子が建氏の手和迩、同じく孫が和迩君の祖なので、木国造は丸迩氏だった。すなわち、丸迩臣の祖の日子國意祁都は、木国造の建諸隅が襲名した可能性が高い。したがって、建諸隅は孝昭朝の時代から大臣を務めており、木国造の丸迩氏と推測される。

丸迩氏の紀伊國造の智名曽の妹である中名草姫の子の竟富那毘は、城島連の祖である節名草姫を妃としている。節名草姫は紀伊國造の智名曽の子と思われる日子國意祁都の妹である可能性が高く、意祁都比賣であると考えられる。竟富那毘は意祁都の名前を継承し、その後継者は妹の宇那比姫、すなわち意祁都比賣で、その子が日子坐であると考えられる。

比古布都押之信は、高千那毘賣以外に、木國造の祖の妹である山下影日賣を妃としている。山下影日賣もまた意祁都比賣と呼ばれたと考えられ、武内宿祢は建諸隅から武氏を継承し、味師内宿祢から内宿祢の姓を引き継いだと考えられる。武氏は葺不合の妃の玉依姫の兄弟と考えられる大倭国造の祖の武位起から継承されている。大倭国造は木国造の祖の曲浦出身の珍彦が神武東征後に賜姓された。首都が大倭国の時に国造は奇異なので、後漢時の九州か、大倭國造吾子篭の頃で、大和ではなく淡海である。

開化天皇の妃は竹野比賣が大毘古の、伊迦賀色許賣が大毘毘の、意祁都比賣が葛城の垂見宿禰の娘の鸇比賣で建諸隅の妃の可能性が高い。葛󠄀木直の祖の葛木天皇の大諸見足尼の娘の諸見巳姫である。建諸隅は孝昭朝から襲名されているための混乱で世代にズレがあったと考えられる。

2025年1月15日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話18 足尼と建氏

  葛木氏の大倭根子天皇の娘である倭迹迹姫を妃にした比古布都押之信は、葛木朝廷の後継者で葛木直の始祖と考えられ、葛木王家の姓が足尼の諸見や宿禰の垂見と呼ばれていた可能性が高い。そして、娘である諸見巳姫は、建諸隅の妃となった。

「諸」は「多くの」、「見」は神を意味し、「垂」は「帯」や「足」と同様に「支配する」を表すのだろう。足尼が同時代に複数人現れて宿禰(王・首領)と呼ばれたのだろう。つまり「足尼」は「宮を支配する王」を指し、春日宮と対立した葛木の輕宮の王家と考えられる。初代の「足尼」は宇摩志麻治で、皇后のそばに仕え、代わりに統治したことからその名を授けられたとされ、大臣そのものの役割を担った人物で政大夫とも呼ばれた。

「足尼」は一王朝に一人の存在で、複数存在する宿祢とは別の、宿祢の最上位の姓である。「足尼」を賜姓されたのは彦湯支が木開足尼、出雲大臣の子の三見宿祢、同一人物かも知れない出雲臣の祖の佐比祢足尼が存在し、以降、成務朝以降に足尼が多数存在し、武内大臣から大臣を区別し、宿祢に近づいた。

比古布都押之信の子は妃の倭迹迹姫の母の内色許賣の内氏を継承する、「山代の内臣の祖」である。また、比古布都押之信の娘婿である竟富那毘の子が建諸隅で、これは古代の王家の互いに婚姻しあう姻戚関係を示している。山代の宿禰の子の内氏の味師は、山代縣主の祖とされる山代の長溝と同一人物と考えられる。

垂見宿禰の娘である鸇比賣と諸見足尼の娘の諸見巳姫は一世代異なる。しかし、建諸隅と諸見巳姫の子は「建()氏」ではない。「建氏」は、豊御氣主(またの名を建甕依)の妃である建諸隅の祖母の姉妹にあたる紀伊の名草姫から受け継いだ氏族と考えられる。すなわち、紀伊の智名曽の娘が宇那比の母の城嶋連の祖の節名草姫の可能性が高い。智名曽と名草姫の宮の子達が互いに婚姻し合っていると考えられるからだ。

2025年1月13日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話17 物部武諸遇

  丸迩臣の祖である日子國意祁都は、氏族の中で唯一無二の「日子」の姓を持ち、その称号は他の大臣、大連、天皇、縣主といった位に匹敵する。同様に、大綜杵大臣の子である比古布都押之信も、唯一無二の名をもち、伊迦賀色許男大臣のことである。伊迦賀色許男大臣は開化朝と崇神朝における大臣として襲名されていることがわかる。これにより、2世代にわたって伊迦賀色許男が存在していたと考えられる。

比古布都押之信は日子國意祁都と義兄弟関係にあり、その丸迩臣の祖の妹の袁祁都比賣の子に唯一無二の「日子」の名を持つ日子坐王が存在する。この日子坐が崇神朝で伊迦賀色許男大臣と考えると理に適う。この日子坐王は山代の荏名津比賣を妃にしたが、彼女は世代としては山代王(山代の宿禰)の味師内宿禰の姉妹にあたり、これによって内臣の家系につながる。伊迦賀色許男は山代縣主の祖、すなわち山代王の長溝の娘を三代に渡って妃にしているので、味師内宿禰が長溝である。『古事記』が山代荏名津比賣、弟袁祁都、伊理泥の娘の丹波能阿治佐波毘賣、『舊事本紀』は真木姫、荒姫、玉手姫である。

したがって、崇神朝には襲名した日子國意祁都が存在した。また、木国造の娘である日子國意祁都の妹に婿入りしたのは、比古布都押之信の義兄の竟富那毘であり、日子坐王がその娘、従妹を妃に迎えたのは王朝継承の理にかなっている。すなわち、日子國意祁都は建諸隅として孝昭朝に仕えた大臣であり、世代を考えると、崇神朝にも襲名されたが、これは木国造建諸隅という孝昭朝から継続する姓の継承者だったからだと思われる。

『舊事本紀』では、物部武諸遇が垂仁朝大連の大新河の子であり、また垂仁朝の十市大連の妃の父として記述されているが、武諸遇はさらに成務朝においても大臣の娘を妃に迎え、その名を継承した一族と考えられる。本来、景行朝の人物が崇神朝に出雲の神宝見分を行うというのは矛盾していて、垂仁朝以前の物部武諸遇は尾張氏の建諸隅と考えるのが理に適う。すなわち、尾張氏の建諸隅と物部武諸遇は襲名した同一氏族と考えられる。木国建諸隅は纏向に移住して物部武諸遇、平群の紀里に移住して木菟宿禰と呼ばれたのだろう。師木朝廷の時は、木国が首都なので、木國造の祖の宇豆比古、紀伊國荒河戸畔、山代の大國の淵などと呼ばれている。

2025年1月10日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話16 王朝継承の論理

  王朝が続く期間は長ければ100年程度であり、一代を親子の年齢差で約20年とすると、5代ほどが継承していくはずだ。王家の夫婦が次代を残すためには3人以上の子供が必要で、最低でも5代で100人程度の子供が存在していたと考えられる。このようにして、景行天皇は60年で76柱の子と記述しているが、史書には個人名を記述しない。

『三國志』に「大人皆有四五妻」と記されているように、王家の婿は同じ宮に住む出産適齢の姉妹すべてを妃にしたと考えられる。そして男子たちは宮から出され、跡取りが他の宮で子を作った場合でも、その子供は王朝の分家で、庇護者の少ない氏族となる。つまり、複数の妃がいる宮は、他の王家から出された皇子が婿として迎えられた宮と考えるのが合理的だ。そして、有力な王家の皇子は引く手あまたで、競って迎えられたと考えられ、王朝が形成される。

王家と皇后の氏族の首領とは同じ宮に隣接して暮らしたと考えられる。すなわち、若い青年は、交流域自体が狭かったと考えられ、4・5人の皇后や皇后の姉妹や従姉妹の娘達に、皇后の兄弟の王家の皇子が婿入りして、王朝が継承される。

それ以外の皇子たちは別の氏族の宮に婿入りし、それが、史書に記述された複数の妃と考えられる。本来であれば、王家の皇子たちは数十の宮に婿入りしていたはずだが、朝廷の主要な氏族以外の記録は残らないのだろう。もしその宮に後継の姫が無い、若しくは、皇后の兄弟が権力者で無くなると、王朝は滅ぶ。

王朝の記録が途絶えた場合でも、その宮には後継の姫や迎えた王が引き続き存在していた可能性が高い。ただし、権力は分家の女王が新しい王朝を開くか、強力な王家に婿入りした皇子によって移動する。例えば、綏靖朝の依姫のように分家が新たな王朝を築くか、孝安や孝元朝のように、皇子が強力な王家の婿になることで権力が移る。坐王や伊迦賀色許男のように、同じ氏族の複数の姫を妃と記述する王は、複数世代にわたって子孫が相互に婚姻関係を持ったためと考えられる。

宮の姫たちは意祁都比賣のように同じ名で育てられ、姉(根・ネ)姫・妹()姫・東(コチ)・中(南・ハエ)などと区別したのだろう。そして、異なる名が与えられたのは、分家や異なる世代を示している。普通の王家の妃は「兩或三」なので、大人は同じ宮に姉妹の複数の母親が住んで、権力者の後継者の子である従兄の1人が婿いりし、複数の母親の娘を妃にしたのだろう。後継者一家は宮に残り、他の子は宮を出されたと考えられる。

2025年1月8日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話15 王朝継承

  波延の王朝は、代々跡取りの男王は波延の某兄、波延の姉の夫と呼ばれ、王が波延を襲名したことから、王位波延は皇后の長女だったことが理解できる。王朝交代は依姫が皇后になった。大綜杵の王家継承も、同様に、長女が母の伊迦賀色許賣の名を継ぐのが王位継承だが、御眞津比賣が新たに王家を開いたため、異なる首都の王家が起こったことがわかる。御眞津比賣の子には春日伊邪河宮にゆかりのある伊邪能眞若や、長浜の伊香具神社の近くにある伊香郡と関連のある地名を持つ伊賀比賣が含まれており、春日宮の継承があったことを示している。

伊香郡には、かつての乎彌神社、大国の臣の神社があり、後に春日神社と名を変えている。つまり、この地域には春日と深い縁のある神社が存在しており、御眞津比賣が春日宮の分家の姫であったことがわかる。開化朝の時代には春日宮を引き継ぐ御眞津と輕宮の安曇川近辺に分かれた二つの王家が存在し、春日・輕両王家が並立していたと考えられる。

すなわち、御眞津や御眞木は現代の「マキノ」と考えられ、琵琶湖の北岸が春日王家、西岸が輕王家だったと比定される。そして、春日王家の比古布都押之信が葛川のある葛木の伊香立に婿入りして、琵琶湖南岸の師木朝廷を開いた。葛木の木は国の岐の意味で、3朝廷鼎立である。

伊迦賀色許男に比定される比古布都押之信は、尾張連の祖である紀伊國造の妹の中名草姫の子の竟富那毘の妹で、実際には大毘古の妃が妹でと思われ、義妹にあたる葛木の輕の高千那毘賣を妃に迎えた。この竟富那毘とは建宇那比であり、義妹の高千那毘賣は内色許賣の娘の倭迹迹姫だった。義兄妹の関係には和迩臣の祖である日子國意祁都の妹である意祁都比賣も含まれる。竟富那毘は大国の那毘、建宇那比は建氏の宇治の那比の意味なのだろう。

2025年1月6日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話14 春日宮と輕堺原宮

王朝継承は長女が伊迦賀色許賣の名を継承するものだが、御眞津比賣が皇后の長女でない、新しい王朝を開いたことを意味する。これにより大彦の子による王朝が開かれたことを示している。御眞津比賣の子供には春日伊邪河宮の名を引き継ぐ伊邪能眞若や、長浜伊香具神社が存在する伊香郡の地名と関わると思われる伊賀比賣などがいる。これらは春日宮の継承を意味する。

伊香郡には旧乎彌神社、すなわち、大国の臣の神社があり、それは後に春日神社と改名されたことから、御眞津比賣が春日宮王朝の皇后であったことがわかる。これにより、崇神天皇の時代には、少なくとも、春日と師木の2王朝に分裂していた可能性が示唆される。

春日宮に関しては、内色許男が春日の千千速眞若比賣の娘である春日の千千速比賣(千乳早山香媛)を妃に、その子供として伊迦賀色許賣が生まれたと考えられる。この伊迦賀色許賣は、長浜にある伊香具神社の近くで生まれたのだろう。この伊迦賀色許賣の夫が大綜杵で、孝元朝と同時の春日宮大臣、すなわち、輕境原宮内色許男大臣と同時に大臣だった。分朝廷の大臣だったのが、内色許男と大綜杵が兄弟だった理由である。

また、輕堺原宮では、内色許男の娘に婿入りした比古布都押之信が堺原宮朝廷を継いだ。その妹である伊迦賀色許賣は、春日の伊邪河宮に大毘毘を夫に迎え、そこで朝廷を開いたと考えられる。

また、伊迦賀色許男である比古布都押之信は、尾張連の祖である竟富那毘の妹(実際には義妹)である葛城之高千那毘賣を妃にした。竟富那毘は建宇那比のことと考えられ、義妹の高千那毘賣は倭迹迹姫、琵琶湖に相応しい天の魚が名である。葛城之高千那毘賣は葛木天皇の母の細媛の弟の倭迹迹姫で、十市縣主建斗禾の娘である。大毘毘の妃の姉妹が倭迹迹姫なので、兄妹に記述され、その夫が少名日子建猪心・比古布都押之信である。

2025年1月3日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話13 伊迦賀色許賣の子

  『古事記』によれば、比古布都押之信の妹である伊迦賀色許賣が、御眞津比賣と御真木入日子を生んでいる。しかし、『日本書紀』では御眞津比賣が記録されていないため、分家の姫も記述されず、御真木入日子が婿だったのではないかと考えられる。

孝元天皇、開化天皇、崇神天皇の時代はそれぞれ約60年で、3世代くらいの人物が子供を生んでいるはずだが、記録に残っている子供が少ないのは、単に分家の記録がなく、長女が婿を取ったためだと考えられる。記述されるのは分家、違う氏族に婿入りした人物を記述したと考えられる。崇神朝は御眞津比賣の子が6人に対して、孝元、開化朝の皇后の子は2~3人、子・孫だけでも、もう2名程度いてもおかしくない。

開化天皇の時代に、大綜杵の娘である伊迦賀色許賣の夫は大毘毘と記述される。『日本書紀』には「御間城姫大彦命之女也」と書かれているが、これは婿が大毘古の子供とすれば義娘の御眞津比賣と説明できる。実際、崇神天皇の記録には、御真木入日子の妃が御眞津比賣であったことが記され、御眞津比賣は分家で、跡取りは襲名した長女の伊迦賀色許賣と伊迦賀色許男の子から生まれた襲名した伊迦賀色許男と伊迦賀色許賣がいたはずだ。

大毘古は大縣主と同じ意味を持つと考えられ、大縣主は大縣の王、大毘古は大国の彦すなわち大国の王で大縣主に婿入りし、妃は竹野比賣となる。もし、御真木入日子が大毘古の子供であれば、その子が御真木入日子、つまり、御真木入日子は比古由牟須美と同一人物だった可能性がある。

『古事記』によれば、大毘古の子供は建沼河別と比古伊那許士別だ。しかし、国名の付かない唯一無二の「比古」は天皇の称号と考えられ、比古由牟須美と同じ人物である可能性が高いと考えられる。同じ王朝内に2名の天皇は存在せず、由牟須美という名前は、産巣日の神を祀るという意味合いを持っている。また、伊那許士は地名であり、伊邪河宮の近くに位置していた可能性がある。

伊那許士別が御眞津比賣を意味する可能性も考えられる。2名の子がいて、1名のみを記述するということは、一方は別の王家の義子と見做すべきだろう。