2024年12月30日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話12 伊迦賀色許男

   大綜杵の子供には、伊迦賀色許賣と伊迦賀色許男がいる。『古事記』によると、孝元天皇の時代の妃である内色許男の娘の伊迦賀色許賣の娘は、当然のことながら、『舊事本紀』に記される開化天皇の時代の妃、大綜杵の娘である伊迦賀色許賣と考えられる。

つまり、孝元天皇の時代における大綜杵の妃は、内色許男の娘である伊迦賀色許賣であり、彼らの子供である比古布都押之信は伊迦賀色許男にあたる。跡取りとなる姫である伊迦賀色許賣については、記述が残されていない。これは、跡取りの姫は記録しないというルールによって記述されていない可能性がある。神武から孝安天皇まで、1王朝に数代の皇位継承が有ったと考えられるのに、姫は全く記述されないのが証拠である。跡取りの姫が後を継げば王朝は続くため、特に記述する必要がないからだ。しかし、跡取り以外の者が後を継ぐ場合は、王朝が変わることになる。

したがって、伊迦賀色許賣もまた分家王朝に属すると考えられる。内色許賣の跡取りの姫は『古事記』には記述されていないが、跡取りは倭迹迹姫であったと推測される。そして、『古事記』には記載があるものの、『日本書紀』には「天皇の母弟」とされる少名日子建猪心についての記述がない。

さらに、『紀氏家牒』には「孝安天皇曽孫屋主忍武雄心」が記されており、建猪心が武内宿祢の父であることが述べられている。武内宿祢の父は比古布都押之信、孝安天皇の曽孫は『古事記』に少名日子建猪心が曽孫として倭迹迹姫の代わりに記述されている。このように、倭迹迹姫の婿が比古布都押之信であることが証明されている。つまり、倭迹迹姫は葛城之高千那毘賣であり、倭迹迹姫と父も母も異なり兄妹ではない。すなわち、輕堺原宮天皇の妃は内色許賣であり、伊迦賀色許賣で無かったように、春日伊邪河宮天皇の妃は其々異なる王の妃とわかる。

内色許賣は波延王朝の後継者の蝿伊呂泥娘で、倭迹迹姫はその後継者、波延王朝は丸迩臣の祖の帶日子國押人もその一人だった。すなわち、丸迩臣の祖の後継者の倭迹迹姫は意祁都比賣だった。

2024年12月27日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話11 二重権力

  大臣の就位は、出雲色が懿徳2年の遷都後すぐに、出石心は孝昭天皇の治世の初年に大臣に就位しているが、内色許男は、恐らく、孝元8年に2代目が皇位継承した時に大臣となっているようだ。また、同時に大綜杵が大祢になって、大祢の名は安寧4年に出雲醜が政大夫に就位した時、初めて侍臣となって出来た。大祢は皇后()に仕える、神に準ずる人物であると考えられる。

懿徳天皇の治世には大祢の役職が存在しないため、大臣がその役割を兼務していたようだ。大綜杵も同様に、開化天皇の治世8年に大臣に就位しており、二名の武建と大峯が大祢となっている。これは皇后が二人いて、朝廷が分裂していたことを示唆している。大綜杵は内色許男が大臣に就位した時に大祢になっており、物部氏にも二重権力が生じたと考えられる。

また、穂積臣の祖の子孫として若帯日子の義父の建忍山垂根が存在する。彼の娘である弟媛(『古事記』では弟財郎女)は阿波君の祖である息長田別を生み、その子が杙俣長日子、その子が飯野眞黒比賣、その子が須賣伊呂大中日子、その子が迦具漏比賣だ。ところが、迦具漏比賣は先祖返りして、若帯日子の親の大帯日子の妃となり、彼女の子供が大江王、その子が大中比賣、その子が仲哀天皇の子の香坂王と忍熊王だ。忍山垂根の後裔が忍山垂根の義兄弟というのは矛盾している。

この建忍山垂根は、世代的に見ても成務天皇や倭建の義父の世代である。それなのに、迦具漏比賣の夫の大帯日子より前の人物では矛盾しているが、景行時に迦具漏比賣、成務時に大江王、仲哀時に大中比賣は世代に矛盾はない。迦具漏比賣以前を遡ると、景行時に迦具漏比賣、垂仁時に須賣伊呂大中日子、崇神時に飯野眞黒比賣、開化時に杙俣長日子(武建大尼)、孝元時に息長田別(内色許男)、孝霊時に弟媛(大水口の娘の坂戸由良都姫)、孝安時に建忍山垂根(大水口)と考えれば合理的である。ここでも、二つの勢力が残した系図を合成しており、物部氏に二つの権威があった。

2024年12月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話10 某姉の子と某弟の子

物部氏の大臣として、出石心の次は内色許男である。孝昭天皇の娘婿である蝿伊呂杼は、奧津余曾の子だと考えられ、次の天皇である孝安天皇は彦國押人である。王朝が交代したのだから、皇后が蝿の妹になり、妹婿は奧津余曾の皇子だったと考えられる。つまり、跡取りである娘婿の蝿伊呂泥が出石心の後継者であり、孝安天皇の治世において臣下として宿祢を賜姓されたことを意味する。三見宿祢も波延の後継者であり、次代の蝿伊呂泥、姉の婿である大水口や、次代の蝿伊呂杼、妹の婿である孝霊朝の宿祢の大矢口である。

大水口は穂積臣の祖であり、子供がいないとされているが、穂積臣の祖には内色許男や建忍山垂根がいて後継者がいた。大矢口の妃である坂戸由良都姫は、大水口の娘である可能性が高い。坂戸造は「五部造爲件領卛天物部天降供奉」と記述されるように坂戸造が物部氏の支配下の五部にあることから、その首領が大水口宿祢であると考えられる。すなわち、大矢口が姉の婿であると推定され、彼らの子供に孝元朝の大臣である内色許男と、皇后である内色許賣がいるが、大綜杵は開化朝の大臣であり、世代が異なる。

『古事記』には「娶内色許男命之女伊迦賀色許賣」とあり、『舊事本紀』には「伊香色謎命大綜杵大臣之子」と書かれている。つまり、内色許男の娘である伊迦賀色許賣が大綜杵の妃となり、娘が襲名した伊香色謎であるとすると、理にかなっている。内色許男の娘と内色許賣の皇子が結婚し、2代目の内色許賣と次女である伊迦賀色許賣が生まれたと考えられる。このような継承方法が、孝元天皇の治世で57年間にわたって繰り返された可能性がある。

内色許男の長男は内色許賣の娘に婿入りする。玖迩阿禮比賣の婿である絚某姉の大矢口の娘が内色許賣である香媛の可能性がある。また、日子刺肩別が内色許男である可能性も高い。同じように、蝿伊呂杼の子である日子寤間が開化朝の大臣の大綜杵である可能性が高い。頭に国名が付かない日子は唯一無二の天皇や大臣である。

2024年12月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話9 「一書云」の意味

  『日本書紀』によると、安寧から孝安天皇にかけて、懿徳天皇を除き、すべての天皇の皇后の父は「波延」であり、懿徳天皇は波延の弟だったと記述されている。これは懿徳天皇が分家にあたり、他の天皇は波延の娘婿が皇位を継承したことを示唆している。

安寧天皇の治世38年間では、初代安寧は波延であり、皇后は神氏の渟名底仲媛だ。波延の妹の子であり、また、娘婿である玉手見が2代目の天皇になった可能性が高い。それが、『日本書紀』の推定が「一書云磯城縣主葉江女川津媛」で、川津媛が阿久斗比賣であった可能性が高い。王朝は娘が相続し、もし分家した娘以外に相続する直系の娘がいなければ、王朝の交代が起こる。

綏靖天皇の治世33年間では、初代天皇は日子八井で、皇后は五十鈴依媛だ。2代目の天皇も皇后は変わらず當藝志美美だ。磯城縣主の阿多氏の久流久美は日子八井または當藝志美美のいずれかであり、その娘婿が彦湯支だ。彦湯支の妹は河俣毘賣、彼女の婿が3代目綏靖天皇の沼河耳だったと考えられる。これが、「磯城縣主女川派媛春日縣主大日諸女糸織媛」の記述と考えられ、子供が春日縣主に婿入りしたと考えられる。

懿徳天皇の治世34年間では、初代懿徳天皇である出雲醜の妃は、倭志紀彦の義妹である真鳥姫(天豐津媛)だ。出雲醜は波延の男弟(もしくは義理の妹婿)であり、その名は猪手と呼ばれたのだろう。2代目懿徳天皇は、猪手の娘である泉媛の婿で、もし泉媛が沙麻奈姫であれば、建飯勝が候補の一人だ。この建飯勝が、「磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛」の記述に該当し、皇子が師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の娘、「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」と鋤友の娘に婿入りした可能性がある。

同様に、初代孝昭天皇は波延の和知都美であり、皇后は世襲足媛だ。娘婿である蝿伊呂泥は奧津余曾の子供であったと考えられる。この関係が「磯城縣主葉江女渟名城津媛」の記述に合致し、これらの関係が83年間にわたって続いていたと考えられる。

孝安天皇も「磯城縣主葉江女長媛」とされており、波延の朝廷が存在していたが、王朝は蝿伊呂杼、すなわち、分家した次女の婿に交代したと推測される。

波延の朝廷は「十市縣主五十坂彦女五十坂媛」と十市縣に皇子が婿入りすることで終焉を迎えた。孝霊天皇は波延の朝廷の分家である十市縣主の祖の娘を妃とし、新しい王朝を開いた。この新しい王朝が「春日千乳早山香媛」と春日縣主に婿入りした阿多氏の後裔の王によって始まったと考えられる。

2024年12月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話8 王朝の皇位継承

孝昭天皇の妃は、奧津余曾の妹である世襲足媛だった。つまり、孝昭天皇である出石心は奧津余曾と義兄弟の関係にあった。『古事記』では、孝昭天皇と同時代の多藝志比古について記述されている。この多藝志比古は葛木氏の項目で言及した、天忍男と考えられる。また、天忍男の兄が天忍人で、その妃は異母妹である葛木の出石姫(角屋姫)であった。すなわち、天忍男の妃の賀奈良知姫と出石姫と姉妹である可能性が高い。『古事記』では、多藝志比古が御眞津日子の兄弟として描かれ、出石姫は孝昭天皇の皇后である世襲足媛である可能性が高いと考えられる。

もし、葛木の池心宮の出石姫の夫が出石心であり、彼が天皇であったならば、地名「出石」と「心」宮の名を持つ天皇であることが理に適っている。淡海の葛川近辺に読みは異なるが小出石越えや小出石橋がある。

在位83年の皇位は4〜5代にわたって続く。世襲足媛の子は波延の娘に婿入りし、後に倭国豐秋狹と呼ばれた、秋津島に婿入りして王朝交代と2代目以降の天皇は波延の娘婿であったと考えられる。そして、その娘婿が奧津余曾の皇子であった可能性が高い。奧津余曾は『舊事本紀』によれば大連や大臣であったことから、この時期に権力の移動があったと考えられる。すなわち、奧津余曾・葛木彦の皇子と世襲足姫の娘との婚姻による継承で、秋津島に住む波延の分家の娘の押姫に婿入りして王朝交代が起きた。

また、『舊事本紀』では出石心が出雲醜の兄弟と記述されているが、懿徳天皇の義兄弟である師木津日子が出石心に該当する。しかし、出石心が孝昭朝の大臣であることを考えると、2代目の出石心も存在し、孝昭天皇の世代で2代目の出石心として和知都美が孝昭朝の大臣、すなわち天皇になった可能性が高い。

孝昭天皇・和知都美の後継者が蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、前代の安寧天皇(縣主波延・彦湯支)の継承者も波延の娘婿の懿徳天皇が蝿伊呂泥か蝿伊呂杼であった。安寧・懿徳の王朝は40年弱の期間なので、初代の王と皇太子の2代が天皇の可能性が高い。すなわち、天皇の妃が波延の娘、皇太子も波延の娘の子であった。

2024年12月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話7 娘婿による皇位継承

懿徳朝の大臣である出雲醜の後継者は、娘の沙麻奈姫の婿である建飯勝だった。しかし、彼の孫である建甕槌と、劔根、高倉下らによって大臣の地位が奪われた。そして、彼らが奪った大臣の地位を継いだのが、孝昭朝の大臣である出石心である。つまり、出雲醜の時代から、政大夫として唯一無二の最高権力者が食国の政大夫から大国の大臣の地位に就き、唯一無二の大臣の出雲醜が懿徳天皇と後代に呼ばれ、その次の大臣の出石心が孝昭天皇と後代に呼ばれたと考えられる。その為、出雲醜と出石心が兄弟として、世代を被せた。

出石心の母、恐らく義母は川枯姫で、妃は新河小楯姫だ。これに関連する神社として、野洲川沿いにある川枯神社と新川神社が挙げられる。川枯神社は甲賀にあり、現在では川枯姫を祀る八坂神社に合祀されている。また、建甕槌は伊勢主幡の娘である賀貝呂姫の婿になり、伊勢の神麻績連の祖である八坂彦は尾張氏である。興味深いのは、幡(ハタ)と波延(ハエ)、田と江が違うだけの名前の類似や、孝昭天皇の皇后の兄が尾張氏の祖であり、後の時代に八坂入彦が生まれたことが偶然とは思えない点だ。

そして、建甕槌が妃の出身氏族の尾張氏に皇位を譲るのは理にかなっている。新川神社は、甲賀から下流に遷された神社であり、小楯姫を祀っている。川枯神社は水口にあり、出石心の子の名が大水口であることも偶然とは思えない。そして、和知都美がいた御井宮のあった場所が伊勢遺跡の伊勢と考えられる。

さらに、師木津彦は懿徳天皇との姻戚関係を結ぶことができなかったため、曲峽宮を離れ、川枯姫の宮の小楯姫に婿入りしたと考えられる。師木津彦には2人の子がいたが、そのうち1人は不明だ。しかし、跡取りの姫は川枯神社と同じ地域にある新川の小楯姫を襲名した姫であった可能性が高い。波延の故地である葛木の池心宮には和知都美が婿入りし、出石心大臣となったと考えられる。池心宮の名も池の「心宮」とも読め、出石心が心宮王のように記述され、無関係とは考えられない。

2024年12月16日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話6 息石耳の矛盾

『日本書紀』では、安寧天皇の子を息石耳と懿徳天皇と記しているが、「一云」では常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。しかし、懿徳天皇の皇后が息石耳の娘であるため、息石耳が懿徳天皇の兄弟であるとの説明文には矛盾が生じる。むしろ、息石耳が先代の河俣毘賣の夫の沼河耳であり、息石耳の兄弟は懿徳天皇ではなく、義兄波延の安寧天皇である可能性が高い。懿徳天皇の妃は息石耳の娘の天豊津媛に「一云」で波延の娘ではなく、波延の弟の娘と記述され、波延の義弟は沼河耳で沼河耳が息石耳と合致する。

すなわち、安寧天皇の子は、常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦であり、これは『古事記』や『舊事本紀』とも一致する。某兄は姉の夫を意味し、某兄の義弟は磯城津彦または懿徳天皇である。さらに、磯城津彦には義妹の「(倭志紀彦妹)真鳥姫」が存在し、懿徳天皇はその某弟であると考えられる。師木縣主の祖の河俣毘賣の娘が真鳥姫、すなわち、天豊津媛である。

すなわち、懿徳天皇は真鳥姫の夫の出雲醜であり、政大夫の地位を継承し、さらに大臣となった。これは古代の王位継承の方法に従っている。すなわち、出雲醜の母の出雲色多利姫は彦湯支の妃ではなく、娘の真鳥姫の夫の母、義母である。同様に、出石心の母の淡海川枯姫も彦湯支の妃ではなく、子の磯城津彦の義母と考えられる。

すなわち、磯城津彦は、淡海川枯姫の娘と婚姻し、出石心(和知都美)が生まれたと考えられる。和知都美の子である蝿伊呂泥と蝿伊呂杼が波延の姉の夫、妹の夫であり、波延の継承が確認される。

出雲醜は懿徳朝の大臣であり、出石心は孝昭朝の大臣だ。この二人の間には一世代の差があり、出雲醜の義兄である磯城津彦の子が出石心である場合、その世代の差に説明がつく。

2024年12月13日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話5 天皇の意味

  彦湯支は、日子八井が亡くなった後、その地位である政大夫を継承したと考えられる。この政大夫という役職は、皇后の夫や()兄を意味する可能性が高い。安寧天皇は国名がつかない縣主波延と考えられ、彦湯支の妃は日下部馬津の娘である阿野姫だ。この阿野姫の名前は、阿多君の姫にふさわしいもので、後代の日下部連使主の子が吾田彦、阿多氏であることから、この系譜が裏付けられる。

天日方奇日方(別名阿田都久志尼)の娘の渟中底姫は安寧皇后となった。つまり、安寧天皇は日子八井と比賣多多良伊須氣余理比賣の娘である渟中底姫を皇后としたと考えられる。また、彦湯支が同じ世代でその夫であったとするならば、政大夫を継承したのも合理的だ。

神武天皇の時代には、天皇という呼び名はまだ無く、氏族によって政大夫、日子、縣主などと呼ばれた可能性が高い。唯一無二の支配者には国名を付けずとも支障はなく、従属者に国名が無い場合には成り立たない。たとえば、大国を付けて大国主と呼ばれるように、特定の大国という名称で認知出来た。宇摩志麻治は可美眞手とも呼ぶが、「ヂ」は土地神、「手」は補佐、食国第2位を意味し、それを、『舊事本紀』が政大夫と呼んだのは、食国から独立して最高位になったからなのだろう。

阿田都久志尼は阿田の津の櫛国の尼で、奇日方も同様に唯一無二の名ではないが、日子八井は綏靖朝の同世代に日子がいないため、天皇と呼ばれる資格がある。彦湯支も同様で、同じ安寧世代に縣主波延がいれば、どちらも唯一無二なので同一人物の天皇と呼べる可能性が高い。もし、2王朝ならば、政大夫に匹敵する人物が存在する。

比賣多多良伊須氣余理比賣の子の沼河耳は、安寧天皇と思われる波延の妹の河俣毘賣を妃にした。その子の玉手見が安寧天皇の娘と思われる阿久斗比賣を妃としたことで、大神氏、阿多氏、物部氏の3つの家系が婚姻関係を通じて一体化した。

2024年12月11日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話4 政大夫

  宇摩志麻治は活目邑の五十呉桃の娘である帥長姫を妃とした。帥長姫も、事代主の妃である活玉依姫も同じ活目邑の出身と考えられる。五十呉桃は若狭の恐らく生倉に饒速日と共に天降りし、活玉依姫の姉妹に婿入りした可能性が高い。玉姫は美豆別之主が玉造部を率いて隠岐を統治したように、玉造部を統治する王を意味するのだろう。

事代主は玉櫛媛を妃にしたという記述もある。2代目事代主が櫛川に遷り、活玉毘賣の娘の玉櫛媛と婚姻した可能性がある。従って、宇摩志麻治は活玉依姫の娘である蹈韛五十鈴命と従妹の関係になる可能性が高く、世代的には事代主の娘である蹈韛五十鈴命と同世代だ。活玉依姫の子である天日方奇日方は、活玉依姫の義兄である五十呉桃の娘を妃にした可能性があり、そうであれば宇摩志麻治とは義兄弟の関係になる。政大夫位が天日方奇日方に移ったのは、姻戚関係があったと考えるべきだ。新しい権力者は前代の権力者との婚姻によって、継承する方法が最良である。

宇摩志麻治は食国の最高実力者である政大夫の地位を得た。政大夫の地位は皇位と同様に継承される。初代の天日方奇日方が宇摩志麻治の後を継いで政大夫・阿田都久志尼(櫛尼)、になって、玉櫛媛の尼、すなわち婿を彷彿とする。古代の王位継承法は、2代目天日方奇日方が1代目の妃の兄弟の娘に婿入りして、若しくは、その逆で継承する方法だった。政大夫の地位は神武朝76年間で親子の年齢差から考えて4代程度継承されたと考えられる。同時に最高権力者の政大夫が2名存在するのは理解できないが、継承されたのなら理に適う。

5代目天日方奇日方である日子八井が綏靖天皇の尼であり政大夫にもなり、彦湯支が足尼となった。神武天皇は三島溝咋の娘である活玉依媛の()妹の勢夜陀多良比賣、その娘の富登多多良伊須須岐比賣を妃とした。宇摩志麻治から天皇の璽を譲られた天日方奇日方は大臣の歴史を記述した『古事記』の初代大臣と同等の神武天皇に相当し、その子が日子八井であることと一致する。さらに、天日方奇日方の後裔の飯賀田須が大物主で天日方奇日方の義父が大物主なら、名前の継承法として理に適う。五十呉桃が大物主ならば、勢夜陀多良比賣を妃にして、婿が大物主の祖の天日方奇日方と宇摩志麻治ということになる。

2024年12月9日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話3 饒速日

美豆別之主と同祖の子である狭霧の子、速日別出身の神の末裔の忍穂耳は、同じ速日別の神を祖とする高御産巣日の娘、萬幡豐秋津師比賣に婿入りした。彼らの子である饒速日は、天火明櫛玉饒速日と記されているように、迩迩藝や火照と同世代の「櫛王」であると考えられる。

『舊事本紀』では、火明は尾張氏と同祖と記されている。そのため、火照と同世代と考えられる。『日本書紀』でも、火明と火照(火闌降)は兄弟と記述されているので、火照の妃と饒速日の妃が姉妹である可能性が高い。

奈賀命に追放された饒速日は、迩迩藝と火照の2世代にわたり兄弟に描かれている。したがって、初代饒速日は迩迩藝と同世代で、尾張連の祖である道氏の姫を妃に迎え、火照と同世代の2代目の饒速日は「中州豪雄長髄彦」の妹、長髄媛を妃にした。

この「長髄姫」は仲国の長州根、すなわち長門の姫と考えられ、長門は熊襲、豊国の姫、つまり「豊玉姫」である可能性が高い。豊玉姫の兄は大国の王になった太玉と考えられ、彼女の娘か妹が不合命の妃の玉依姫だと推測される。また、道臣の祖と思われる道氏の母は、前の代の豊玉姫である可能性もある。火明を火照や火火出見の兄弟にいれたのは、2代目の豊玉姫と兄弟だったからと考えれば理解できる。史書の世界で玉姫と書けばどの氏族の襲名される姫か特定できたと考えられる。

2代目の饒速日は豊国の長門から敦賀の「櫛王」・武位起となり、その子は『舊事本紀』によれば、神武天皇の狭野尊である宇摩志麻治なのだろう。久州から井ノ川に天降った食国配下の神が武位起なのだろうか。2代目饒速日は師木・野洲の御炊屋姫を妃にすることで政大夫の権力を得たようで、饒速日は、事代主と大国主の力を抑えて自らの権力を固めた。その過程で、火照の子である三国王の阿多小椅君は、事代主の娘である蹈韛五十鈴命を妃とした。また、饒速日の子である宇摩志麻治は、食国王の璽を小椅君に献上して、政大夫の地位を得た。なお、ここで言及されている「君」という称号は、君子国、すなわち三国の王を指す名称で、王と区別されており、小椅君以外、同世代に存在しない。

2024年12月6日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話2 美豆別主の分祀の大伴氏

  美豆別主は、於漏知と友好関係を築いていたが、天菩比の若狭侵略によって出雲で大乱が発生し、大山祇大神の勢力が衰退した。その結果、大国主の孫、阿遅鍬高彦根の子である奈賀命が食国の王位を奪い取った。この情勢に対抗して、天津國玉の子である若狭日子は、大国主と多紀理毘賣の子である阿遅鍬高彦根の妹、下光照比賣に婿入りして、大国主を継承して若狭王となった。

下光()比賣は大国主の娘であり、その子も大国主を襲名したと考えられる。若日子の父の天津國玉は天津神の末裔(御子)、やはり天津神の御子である美豆別主と同祖の同世代である。前王家の沖津久期山祇の海部首は阿曇首に姓を変え、筑紫で生まれた綿津見の子の宇都志日金拆に婿入りして志賀島に移住して、綿津見を祀っている。また、美豆別主の前の世代と思われる八束水臣津野命は国引きに速日別国も含む三身国の協力を得ているので、天津國玉もその近辺の出身だと推測される。

美豆別主の祖神である天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊は、久米部の祖神として隠岐で祀られたと『伊未自由来記』に記されている。また、斯香神を祀る阿曇首と共に筑紫に降臨した可能性が高い。美豆別主は、奈賀命によって滅ぼされたが、久米部の祖神となり、後に伴首と賜姓された。出雲の大乱は丈夫国、周饒国の力が衰え、君子国と大人国の勢力が強まった。

美豆別主は分祀され、久米部を率いて息長足姫に兵船の管理を任された。後に、この美豆別主の分祀の後裔は、磐余稚櫻宮の時代に大伴部首に賜姓された。これにより、大伴氏は高千穂宮への侵攻と、362年に崩じた息長足姫との東征を通じて大伴連となったことが示されている。

つまり、美豆別主の分祀を祀った大伴連の祖の天忍日が伴首を引き連れ、筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣に天孫降臨を行った迩迩藝命であった可能性が高い。

2024年12月4日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部氏の神話1 美豆別主

物部氏の祖神は、天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊である。これは、物部氏の史書である『舊事本紀』の冒頭に記述されており、他の氏族の祖神について記載する理由はないため当然である。『舊事本紀』の豊玉姫の子は葺不合だけではなく「大和國造等祖」の武位起を生み、神武天皇は彦火火出見でも若御毛沼でもない狭野尊である。大倭ではなく、大和國造の祖なのだから、首都奈良県の王、すなわち、武位起は天皇の祖である。

天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊の名前の由来は、神の名が履歴を表すことから、まず海()神の、恐らく、加須屋の大海祇から譲られた日国(速日別国)神であること。そして、対馬の月神である月讀から国を譲り受け、食国(隠岐)を治める王となった狭霧尊であることを示している。このことから、彼の出身地は加須屋の日国(速日別国)であり、後に隠岐の王となった大人様・奈岐命の氏族の祖神である。

さらに、『舊事本紀』には、後裔の饒速日が高天原で生まれたと述べられている。速日別国の狭霧は、「洞此云久岐」とあるように、熊鰐が神功皇后を迎えた場所、「拘奴國」(洞海湾)の地域にある国だと推定される。そこから、天物部を率いる25部族の一部である久米物部が、綾部・工部・玉造部を伴い、隠岐(食国)に侵入し、月讀から国を譲られた美豆別主と呼ばれるようになった。美豆別主は三国(敦賀)の津の王の分国王を意味し、饒速日の国(敦賀と若狭を併せて二岐と呼ぶ)の分国と主張している。

美豆別主は、大人様・奈岐命の娘を妃に迎えた天津神の神子である。彼は(伊邪)那岐から生まれた津の神、天之狹土の子の国之狹霧尊を祖と呼んだ。美豆別主は、このような神々の系譜に属している。

天照大神と須佐之男命が生んだとされる神子たちは、「吹棄氣吹之狭霧所成神」という記述が示す通り、狭霧神から生まれた存在である。その中には、天菩比や饒速日の父であるとされる、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳も含まれている。美豆別主は前王家の奈岐浦命を「小之凝呂島海部首」、そして沖津久期山祇神を「小期凝呂山祇首」に賜姓し、3つの小島を統治させた複数の国を統治した王である。

2024年12月2日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話11 朝鮮の神話との関連

  朝鮮神話との関連も興味深い。『三国遺事』によれば、朝鮮民族の朝鮮半島での始祖・檀君の妻は「熊女」とされている、女王が熊という表現は奇妙だ。『山海經』には、檀君が建国した当時、その地には「鬼国」があり、『後漢書』・『三國志』が記述する、天神を祀る天君、鬼国の末裔の姫が熊女だったと考えられる。『山海經』は言う。神が生まれたのは六合、黄海と日本海が重なる島々や海岸だと。

後に漢字が導入され、「拘奴国」が「熊襲」と呼ばれるようになり、この熊襲人の姫が「熊女」として語られるようになった可能性が高い。熊女は拘魔日女、魔は縄文人の神を中国人が言う漢字である。魔は「アマ」・「ヤマ」・「シマ」などの「マ」と同じで、住んだ場所を神の土地と表現したものである。

中国人が神の子の天子を戴いているのに、朝鮮に神()の王()を認めるはずがない。天神は倭人が祀る神と同じ神を祀ったもので、君は日本語の木神を意味したと考えられる。檀君は「マユミの木の神」を意味する、弓の原料の神である。中国の神は帝だ。

『三國史記』も扶余から、朝鮮半島に遣ってきて、先住民族の土地を奪い、また、婿入りして、篭の姓を賜姓され、朝鮮語の朴を名乗ったと記述されている。衛満も中国からの侵入者で、檀君は箕子朝鮮王を述べたものなのだろうが、箕子朝鮮は木神(鬼神)を祀る天君()が統治する、『山海經』が記述する鬼国の可能性が高い。君子国に王と認められた始祖が、君子国の王の君と同じ称号を持つ檀君なのだろう。

このように、中国、日本、朝鮮の神話にはつながりがあることが見えてくる。 中国に天子が存在しない天民の国と言われた『山海經』の神話時代に王が帯冠した丈夫国・周饒国・君子国が存在した。それらの地域に複数の配下の国を持つ倭国・拘奴国・東鯷国があった。