2024年9月30日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話2 大物主

  『古事記』は、大臣の説話集であり、御真木入日子から時期が特定できる歴史が始まる。御真木入日子の時代より前、若日子(若狭彦)の義兄弟である阿遅鍬高彦根の時代より前に、出雲で大乱が起きた。この大乱は、天菩比の侵入から始まり、その後、若日子の子の大国主が大山祇大神の勢力を衰退させた。胸形の神の牟遲、港に天降った津見から主の政権となった。

その結果、君子国の勢力が強まり、神屋楯比賣の子である事代主は、三島溝咋の娘、玉櫛媛(活玉依姫)を妃に迎え、神倭朝廷を開いた。神は月讀、政務は主だったが、大国主(大物主)と事代主の勢力が並び立つこととなった。

神倭朝廷の最高実力者の政大夫である天日方奇日方と宇摩志麻治は、神倭国を統治し、大国主は大物主と呼ばれた。天日方奇日方の後裔である建甕槌は、大物主の勢力と天菩比の後裔の勢力を伯耆以西に追放し、大国主を亀岡の出雲神社に祀った。

『舊事本紀』によれば、大物主の妃は高御産巣日の娘である三穂津姫である。大田田祢古の父の大物主は建飯賀田須だが、建飯賀田須の父大御氣主の妃は大物主の血筋ではない。男系は事代主の血筋なので、建飯賀田須の母である大倭國民磯姫が大物主の血筋、すなわち、三穂津姫の子の血筋と考えられる。

高浜の神、高御産巣日の娘である三穂津姫は、三国の岬の港の姫であり、三方の姫と考えられる。大倭國民磯姫は、世代的にも名前からも大倭帯日子の娘であり、孝安天皇の次の時代である孝霊天皇、葛木朝廷の姫と考えられ、大御氣主が婿入りして大吉備諸進になったのなら、大物主が吉備で生まれ、『播磨風土記』によると、大和三山の争いがおさまって、揖保郡上岡里から阿菩大神は出雲に行った。「カムオカ」は大国主を祀った出雲神社のある亀岡と無関係なのだろうか。神は地名を持って移動する。

2024年9月27日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話1 御井宮の住人

  『古事記』は、葛木氏の意祁王が記述した大臣の史書である。葛木氏の祖である高木神が最初に記述されるのは、若日子の殺害時のことだ。

『古事記』によれば、神武天皇は若御毛沼であり、曾都毘古の東征で伊奢沙和氣大神と御食津大神の名を交換し、伊耶本和気が皇位に就いた。これにより、葛木氏の王祖である御毛(御食)沼から、王祖の立場を継承したことが示唆された。気比は元々日吉神社の場所だった。

葛木の王である葛木彦に賜姓されたのは、孝昭天皇皇后の兄の奧津余曾の孝昭朝大臣だ。また、『古事記』には波延の孫として御井宮の王である和知都美が登場する。そして、『古事記』の波延は国名の付かない縣主すなわち天皇である。師木は少なくとも崇神朝から垂仁朝まで、師木が首都で、首都の王は天皇である。師木縣主になれるのは、景行朝の纏向や政務朝の穴穂に首都が遷って以降である。また、師木縣主の祖は波延ではなく、妹や弟の娘である。

和知都美の娘は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼、すなわち、和知都美も波延を襲名した天皇である。つまり、葛木彦は天皇が婿入りした御井宮の住人であり、その御井宮の御井神は大穴牟遲と八上比賣の子で、この時大穴牟遲は八千矛神と言われた。

八千矛は沼河比賣を妃として建御名方を生んだ。建御名方は事代主と共に食国を統治していたとされている。食国の大神は月讀であり、食国の大臣を政大夫と呼び、その政大夫には天日方奇日方と宇摩志麻治、彦湯支、出雲醜がいた。そして、出雲醜大臣は食国の官位でなくなったため、祀るべき大神は食国の月讀ではなくなり、大国で祀られていた多賀の伊邪那岐の娘である天照が大神となった。出雲醜は食国配下の政大夫から、新しい王朝の大臣になって、政権交代が起こった。それを継承したのが葛木彦である。

2024年9月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征4 『古事記』と『日本書紀』の暦

  『古事記』には、伊久米伊理毘古や大帯日子や穴穂のように死亡日が不明な神話的な人物と、品陀和気のように歴史的な記録を持つ人物が混在している。帯中日子の崩は息長帯日売の記事に記述されどちらともいえない。このため、おそらく352年十月丁巳朔辛酉(『日本書紀』では前667年)、神武東征が起こり、伊奢沙和氣大神と御食津大神、現代の氣比大神の名前が交換した。御毛沼が追放され、現代の気比で仲国王の太子である豊御毛沼が王位に就いたのだろう。豊御毛沼(品陀和気)が伊奢沙和氣大神であり、その孫である若御毛沼(伊耶本和気)が磐余若櫻宮朝廷を奪ったと考えられる。

『古事記』の日付において、記述場所や品陀和気が32年後の崩から考えて帯中日子ではなく息長帯日売の崩御日と思われる、壬戌年六月十一日である。すると、『日本書紀』どおりなら242年にあたり、神功皇后の崩御は己丑269年、仲哀天皇崩御でさえも200年の庚辰年で、どちらも合致しない。干支は60年周期で繰り返されるため、記録としての有効性を保つには60年以内の間隔でないと意味がない。したがって、推古天皇の崩御が628年戊子の年に起こったのなら、それを遡ることで特定することが可能だ。『古事記』の日付は年月日で記されているが、『日本書紀』の日付は朔の日干支で表されている。つまり、年月日を用いる『古事記』は、日干支を記録しなかった政権下で編纂されたものだ。それに対して、日干支を用いる『舊事本紀』の大連の政権は朔を朔日(1日)の日干支で記録していた。

もちろん、『古事記』の年月日の記述は『隋書』からの影響が考えられるが、それに代わる記録を持っていたと考えられ、墓誌の記録が存在していた可能性がある。日本の羲和は、1年を366日と定めたため、夏至・冬至・春分・秋分からの日数が記録された可能性が高い。『紀氏家牒』には「春秋二百八十余歳」と夏至・冬至で1年を分けて、何回の春秋があったかを記録している。

中国では、頻繁に改朔が行われ、朔が朔日であったり、晦日(最終日)であったりするなど、都合によって月や年が変わることもあった。中国に臣従していた九州の記録も、それに合わせるために変換が必要となった。『日本書紀』を編纂した大伴氏も、中国の朔・晦・元号等の古い記録を保有していたと考えられる。その記録を天日方奇日方の朝廷の暦に合わせたため、歪みが生じた。

2024年9月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征3 神武東征と暦の謎

  神武東征は、記録を持つ歴史的な出来事として語られている。『日本書紀』には、最初の日付が「其年冬十月丁巳朔辛酉」「是年也太歳甲寅」とあり、紀元前667年と記述されている。しかし、丁巳朔の実際の日干支は閏11月朔日の日干支であり、冬至が11月にあるため、10月はありえない。これは、閏11月朔日を11月朔日、さらに10月晦日と考えた結果だと考えられる。つまり、この日付の設定は、朔(新月)を晦日と理解する王朝によって記述された可能性が高い。

暦の記録を知らない者が、この日干支を誤って挿入したとは考えにくく、むしろ、九州の王朝では晦日を朔とする暦を使用していたことが推測される。例えば、「三月丁未朔戊申日有蝕盡之」と推古天皇の時代に九州で発生した日蝕は丁未が朔日なのに戊申(2日)と記録されているのは、この暦の理解に基づいているからで、九州の王家の朔は30日目の晦、朔日は次の日、この時2月は29日まで、従って、3月1日は晦日、朔は2日だった。九州の王家は中国の影響で、日干支ではなく日にちを使っていた。

東征は、歴史的出来事として、352年の10月に起こった出来事が挿入された可能性も考えられる。この年には、近江山君が雌鳥皇女から皇位の璽を奪取し、政権交代があった。この時、曾都毘古が13歳で太子になっていたならば、394年に50歳代で薨去したと考えれば年齢的には理に適う。『古事記』には、御真木入日子が戊寅年12月、若帯日子が乙卯年3月15日に崩じたことが記されている。

しかし、息長帯日売の在位は69年間であり、宮は百年、5代程度続き、さらに、彼女の在位期間中に2度の壬戌年6月11日があるため、日付の特定ができない。『日本書紀』によれば、壬戌年は神功皇后の摂政42年目にあたるがそれ以降も生存しており、『日本書紀』とは異なる息長帯日売の姿が描かれている。同様に、仁徳天皇も在位87年間とされ、その期間に2回の年干支が存在し、また、死亡日が記されていない王も存在する。

干支で死亡日を特定するには、在位期間が60年以内であることが必要だ。『日本書紀』と同じ表記名でも、『古事記』の王は異なる王で、『日本書紀』は『古事記』の王の名を使用していることが解る。

2024年9月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征2 日向の神話

  倭国が呼んだ虚空津の対馬に対して、近江大津の出身の神子が穗穗手見と考えられる。穗穗手見は曾都毘古の妃の祖神の忍日の子と考えられ、豊国女王豊玉毘賣が妃、そして、玉依毘賣と記述されているが、実際は豊玉依毘賣が曾都毘古の妃の祖と考えられる。自分の国名は省略され、玉依は王の依り代にいる後継者であり、彼女の子孫が2代目曾都毘古の帯中日子の母なのだろう。忍日は紀元前480年頃に伊都の高千穂宮を開き、伍佰捌拾歳後の100年頃に高千穂宮は滅びた。

御真木入日子の宮は『古事記』の壹佰陸拾捌歳(168年)の間、318年まで続いた。伊久米伊理毘古は壹佰伍拾參歳(153年)、大帯日子は壹佰參拾漆歳(137年)、並行して続いた宮の系図である。

屋主忍武雄心が318年戊寅年12月に崩じた御真木入日子と考えられ、伊久米伊理毘古や大帯日子に崩御年の記述がないため、三代目曾都毘古と関連する葛比賣などの系図と考えられる。丹波道主の娘である比婆須比賣は、初代襲津彦の家系、神武東征の協力者は吉備王の若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女で、神武東征は吉備の力で勝ち取った。

また、虚空津比賣の姉である息長帶比賣の夫の帯中日子の父である小碓は、曾都毘古の名を旧の豊国王である豊(日向)襲津彦から贈られたと考えられる。熊襲の王は熊襲津彦、日向は熊襲、建国だが、建国王の名ならば、建彦すなわち倭建だろう。日向髪長太田根と日向襲津彦は『古事記』に記述されておらず、大伴氏の家系である可能性が高いと考えられる。

同様に『古事記』に記述されない、襲武媛が大伴氏の祖の豊国別の子で、建沼河別の末裔の阿倍氏木事の娘の高田媛は、大伴氏が神武東征で大和に来た時に妃にした姫なのだろう。木事は反正天皇妃の父である。

同様に『日本書紀』に記述されない小碓の妃の玖玖麻毛理比賣が、日向襲津彦の妹か娘と考えられる。これは『日本書紀』の五十河媛と考えられ、伊覩縣主の祖の五十迹手の祖なのだろう。子の足鏡別が、「あし」すなわち安芸の吾神の帯中日子なのだろうか。玖玖は久久能智と同地域の名前である。

2024年9月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征1 天津日高の系譜

火火出見は『日本書紀』に記される神武天皇の伊耶本和気、もしくは大伴室屋の祖先であり、火を「ヒ」ではなく「ホ」と読む。伊耶本和気は九州出身の母親を先祖に持つ天皇であったのだろう。だから、海幸山幸の兄弟が描かれた。一方、伊耶本和気の男系の祖先の名は若御毛沼で、名前から気比の王の璽の名を持ち、若国と三国の王であった。彼は現在の気比、旧の伊奢と名を交換した大津の伊耶と考えられる日吉大社(気比社)に居を構えたと思われる。

伊耶本和気は押穂耳、番能迩迩藝、穂々手見から受け継ぐ「穂」、すなわち、尖った岬の住人の分家である。別名は豊御毛沼であり、豊秋津から東征したため「豊」の接頭語が付いた。壬戌年(362年)に崩じた丸迩臣袁祁都比賣を引き継ぐ女王は敦賀に住み、穴門や香椎に斎宮を祀り、初代葛城襲津彦の子の仲国王の妃であった。彼女は大臣を継承したと思われ、伊勢遺跡の女国の統治者であり、石上神宮の統治者である大連と対立していた可能性が高い。息長帶比賣は襲津彦の母の葛城国造の荒田彦の娘の葛比売と考えられ、尾綱根大臣の母も大荒田の娘の玉姫である。

『古事記』には、天津日高日子穗穗手見が天津日高()として、虚空津日高(コ)と併記されている。この説話は後代の中国から伝わった資料で文字を記述している。すなわち、対馬は倭国の領土を意味しており、倭国にとって「高」は「コ()」、天は王を意味するのだろう。中国では天を虚空と呼んだため、この名前は125年延光四年の室見川の永宮政権以降のものである可能性がある。従って、天を虚空と呼ぶ息長帶比賣の妹である虚空津比賣の出身地は対馬と考えられる。息長帶比賣は対馬出身の姫と義姉妹になった。

『古事記』では「日高」を「日子」とせず、「高」を高木神のように「タカ」と使用し、但馬の河神を意味する。虚空津日高は対馬の日神の末裔である加須屋の大神祇や大山祇、高御産巣日を意味するのかもしれない。

2024年9月16日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降7 日臣と襲津彦

火火出見を豊玉彦の宮から新しい領地へ送り届けたのは、一尋和迩であり、神武東征でも曲浦の椎根津彦だった。椎根津彦は後に倭(海士)直、元の首都倭(淡海)の直()、すなわち元天皇である。『日本書記』の尾張大海媛を『舊事本紀』は尾張大倭媛と記述して、倭は淡海である。和迩臣の祖の日觸使王の娘は宮主宅媛で、子が菟道稚郎子なので、宇治川の女王、『梁書』の女国王が後裔だ。そして、曲浦の王の大倭王は大物主の建飯賀田須の兄である和迩君の祖の阿田賀田須がこれによく当てはまる。

日臣には、臣を賜姓した人物が存在することから、高千穂王家の滅亡によって、筑紫の大倭王の臣下、つまり日臣となったと考えられる。『後漢書』に記述される57年の金印は、志賀島の倭奴国を中心とする国の記録、107年の安帝永初元年には「倭國王帥升等獻生口」のように、倭奴国から倭国王が中心の国になった。125年の室見川銘板の「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」に従えば、倭国王が奴国に宮を造っており、すでに伊都の高千穂宮は弱体化していたと考えられる。

大倭王が、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、壹国の糟屋を卑弥呼(夏磯姫)に任せた。阿田賀田須の弟の子である大田田祢古の子である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃に迎え、出雲振根は筑紫国と友好関係にあった。これは、阿田賀田須と出雲氏が東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出したからと考えられる。

そして、南の「狗奴國」に対して、周芳の娑麼に住んでいた道臣と、大帯日子とその妃の日向美波迦斯毘賣一族が狗奴国を滅ぼした。安芸は帯中日子が王となり、道臣は諸縣君を、天種子の子である宇佐津は中臣を賜姓された。

日向美波迦斯毘賣は竺紫で生まれた時量師の後裔と考えられ、日向國造の祖である豐國別を生んだ。豐國別は日向髮長大田根に婿入りして日向襲津彦を生み、日向襲津彦の名をもらった葛城襲津彦の子が2代目襲津彦の帯中日子だろう。そして、3代目の襲津彦は酒君を預けられた長江襲津彦なのだろう。妃が諸縣君の娘の日向泉長媛、娘が磐之媛と考えられる。また、日向泉長媛娘の兄弟が諸縣君牛であると考えられる。

2024年9月13日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降6 拘奴国と狗奴国

   忍日は、糸島から志賀島の不彌国まで、『三國志』によれば約5kmで、小舟()で行けたと考えられる。しかし、帰りの航路は異なり、通常数日かかる道のりを高速船によって一日で行ったとされている。もちろん、高速船は存在せず、潮の流れを熟知していた和迩氏が舟を漕いだと考えられる。

彼の目的地は、筑紫から豊玉彦が支配する国で、そこで彼の娘である豊玉姫を妃に迎えた。和迩氏は関門海峡の曲浦に住んでいた人物で、東の「拘奴國」の住人だ。この国は、三身国以前から存在し、アカホヤの時でも胸形以東で生き残った葉木国(速日別国)であり、初代の王は句句廼馳と草野姫だ。

『伊未自由来記』には、大海祇の出身地が加須屋と記述されており、恐らく大海祇は海祇(綿津見)と考えられる。『後漢書』の時代、景行・成務朝の頃には、志賀の高穴穗宮天皇の配下である大倭の王によって支配されていたため、大海祇・大綿津見と記述されたのだろう。

高穴穗宮王は、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、但馬から来た天種子は菟狹津媛を妃に迎え、菟狹王になった。菟狹津彦は天種子に宇佐を譲った後、どうなったのだろうか。また、『日本書紀』の一書以外には記述されていない豊玉彦とは誰なのだろうか。

最も合理的な考えとして、豊玉彦は東の「拘奴國」の王である。火闌降は速日別王の豊玉彦の娘である豊玉姫を妃に迎え、菟狹王、すなわち日臣となった。東の「拘奴國」が南の「狗奴國」になった時、菟狹を天種子に譲り、日臣は豊の安芸や瀬戸内を得て、道臣となり、神武東征で道臣は日向の諸縣君になったと思われる。

曾都毘古の妃の祖は筑紫伊覩縣主の祖の五十迹手と考えられる。五十迹手の娘と思われる五十河媛の子は讃岐國造の始祖や播磨別の始祖となっていて、神武東征の結果だろう。大倭王は、阿多君の末裔である大御氣主と、大倭國民磯姫の子である曲浦を統治した和迩君の祖である阿田賀田須と考えている。民磯姫が阿多氏の後継者なのだろう。大御氣主の名を継承した大御氣持は出雲鞍山祇姫を妃にしているので、大御氣主が出雲臣なのだろう。出雲臣の遠祖の出雲振根は筑紫国に従っていた。

2024年9月11日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降5 火遠理と天津日高日子

  火遠理すなわち天津日高日子は二人の人物を指しており、一人は後裔が帯中日子であり、履中天皇に繋がる人物で、高島の王である高木神に婿入りしたと考えられる。『古事記』ではもう一人の火遠理の妃として豐玉毘賣が記述されているが、彼女は速日別の女王であり、この火遠理は豊国王になったと思われる。

襲名した天津日高日子の不合の嫁は玉依毘賣であり、豐玉依毘賣ではない。また、忌部首の祖である天太玉(大国の王)の子は豊王の豊磐間戸と櫛王の櫛磐間戸で、彼らの子に娘がいれば、()玉姫と()玉依姫の可能性が高い。

そして、櫛玉は天皇の政大夫である天日方奇日方が居る国であるため、「櫛」を付けなくても名が理解される。そのような玉依姫に対して大物主や事代主の妃は活玉依姫と記述され、生倉が首都に含まれて玉依姫も継承されたようだ。天太玉は食国の政大夫が統治する神武・綏靖朝廷の時代における食国でない大国の王の大国主と考えられ、大物主の娘も()玉依姫を継承したのだろう。

また、伊都の高千穂の皇子である火遠理は小船で、筑紫の綿津見の国に向かい、豊国王の豐玉毘賣を妃にした。奇妙なのは、綿津見は伊邪那岐が竺紫の日向で生んだ安曇連の祖である斯香神であり、斯香は志賀島、筑紫なのに豊国である。加須屋大海祇、高御産巣日の出身地の速日別国の胸形や糟屋の国が豊国だった。大帯日子の子には豊国別と豊戸別が存在する。

『日本書紀』の一書には豐玉彦が登場し、豊国王の継承者が豐玉姫であることから、一書の豐玉彦は別の国の王になったと考えられる。同様に、宇沙都比古は宇沙都比賣を天種子の妃とし、宇沙を手放した。綿津見の子には宇都志日金拆が存在し、志賀島の分祀で、宇都志(宇津氏)は宇佐の氏と考えられる。すなわち、志賀島から宇佐へ分祀されたと考えられ、宇佐には金丸と日足が隣接して存在している。火遠理は豐玉彦に、そして、後裔は宇沙都比古に、更に安芸王、日向王になった。

2024年9月9日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降4 吾田君の祖

  『日本書紀』には、火闌降、彦火火出見、火明が登場するが、『古事記』では火明が記述されず、火須勢理(褒能須素里)という不明な人物が登場し、火闌降の代わりに火照(ほでり)が記されている。これは、『古事記』が火闌降と火照を同一視し、火須勢理と火明も同じ系統と見なしていることを示唆している。

火照は『古事記』に「隼人阿多君之祖」、火明は『日本書紀』に「尾張連等始祖」と記述されている。『古事記』の火明は『舊事本紀』と同一であり、宇摩志麻治の父であるため、神武天皇の前の世代、事代主と同じ世代ということになる。つまり、『古事記』で襲名した2代目火明が火照の兄弟となり、火明が饒速日の兄弟にもなったことを意味している。『古事記』で尾張連の祖とされる奧津余曾は、葛󠄀木彦と賜姓され、劔根の孫である葛󠄀木氏なので、火火出見とは兄弟氏族の関係である。物部氏と尾張氏も火明以降に尾張氏と物部氏の同祖が出現する関係になると考えられる。

『日本書紀』では、火闌降は『古事記』の火照に該当し、火明が事代主と同世代ならば、火照も火火出見も事代主と同世代と考えられる。そのため、吾田君小橋は火火出見と火明の甥であり、隼人が分家だということになる。火明の孫である天村雲の妃は阿俾良依姫であり、阿多小椅君の妹である阿比良比賣の名前から、天村雲の妃は阿多小椅君の娘か阿比良比賣の娘の可能性が高い。

火明の曾孫である忍日女は、大伴氏の祖である忍日と同一地域(日向湖近辺)の人物と思われ、忍日女の婿となった可能性が高い。しかも、尾張氏の祖の香語山は道日女の子、道氏を受け継いだと考えられ、大伴氏は道臣を与えられる。忍日は九州に渡り、その後裔が日臣として神武東征に加わることになる。つまり、阿多君の娘婿の天村雲の娘の忍日女の婿であった忍日が隼人の祖であると考えられる。

2024年9月6日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降3 海幸・山幸

阿多君の神武朝廷の政大夫である天日方奇日方は、別名を阿田都の久志尼といい、阿は吾国すなわち三国と丹波出雲と但馬を統治する敦賀の櫛川の津に首都を置く食国の神武朝廷の政大夫と考えられる。番能迩迩藝は、大山津見の娘である、子が阿多君の祖の神阿多都比賣を妃にしており、番能迩迩藝の孫が神武天皇になると考えられる。

『古事記』では、高御産巣日ではなく、高木神の娘として萬幡豐秋津師比賣は記述されている。高御産巣日は胸形から分祀されて高浜に来た神であり、高木神は高島の土地神だ。朝廷と同様に、祀られるのは母や祖母の土地神であり、父の出身地の土地神も祀られるが、父の祀る神は時代とともに変化していく。

大伴氏も葛木氏も、高御産巣日の末裔と言われているが、世代が異なる。高御産巣日は胸形出身の神であり、大伴氏は胸形の姫の子孫を意味し、葛木氏は高木神の子孫だ。史書は作成された時代の視点で記述されるため、大伴氏が安芸で高木神の末裔の葛木氏の帯中日子と義兄弟となったと考えられる。

神八井耳は火君、大分君、阿蘇君、そして筑紫の三家連の祖でもあり、九州で倭国の王家の阿知使主と姻戚関係を結んだことが分かる。火國造(火君)の祖は市鹿文、すなわち壹与であり、阿知使主の先祖だ。木花之佐久夜毘賣は大津の佐久奈度神社付近の姫であった可能性がある。大津から九州の王になった。

大山津見の孫、神阿多都比賣の子である海佐知毘古は火照、山佐知毘古は火遠理で、火須勢理には別名がなく、火遠理にはさらに天津日高日子穂々手見という別名が記されている。『古事記』では、火遠理は『日本書紀』で記述されない高日子すなわち高浜か高島の王と述べ、『日本書紀』に存在しない火照に吾田君小橋の本祖と九州の隼人の祖として、隼人になった、すなわち、九州に行ったと述べている。

2024年9月4日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降3 大伴氏の天降

仲国に天降る前にいた猿田毘古が、高天原と仲国の状況を知っていると言う。それに応対するのは、軍を率いる宇受賣で、彼女は宇治の津、大津の神のようだが、草那藝劒を持っていて、その治められる場所は伊勢なので、隠岐→九州とは一致しない。

王の璽は遠岐斯八尺勾璁、鏡、草那藝劒で、草那藝劒は須賀から、最終的には伊勢神宮の倭比賣が持っていた。すなわち、最終目的地は伊勢遺跡の伊勢神宮で、高浜から伊勢神宮への天降りに関する説話であり、和知都美の天降り説話であると考えられる。

これは、尾張氏が伊勢遺跡の伊勢で王朝を開いたという説話を流用したものであると考えられる。笠沙の御前は、伊勢遺跡の隣町である草津に笠山があり、福岡県の御笠はかなり内陸の岬ではなく、伊勢神宮に太い宮柱を建てた説話と考えられる。

それに対して、番を火と記述した火瓊瓊杵は、天の石位、石按比古比売神社や闇見神社がある若狭から、伊都(イツ)能知和岐と壱岐の津へ地を分け入って進み、さらに、海の「ウ」の宇岐士摩(小倉の宇佐の島:?彦島)や蘇理多多斯(?芥屋の大門)を経由して、終着点が日向峠の高千穗宮、高祖神社であったと考えられる。

久士布流多氣は「九州に降った」意味と考えられ、多氣の「氣」は「お化け」の「け」であり、山の「マ」と同じく神を指し、嶽は山を意味するのだろう。芥屋は神の住む家の門、港であり、征服者が文字を変えて「アクタ」とゴミ扱いしたと考えられるが、自分の土地をわざわざゴミ扱いすることはないだろう。

天降りに同行したのは、大伴連の祖である天忍日と、久米直の祖である天津久米で、五伴の天兒屋はおらず、「爲政」を命じられた思金も存在しない。神武東征の「日臣命帥大來目督將」とあるように大來目が同行しており、これは共通している。

天津神(?大津)の神子の美豆別之主は隠岐に侵攻した際に、久米部・綾部・工部・玉造部が同行した。そして、その同族を引き連れて、隠岐の焼火の姫である栲幡千千姫の子が糸島へ天降ったと考えられる。

2024年9月2日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降2 番能迩迩藝

  火闌降は隼人の大伴氏の祖先で、曾都毘古の東征の後ろ盾であり、火明は尾張氏の祖だ。意乎巳連(仁徳朝の大臣)から大臣位を『古事記』の神武の去來穗別(豐御毛沼)と『日本書紀』の神武の諸縣君(火火出見)が奪った。『古事記』の説話では、番能迩迩藝と天火明は兄弟だが、火を「番()」と読んでいない。火明の火は番や穂と書いていないので、「ヒ」と読むべきなのだろう。

天降説話のモデルは、天兒屋が三国から但馬へ、天種子が但馬から宇佐、そして安芸へ天降った説話である。萬幡豐秋津師比賣の子で、萬と呼ばれた土地から来た、安芸で祀られた姫の子と共に、である。

これに対して、『舊事本紀』では共に、天忍日は「葦原中國」で「立天孫御前爲先駈者也」とあるように、吾達の土地の仲国を、大來目を率いて先頭に立って支配したのが大伴氏の祖である天忍日と記述する。天忍日は美豆別之主が久米部を率いているので、美豆別之主の将軍の後裔だった可能性が高い。

そして、於国の氏族で、高御産巣日の娘である焼火の姫、栲幡千千姫の子が火瓊瓊杵である。火瓊瓊杵は伊都の高千穂に向かって、高千穂王朝を開いた。

天照大神の神子は正勝吾勝勝速日天忍穗耳であり、三国の官位を持つ於国に賜姓された、三国配下の加須屋大海祇の後裔の王と考えられる。

天津日高日子番能迩迩藝命、命は天皇尊の配下の官位で、大津出身の「高日子」と高浜王、高御産巣日神の婿で、二岐の命なので、速日国から天降って敦賀と若狭の王と名乗った饒速日と同地域の王である。「高」は高木神・高比賣の「高」で、「コ」と読ませていない、『古事記』の「常識」と考えられる。