2024年1月31日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の倭の王朝交代1

倭奴王は皇祖天智天皇の先祖であり、葛城氏が即位できた立役者であり、『日本書紀』の安康朝までを記述した王朝と同祖である。593年、推古元年には「立厩戸豊聡耳皇子為皇太子」という記述があり、聖徳帝が皇太子になった。天皇が即位すると、太子を指名するのは当然のことだ。しかし、用明・崇峻・敏達天皇は皇太子を指名していない。欽明天皇は554年と568年に敏達天皇を2回皇太子に指名している。また、用明天皇には指名していない太子彦人が存在する。彦人は敏達皇后の長男であるため、13歳以上であれば自動的に皇太子となる資格がある。そのため、通常は全ての天皇に、「為皇太子」の記述は不要であり、長男か弟が自動的に皇太子になる。しかし、『日本書紀』は無い「為皇太子」を記述し、それは、天皇ではない、俀王・東漢直の立太子の日付を流用した。

591年、法興元年に俀国の法興帝の多利思北孤が即位したが、翌592年には皇太子の東漢直駒が馬子に殺害された。その時点で東漢直駒の子は13歳未満だったので、翌593年に弟の利歌彌多弗利が皇太子となった。政権は皇太子が実権を持ち、聖徳帝の利歌彌多弗利の長男がその後の帝位を継承していく。聖徳帝の子である漢王の妹の大俣王、茅渟王、天萬豊日、および、その妹天豐財重日の子である天命開別が太子として続いた。

それ以前は、568年には欽明廿九年に筑紫火君が皇太子になり、その子が法興帝、そして孫が東漢直駒だ。554年には欽明十五年に筑紫火君の兄である筑紫君の子である火中君が太子になった。

494年、仁賢七年に筑紫君磐井が皇太子になったが、少なくとも、倭王武は502年まで生存していたことが確認される。王位はその後、磐井、筑紫君葛子、そして、火中君に継承された。億計王が立太子したのは482年で、白髮三年の立太子は倭王武が478年雄略廿二年から502年まで在位中であり、太子が早逝したと考えられる。白髮三年から13年後に磐井が太子となり、早逝の理由が透けて見える形となった。

倭王武が若くして王位に就き、弟が太子であったが、子の磐井が生まれると、おそらくは弟を殺害したのだろう。太子に後継者が生まれると、王への権力を取り戻すことは難しいため、それが殺害の動機だった可能性がある。磐井が太子の適齢年齢である13歳に達するまで待ってから立太子し、天監元年の「征東大将軍」の綬号は磐井が21歳である。王位は、20歳以上なので、皇位継承を認めてもらうための梁朝訪問の年齢に合致する。

2024年1月29日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『日本書紀』の「狗奴國」

  日臣と思われる豊御毛沼の東征で「臣是国神名曰珍彦釣魚於曲浦」と記述する。この珍彦は和珥臣の祖であり、日臣と合流する。仲哀朝の大伴武以連から允恭朝まで続く中臣烏賦津使主、そして雄略朝の和珥臣深目の初登場である。これらの人物はすべて、『後漢書』の対象時代以降に登場する。豊御毛沼や多臣の祖、国前臣の祖、物部君の祖は南ではなく、東の「拘奴国」に向かったようだ。神八井耳の後裔の多臣は多(岐津)の臣、火君、大分君、阿蘇君になり、国前臣は宇佐の国東の王になった可能性がある。物部君の祖は久奴直の祖の大小木であり、武諸遇の兄弟だ。

大倭王は南の「狗奴國」を攻撃するため、一国の魁帥である「神夏磯媛」と面会した。この神夏磯媛は、「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊」と詠まれ、鬼道の魁帥とされている。那津の伊襲媛もまた、大倭王に従ったと記述されている。この「一国」は邪馬壹國であり、後漢時代には邪馬臺国と呼ばれていた地域で、おそらく山田の猪の国の皇大神宮があった所である。伊襲の高千穂宮には一大率が存在し、「常治伊都国於国中有」と、伊都国で統治していたと記述されている。同様な統治形態は韓にも見られ、「共立其种辰王都目支国盡王三之地」と記述されている。目支国は月支国を指すものと考えられる。年代的には、82年の景行十二年八月乙未朔己酉、九月甲子朔戊辰が、206年と同じ日干支であった。また、「幸筑紫」、「到周芳娑么」、「議討熊襲」は、周芳の南、宇佐方面の討伐に関する説話だろう。

大倭王は物部君の祖である夏花と考えられる人物、印岐美の可能性がある。印岐美は志紀縣主や久努直の祖であり、つまり、彼自身かその子孫が拘奴国王や志紀縣主になった。師木玉垣宮は128年まで首都だった可能性が高い。師木玉垣宮の天皇の子であり、志賀髙穴穗宮天皇の弟である印岐美が志紀縣主であれば、理にかなっている。印岐美は猪君、山田猪(邪馬臺)国の王である可能性が高く、一方で、一国の魁帥である神夏磯媛が「我之屬類必不有違者今將歸徳矣」と述べ、帰順している。206年には卑弥呼が即位していた。卑弥呼は神那津の伊襲国媛であり、那珂川河口の熊襲の女王で、これは『三国志』にも合致する。また、伊都國も伊襲と記述されているので、奴國の那珂川河口も奴()襲と考えられる。そして、景行十二年十二月癸巳朔丁酉は263年の日干支と考えられる。神夏磯媛と市鹿文を同時に倭国の女王にするのは奇妙だ。すなわち、厚鹿文が卑弥呼の宗家であり、迮鹿文が卑弥呼の男弟王の子である可能性がある。そして、宗家厚鹿文の娘である宗女の市鹿文(宗女壹與)を「賜於火國造」と日国造と追認した。

2024年1月26日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」3

  27年、新羅王子の天日槍が質として来日し、新羅王が辰韓王となった。この頃、多婆那國の皇子が金官國に赴任したとされ、その子である解が実質的な新羅王の瓠公を継いだ。そして、西暦8年に南解次次雄の長女と結婚した。その土地の王の娘に婿入りして、王位を継ぐ、日本と同じ王位継承である。多婆那國は「其國在倭國東北一千里」とあり、『後漢書』の「拘奴國」の位置に一致する。

『桓檀古記』によれば、「狗邪韓國多婆羅一稱多羅韓國自忽本」と記述されている。この文から多婆那國は多羅とも呼ばれ、金官國は狗邪韓國とも呼ばれていたことが分かる。また、「多羅國與安羅國同隣而同姓舊有熊襲城今九州熊本城」とあり、多羅国と安羅國は隣接し、同じ姓を使っていたことが述べられている。さらに、「倭其南東屬於安羅安羅本忽本人」とも記述され、安羅は東の拘奴國であり、さらに、南()の狗奴國の熊襲になったとされている。これにより、同族の拘奴國は倭と敵対しており、一方で隣国の但馬は倭と同盟関係にあった可能性が考えられる。また、狗邪韓國の王として解の父が赴任したと推測される。

多婆那國の描写は、西暦57年に即位した解の出来事を説明しており、多婆は多()の端、萩に田道間守が高麗橘を持ち込んだ頃の出来事と考えられる。田道間守が仕えた王は出雲振根の可能性が高く、出国時は但馬に仕える王がいて、帰国時は萩に命じた王の墓があったと考えられる。

また、遼東半島の南は倭と『山海經』に記述されて、常世と思われる済州島がある。そして、大人國は倭の領域に市場を開いていたことが言及されている。天日槍の説話は、辰王賜姓のための活動と考えられる。阿羅斯等は安羅国人であり、拘奴國と多婆那國による狗邪韓國の勢力争いの説話と見られる。

出雲氏は若狭の小浜を追われて、但馬の小浜に宮を建てた。地名は人と共に動くものであり、現代においても京丹後に小浜があることは興味深い。そして、後に出雲氏は現代の島根の出雲に追われたと考えられる。ただし、島根県の小浜は出雲には存在せず、石見にある。石見の隣には大田市があり、「大田々祢古」すなわち「大国王(大直祢古)」が遷った土地である可能性がある。

出雲振根は筑紫と同盟関係にあったが、「多藝志之小濱」を追放された。日槍の寶物が但馬にあったのも、但馬に宮柱を建てた王が所有していたためだろう。そして、振根が敗れて、但馬の大直祢古の娘と天児屋の分家の天種子が、南の狗奴國の宇佐に進出したと考えられる。

2024年1月24日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」2

   『三國志』によれば、女王国の東には「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記述されている。また、長州には魏朝に朝貢してこない倭種の国が存在する。南の「狗奴國」の一部は逆に魏朝に朝貢していた可能性もある。戦った熊襲と歓迎した熊襲の存在が、それを物語る。このように、倭人は倭国人、倭奴、倭種などの異なるグループが存在していたようだ。曲浦の和珥臣や宇佐の中臣、長州の日臣の祖達もその中の一グループで、『後漢書』に登場する大倭国の王の配下として『後漢書』は認知していた。大倭王の武諸遇の弟である久奴直の祖の物部大小木が『後漢書』の邪馬台国の王である可能性が考えられる。また、東の「拘奴國」を攻撃したのは高千穂の王である豐御毛沼であり、彼は後に日臣となる可能性が高い。

もう一人の人物は「筑紫國菟狭」に関連して、「勅以菟狭津媛賜妻之於侍臣天種子」という文言があり、天種子は「中臣氏」の「遠祖」とされる。前38年、武諸遇が出雲振根から神寶を得て出雲を支配下においた。『古事記』によれば、「宮柱布刀斯理」を行った地が三か所あり、「出雲國之多藝志之小濱」、「宇都志國」(おそらく宇(治)の(大)津の志国(岐))、「水穗國」(おそらく三国)だとされる。

出雲の多藝(岐:但馬)に宮柱を建てた王(神子)は多()根子で、その末裔が大田田祢子であり、分家が天種子と思われる。この一族は加須屋の大神祇を祀る一族の援助を受けていたと考えられる。実際、出雲振根は筑紫と共謀して、武諸遇の要求を拒否した。そして、大田田祢子が畿内に、天種子が東の「拘奴國」に逃げた可能性もある。

2024年1月22日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の「拘奴國」から「狗奴國」1

  『三國志』倭人伝においては、韓地が歩行か水行かといった論争がある。また、『後漢書』にも韓地や倭国についての詳細な記述がある。しかし、『後漢書』には具体的な国名が記載されていない。一方で、『三國志』では馬韓が「凡五十餘國」、さらに「弁・辰韓合二十四國」のように詳細に述べられている。

倭王武は「海北九十五國」と述べており、これは『後漢書』の74国と比較すると21国の差がある。倭人伝も「衆夷六十六國」を30国と述べ、これも少ない。しかし、『後漢書』も韓地を「馬韓在西有五十四國」などと記述しているが、具体的な国名を挙げていない。そのため、これは魏の使者が実際に見た国々の可能性が高いと考えられる。『宋書』も実際に見ていないので、詳細な国名を記述していないし、国数が多い。

『三國志』は女王国の東に「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」と記述する。長門には魏に朝貢してこない、魏朝が認めない倭種の国がある。すなわち、倭人は、倭国人、倭奴、倭種が存在した。それらの中の、曲浦の和珥臣や宇佐の中臣、長門の日臣の祖達が倭人のひとつの倭種と考えられる。すなわち、後漢時代において、東の倭種が拘奴國に侵攻して、魏時代には南の狗奴國、曲浦、宇佐、長門が倭種の国に組み込まれたと考えられる

倭種は『後漢書』の漢が認知していたが、朝貢しない大倭国の王の配下だ。大倭王の武諸遇の弟、久奴直の祖の物部大小木が王だろうか。東の「拘奴國」を攻撃したのは高千穂の王の豐御毛沼、日臣になる人物だろう。葛木氏は伊奢沙和氣大神と御食津大神(『古事記』記述時は氣比大神)が名を交換した。すなわち、御食津大神から伊奢沙和氣大神のように、若御毛沼が伊耶本和気に名をかえた。

2024年1月19日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と新羅2

徐那伐国が新羅になる前、馬韓の徐那伐国の王は倭人の瓠公の家系だった。このため、馬韓は倭によって支配され、辰・卞二韓は辰王として新羅によって統治されたと思われる。『遼史』によれば、渤海が蓋州に改名し、辰州と呼ばれるようになったとされているが、これは逆だろう。渤海は7世紀の国であり、辰州から別れた辰韓は紀元前に存在していて、史実が逆転している。『山海經』には「蓋國在鉅燕南倭北」とあり、蓋州の南は倭だった。半島の西は倭、東が辰国である。元々、渤海は「鬼國」と呼ばれ、「蓋州」は「辰州」と言われたと考えられる。その辰州を燕が奪って蓋州となったが、蓋州の東は辰州のままだったようだ。半島東部、粛慎の南には「白民之國」のみで空白地になり、漢代には四郡が置かれ、馬韓と辰韓は半島南部に押し出された。『漢書』には「樂浪海中有倭人分為百餘國」とあり、紀元前108年以降、馬韓を含む黄海沿岸に100余国の倭人の国が存在していたことが示される。

新羅が中国史書に初めて記述されたのは『宋書』で、倭の領有地域として言及された。国家として詳細に扱われるのは『梁書』からだ。『梁書』では新羅の言語が「其言語名物有似中國人」、すなわち中国人に似ているとされている。しかし、「語言待百濟而後通焉」、つまり百濟人の通訳が必要とあるため、矛盾が生じている。これにより、その時期に、新羅が中国の秦の言葉ではなく、鬼神を祀る辰人の言葉で統治していた可能性が考えられる。

『梁書』によれば、「辰韓始有六國稍分爲十二新羅則其一也」と述べている。初めの6国は『三国史記』の「朝鮮遺民分居山谷之間爲六村」を指しており、これは馬韓の東に位置する6つの村を指している。しかし、この記事には梁の時代に辰韓が新羅になったための矛盾があると思われる。6つの村が辰韓12国の中の1つの新羅の旧国名の斯盧國の記事がある。馬韓王は「共立其種為辰王都月支國」とあり、月支国を都として三韓を統治した。

19年、赫居世統治の39年目に馬韓王が死に、その際、解尼師今が「金官國」に現れた。これは偶然ではないだろう。赫居世の死に対して、「其國不足平也」と述べており、その国が混乱していることを指摘している。「解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里」で、千里は約50㎞、「度海千餘里至拘奴國」の倭国に敵対する国だ。「初其國王娶女國王女爲妻」とあるように、多婆那國の婿であり、拘奴國の王族でもあるため、倭国と対立していた。この王族の解が、同盟関係にある馬韓王が統治する「金官國」に来た。そのため、戦乱が勃発し、馬韓王と初代解が亡くなったと考えられる。2代目の解は「辰韓阿珍浦口」に逃れ、「乃生大卵」とあり、生後間もないことが窺える。そして、彼は南解次次雄の長女と結婚した。卵生は、解の親が誰かを書くと不都合があったことを意味する。

2024年1月17日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と新羅1

  韓地の西北部は燕に、東南部は辰國に属していたようである。それは、韓東部が辰韓、南部が弁辰と呼んだことでわかる。しかし、漢朝の時に、『漢書』「倭人分為百餘國」、『三國志』「通三十國」と記述される。すなわち、前漢の時には倭が韓地の70国を領土としていた。馬韓は『後漢書』に「馬韓在西有五十四國」と54国で20国程度足りない。それで、「辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國」と合計「凡七十八國」で、倭と併せて「百餘國」と矛盾がない。

この地域は鬼神を祀り、赫居世居西干に「朴爲姓」と、朴と呼ばせたのは辰人で、「居西干」とは辰國で「王」の意味だった。辰韓は『三國志』によれば、馬韓割其東界地與之」と馬韓が土地を割譲して建国したとされる。確かに20国足りなくなった。日本では、国王はその土地の姫に婿入りして初代の王になることが一般的だ。馬韓の土地の割譲も、同様の経緯があった可能性がある。

赫居世の母は妃の閼英夫人の母、娑蘇夫人とされている。赫居世が婿入りしたから、義母が母と見なされることは常識だ。赫居世は捨てられた卵から生まれ、親は書けなかった。生まれた場所が解っているのだから、親も解らないはずがない。彼は馬韓の高墟村楊山麓で生まれ、徐那伐国の姫である閼英夫人に婿入りした。閼英夫人の姓「瓠氏」は、扶余語で朴を意味する。すなわち、閼英夫人の(義)弟は、倭人の瓠公と考えられる。馬韓には「本倭人初以瓠繫腰渡海而來」と記され、倭人が渡海して瓠氏を名乗り、徐那伐の王になったと考えられる。

赫居世、もしくは瓠公の子の天日槍は紀元前27年、垂仁三年に畿内政権の人質となる。そして、「辰人謂瓠爲朴」と、辰王から朴を賜姓され、赫居世は辰韓王になったと考えられる。前20年、赫居世の38年目に瓠公が馬韓王に対し、「辰、卞二韓爲我屬國」と主張した。それまで、両国を領有したのは馬韓王だったので、馬韓は瓠公を殺そうとしたが、諌められた。そして前19年、赫居世の39年目に馬韓王が薨じた。馬韓の滅亡は南解次次雄の6年目、西暦9年だった。それは、解の5年目の「馬韓將孟召以覆巖城降」の記事が、南解次次雄の5年目だからである。なぜなら、西暦65年の解の9年目に、瓠公が「遣瓠公視之」と記述されて、矛盾が生じている。瓠公は赫居世の38年目、紀元前20年から出現している。西暦12年ならば、50歳代と考えられて、矛盾が生じていないと考えられる。

2024年1月15日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と百濟

  韓地の「三韓」は『三國志』に「皆古之辰國也」と、辰國の土地だった。そして、「魏略曰:初右渠未破時・・・東之辰國」と辰國は衛氏朝鮮の東にあったと言う。すなわち、朝鮮半島は辰國の領地だった。そこでは、鬼神を祀っていた。馬韓は百濟建国前に存在し、燕が滅亡すると馬韓王が統治したようだ。馬韓は西暦6年、溫祚王二十四年に「馬韓王」が「吾割東北一百里之地」と、百濟王に領地を割譲した。そして、「遂有幷吞辰馬之心」と辰韓と馬韓を獲ろうとして、9年、溫祚王二十七年「馬韓遂滅」と、馬韓を滅ぼしたと記述する。

西暦9年、二十七年「馬韓遂滅」と馬韓を滅ぼしたと百濟は主張する。しかし、景初二年,明帝が「二郡遂滅韓」と馬韓を滅ぼしたとあり、滅んでなかった。この9年に割譲されたのだろう。57年、建武中元二年に倭王は「百餘國」の統率者として、「光武賜以印綬」と、印を賜った。それは、馬韓も含まれていたと思われる。「百餘國」は、倭王武の衆夷六十六國」より多く、韓地が含まれる。それから、238年まで馬韓は倭國領と主張したけれど、魏が奪った。『三國志』は「弁、辰韓合二十四國」の中に斯盧國がある。そして、「馬韓・・・伯濟國・・・凡五十餘國」と百濟も馬韓の中に記述する。新羅も百濟も三韓の74国の中の2国と後漢も魏も晋も理解した。そして、前漢までは韓すら認識していなかった。

それで、238年12月に倭國が「親魏倭王」と魏の臣下となって、倭が百濟を領有したと魏が認めたようだ。晋の力が弱まると、百濟は畿内政権に接近したようだ。神功皇后の「肖古及王子貴須」の記述は360年頃の『古事記』の「息長帯日売」の記事である。372年、近肖古王二十七年に、畿内政権と天秤にかけて、「遣使入晉朝貢」と中国に朝貢した。これは、阿知使主が「並率己之黨類十七縣而來歸焉」と畿内政権に臣従したからと思われる。阿知使主は去來穗別の家庭教師で、300年代後半の人物だ。

397年、阿莘王六年に「王與倭國結好以太子腆支爲質」と太子を質にすることで、倭と講和した。そして、412年、腆支王十二年に東晉が「為使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と百濟を承認した。そのため、宋朝も倭が百濟を自領と主張しても、認めなかったようだ。倭や百濟は畿内政権と中国との狭間の外交で、百濟は馬韓の地を得た。倭は筑紫・肥・豊の安芸まで影響力を持ったようだ。そのため、『梁書』の「文身國」・「大漢國」は石井が敗北して、蘇我氏に奪われた。「倭国」は領土を縮小して俀国に、「大漢國」は稲目の広国、「文身國」と粕屋は馬子の倭国である。

2024年1月12日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が知る朝鮮半島史

 朝鮮半島の歴史を見てみよう。『山海經』には鬼國の南と考えられる蓋國がある。その南、国と呼ばれない(箕子)朝鮮。その南、韓の現在のソウル辺りと思われる、「在海河州中」に「姑射國」がある。『遼史』に「辰州・・・渤海改爲蓋州又改辰州」と蓋國は辰國の一部だったようだ。それを、燕が奪い、「倭屬燕」と倭が燕に属した。倭以外中国に国として認められていないので、倭が属すれば、燕より南は燕に属する。そして、朝鮮半島は燕に属する鬼道を行う人々が住んだ。『三國志』に、「弁辰與辰韓・・・祠祭鬼神有異」、「馬韓・・・祭鬼神・・・信鬼神」、「高句麗・・・祭鬼神」とある。『山海經』の「神靈所生」と「六合」の生まれの鬼神の国の「海内北經」遼東半島上部の鬼國の影響だろう。中国の神は「天」とその子の天子の「帝」、山東半島生まれのようだ。

『伊未自由来記』に木葉比等が新羅から来たと記述する。実際は比等、すなわち、日人、速日国の人物だが、新羅との縁があったのだろか。木葉比等が隠岐三小島に着いた時、島後は「オロチ」が支配していた。「火炎土器」を生み出す、八岐の人々である。また、出雲も「オロチ」が支配し、国引き神話の「志羅紀之三埼」、「北門佐伎之國」は鬼神を祀る地だ。

 朝鮮(高句麗)は「句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義」と記述される。燕に奪われた朝鮮は追い出された箕子によって礼儀正しかった。「人面蛇身」の神の教え、「オロチ」である。木葉比等が箕爺・箕婆と後に呼ばれ、日本人は共に「き」と読み、箕子は「きし」、「鬼子」と似ている。辰州は燕に滅ぼされて蓋州、そして、前101年、元封三年に「其地為樂浪臨屯玄菟真番郡」となった。高句麗は『後漢書』に「在遼東之東千里・・・地方二千里」と長系100㎞の国だ。沸流國で前32年に建国した。朝鮮半島北部は150㎞の幅、咸鏡南道辺りが高句麗だろうか。『後漢書』や『三國志』時代の東夷の国の1国の勢力範囲が方二千里なのだろうか。

2024年1月10日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』の鬼

  『山海經』の「海内北經」、渤海周辺に「鬼國」が記載され、「在貳負之尸北」と南に「貳負之尸」がある。その東、すなわち、東南に「神在其東」と神霊が居るから、「鬼國」と鬼が記述される。その神は「人面蛇身」、顔が蛇の神が「北山經」の二十五山、「海外西經」の「軒轅之國」に存在する。そして「大荒北經」「章尾山」に「西北海外」と、オホーツク海に近い日本海の中国大陸側にも存在する。顔に蛇の墨を入れたと思われる、同じ鬼道を祀る人々である。竜神の黄帝の孫が「北狄之國」を建国し、黄帝は「大荒北經」の場で戦った。皇帝の孫の鯀が、「殛鯀於羽山以變東夷」と東夷から追放され、東夷は混乱した。鯀は「是始布土均定九州」と九州の王だった。東夷の九州である。黄帝は「海内經」の住人、六合を行き交った聖人で、九州と無関係とは思えない。

「海外北經」すなわち、日本の北陸や東北地方の何処かに「跂踵國」があった。「其為人兩足皆支」と、蟹股なのだろうか。蟹股の土偶がある。このように、国名には意味がある文字が使われ、倭人の鬼國も同じ。しかも、倭の神の天神に対する鬼神、倭人の先住民の可能性が高い。卑彌呼は「事鬼道能惑衆」と鬼・木の神霊を祀る。卑弥呼は倭人でありながら、鬼道の神子でもあったから、「共立為王」と、王に共立されたのだろう。卑弥呼は天の大君で鬼道の神子なので、鬼道を祀る三韓、天君を祀る馬韓の支配者を主張したのだろう。

『伊未自由来記』に木葉比等が記述される。「きは」国の人、日本語は「きのは」が「このは」と変化したのだから、「こ」国の葉の人と考えられる。「狗古智卑狗」の古は木のことかも知れない。木葉人は木国、鬼神を分祀した人々なのだろう。隠岐に遣ってきた住人が木葉比等、海流に乗ってやってきて、黄海や南シナ海、六合沿岸の人物だ。200㎞西から、朝鮮半島は300㎞だから、山口県から遣って来た。倭人がアカホヤで「木」国に流入して、木葉人が追い出されたと考えれば、良く当て嵌まる。木葉人が渤海や隠岐の三小島に流出し、残った木葉人は「鬼國」と「鬼奴國」の住人になったのであろう。熊本県に木葉山、福岡県の基山町などがその候補だろうか。そして、渤海にも定着して「鬼國」、さらに、朝鮮半島にも渡った。

鬼神を祀る国は高句麗、「宮室於所居之左右立大屋祭鬼神又祀靈星社稷」と記述される。渤海沿岸の「鬼國」の「神在其東」の東が後の高句麗だろう。さらに、馬韓も「祭鬼神」、弁辰も「祠祭鬼神有異」と鬼神を祀る。卑彌呼と対立する「狗奴國」は「木祖句句廼馳」の「句廼國」と考えられる。「奴」や「廼」は木神の祖の野の神を意味し、「馳」は地霊を意味する。すなわち、「狗奴」、「句廼」は鬼道を祀る人々である。陳寿は国史記述を任されるのだから、『山海經』の『鬼國』を知らないはずがない。「鬼guǐ」を使わなくても「規guī guī guì guǐ」も、現代の中国で似た発音だ。

2024年1月8日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と韓

  『山海經』の韓地の国は「軒轅之國」のみ、半島南端の弁辰のようで、馬韓・辰韓には国が無い。弁辰を『三國志』は「弁辰韓合二十四國」中「其十二國屬辰王」と「辰國」領と記述する。弁辰の中に「弁辰狗邪國」がある。「辰王常用馬韓人作之」と弁辰は倭が自領という馬韓の人物が支配した。その「弁辰狗邪國」が倭人伝の「狗邪韓國」と考えられる。新羅は「共立其種為辰王」と辰王になったとある。しかし、それ以前に『後漢書』に「馬韓人復自立為辰王」と馬韓が辰王と自称していた。元々辰国が有ったので、馬韓人が辰王になった。この辰王は辰大国に統治を任された王の意味、多くの国の中の馬韓国や新羅国の王が辰王に任命された。建国して辰王ではなく、辰王に選出された、共立された人物を認める人物がいた。

辰國欲上書」は元封二年、前102年である。前57年より前に建国しても、謙虚に建国を遅くする国を聞いたことが無い。すなわち、馬韓・辰韓以前の朝貢しない辰国を中国史書は記述しない。「魏略曰:初右渠未破時・・・東之辰國」と辰國は衛氏朝鮮の東にあったと言う。馬韓や辰韓は南にあり、新羅建国前である。そして、『三國志』の辰韓王ではなく、漢や魏が承認しない辰王が存在する。新羅が朝貢するのは381年、奈勿尼師今二十六年の「秦貢方物」からである。しかも、新羅の国号は482年、「國名未定或稱斯羅或稱斯盧」と国名が無く、斯羅などを自称していた。すなわち、承認されていないので、他国、すなわち、畿内や倭は新羅と名付けていた。もしくは、雄略朝の時に自称した。そして、503年に「謹上號新羅國王王從之」と新羅を国号にした。

 『三國志』は馬韓に「諸國邑各以一人主祭天神號為天君」と記述した。『隋書』の「俀王姓阿毎」、「號阿輩雞彌」、俀国王の天の大君と同じと考えた。倭人と馬韓人は同じ神を祀っている。祭礼方法は、『後漢書』に「建大木以縣鼓事鬼神」と記述する。「そと」に立って、大木を建て、鈴や鼓をぶら下げて、神霊と見立てる。『三國志』は大木を建てるところを「名之爲蘇塗」と記述する。「鬼は外」だ。鬼は幽霊、霊と考えられているようで、六合で生まれる「神霊」と合致する。そして、倭人伝のみに「鬼國」と「鬼奴國」がある。当然、『山海經』の鬼國が念頭にあったと思われる。

2024年1月5日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と馬韓

  『三國志』は馬韓について、「信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君」と記述する。「立大木縣鈴鼓事鬼神」と大木が御神木である。大宰府天満宮は梅が御神木、『隋書』は「阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」と天の大君と呼んだ。天君だ。新羅の建国は新羅王赫居世居西干と辰王ではなく、「國號徐那伐」、前57年の建国の徐那伐王だ。辰韓は「馬韓割其東界地與之」と馬韓が馬韓の領地を分割した。辰韓建国は百濟建国前18年、温祚王が建国した以前の話だ。

紀元後8年、『三国史記』に「馬韓王遣使責讓曰王初渡河無所容足吾割東北一百里之地」と記述される。すなわち、馬韓王が馬韓の東北10㎞の地を百濟に割譲した。これが、扶余百濟の韓地侵略の始まりだ。それ以前も以後も馬韓は存在した。百濟は9年、温祚王二十七年「馬韓遂滅」で建国したと考えた。新羅も、辰韓六部で始祖赫居世居西干が生まれ、辰人に「辰人謂瓠爲朴・・・故以朴爲姓」と朴と賜姓された。そして、前57年に徐那伐王となった。

馬韓は「桓靈之末」、景初中237年頃、古尓王の即位時、「二郡遂滅韓」と馬韓は滅んだ。馬韓は「樂浪本統韓國」と樂浪郡が統治し、更に、辰韓の8国を帯方郡と分割していた。しかし、250年、倭に「親魏倭王」を授与して、馬韓を任せたようだ。『晋書』も『三國志』と同様に、馬韓・辰韓・弁辰と変わらない。そして、不明な馬韓王が、280年、281年、286年に朝貢しているが、百濟は国として認められていない。おそらく、倭の馬韓王だろう。そして、『三国史記』の古尒王・責稽王にも朝貢の記述が無く、百濟以外の王が朝貢した。そして、285年、武帝二年に「東夷八國歸化」と記述する。それ以降、太康十年に「東夷十一國」、「東夷遠三十餘國・・・來獻」と記述する。合計、東夷110国以上が晋に付いたが、新羅も百濟も含まれない。しかし、翌年「阿知使主・・・並率己之黨類十七縣而來歸焉」と畿内朝廷に帰順した。太康十年に晋は、倭が「絶遠」と統治政策を変えたのだろう。

百濟を国として、中国が認めたのは『宋書』からで、倭王も同じ頃、馬韓が百濟に滅ぼされたと認めた。372年に近肖古王が「遣使入晉朝貢」と初めて朝貢した。そして、418年、腆支王が「使持節都督百濟諸軍事鎭東將軍百濟王」と承認された。倭王珍は「倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」と自ら名乗った。馬韓ではなく百濟と呼んだ。しかし、晋は百濟を認知していたが、『晋書』の「四夷傳」は「馬韓」で、晋の領土。倭王は百濟を含めて自領だと主張した。

2024年1月3日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が無視した国

中国の天子は『山海經』の「海」西南の「蓋天地之中」の「都廣之野」で生まれた。海、渤海や黄海が天、倭も「海東經」に記述され、天の住人だ。天が記述される『古事記』の嶋がある。「隠伎之三子嶋(天之忍許呂別)、伊岐嶋(天比登都柱)、津嶋(天之狭手依比賣)、女嶋(天一根)、知訶嶋(天之忍男)、兩兒嶋(天兩屋)」である。黄海と六合の領域、神霊が生まれ、聖人が行きかう場所である。聖人を日本人は「ひじり」すなわち「肥後」と理解した。神霊が生まれる物語は『古事記』にも記述されている。但し、大嶋(大多麻流別)は隠伎之三子嶋に対する隠岐の島後の於母島、忍許呂島である。

『三國志』と『古事記』の若帯日子より前の倭の領土と畿内政権の領土が全く異なることが解った。阿知使主や子の都加使主が「並率己之黨類十七縣而來歸焉」と17縣を引き連れて帰順した。この17縣の中に壱岐や筑紫などが有ったと思われる。使主も、中臣烏賊津使主、和珥臣祖日觸使主、漢使主を含めて葛木氏の神武東征のメンバーである。そのメンバーを率いた人物の子や孫が、武内宿祢の孫や曾孫と思われる坂本臣の根使主、葛城氏の圓大使主だ。「漢部定其伴造」の曰直は曰臣、道臣を与えられた大伴氏の配下たちである。

これで、『三國志』が見ているのが、日本列島では無く、九州の西半分、南シナ海側だということが解った。中国から見た東夷伝の倭人なので、当然である。『山海經』の倭は「海内東經」、黄海や南シナ海を記述した条項に記述された。『後漢書』では大倭王と畿内政権を認知していたが、『後漢書』に大倭国を記述しない。朝貢しない大倭国は無視される。

『漢書』の「眞番辰國欲上書見天子」の辰國は独立した章が無い。韓地「三韓」は「皆古之辰國也」、辰國の土地だった。「耆老自言秦之亡人」と秦人だったと古老が言う。だから「有似秦人」と人が秦人に似ると言うが、漢朝と秦朝の人は同じはずだ。『後漢書』は意味不明なので、人と語とを変更している。辰は後に秦と書き換えられるので、秦人は辰人だ。

辰韓は「秦之亡人・・・有似秦語故或名之為秦韓」と「秦人」が治めているからと、「辰と秦」を同一視している。中国人なら、「Chénqín」、朝鮮人は「chen jin」と別国だが、日本人は「シン」で同じ国名だ。『三國志』は「名樂浪人爲阿殘東方人名我爲阿謂樂浪人本其殘餘人今有名之爲秦韓者」と記述する。秦韓人は東方の人が自分の事を「あ」()と言うから阿殘と呼び、東方の人だった。秦韓の東方は日本である。