2023年12月29日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『古事記』の国

  『三國志』に対して、『古事記』の『三國志』までの頃までと比較しよう。游斯呂和気以前に出現する国は次のようだ。游斯呂和気までは、薨去日がはっきりしない、記録の無い世界のためだ。戊寅年318年から乙卯年355年の就位した若帯日子以降は王位の就位期間が解っている。なぜなら、干支で薨去日を示すのは、その間隔が60年以内だからである。それ以上なら、干支は意味をなさない。役職に60年以上就くと、80歳を超えてしまい、古代ではまずない。

また、意祁王が記述した国生み神話の部分は、意祁王の時代を背景にした大八嶋と考えられる。讃岐國造や阿波國造は履中天皇期より後に造られる。阿波國の初出は允恭期の「狹磯是阿波國長邑之海人」である。そして、綿津見神は阿曇連の祖、履中天皇の時の阿曇連濱子が初出である。同様に、豊國別王の日向國造の祖の様な説明文の国も除く。

出現國は「出雲國、伯伎國、黄泉國、葦原中國、食國、刺國、大國、宇都志國、木國、根堅州國、高志國、倭國、常世國、近淡海國、豊葦原之水穂國、天津國、美濃國、科野國、韓國、若國、豊國、阿岐國、紀國、起國、針間國、稲羽國、旦波國、山代國、但馬國(多遅麻國)、三野國、尾張國、科野國、弟國、大倭國、相摸國、東國、河内國、安國」である。

美濃國と三野國は同じ読みだが、私は三野國が三国ではないかと思っている。食國は隠洲国、安國は野洲国、根堅州國は淀川河口、宇都志國は菟道の津の大津の志木と考える。気づくところは、日向國や熊襲國、筑紫國、奴國、伊都國をはじめ、九州の国が含まれていない。九州は、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連と『古事記』記述時に書かれた。熊曾建は敵国に入って、暗殺した人物である。豊國は安芸國が豐の秋津と呼ぶように、東の「拘奴國」で関門海峡を渡った東だ。

神武東征で日向や竺紫は記述される。宇沙は豐國の宇沙、『古事記』の神話では、日向や竺紫は勢力範囲外の権威が届かない国だ。日向や竺紫は国と認めていないことを示している。『古事記』の出現國には壱岐国もない。しかし、対馬と考えられる国があり、それが、天津國と黄泉國だ。『三國志』の「對海國」は「方可四百餘里」、20㎞四方と記述する。しかし、実測は最長72㎞、3国分の距離である。すなわち、水葬で対馬海流の最下流に死体が流れ着く「黄泉國」、もう一方が「天津國」なのだろう。そして、もしかしたら、もう一国、「對海國」も有ったかもしれない。倭国と畿内政権は別国なのだから。

2023年12月27日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『古事記』の国

  『三國志』に対して、『古事記』の『三國志』までの頃までと比較しよう。游斯呂和気以前に出現する国は次のようだ。游斯呂和気までは、薨去日がはっきりしない、記録の無い世界のためだ。戊寅年318年から乙卯年355年の就位の若帯日子以降は王位の就位期間が解っている。なぜなら、干支で薨去日を示すのは、その間隔が60年以内だからである。それ以上なら、干支は意味をなさない。役職に60年以上就くと、80歳を超え、古代ではまずない。

また、意祁王が記述した国生み神話の部分は、意祁王の時代を背景にした大八嶋と考えられる。讃岐國造や阿波國造は履中天皇期より後に造られる。阿波國の初出は允恭期の「狹磯是阿波國長邑之海人」である。そして、綿津見神は阿曇連の祖、履中天皇の時の阿曇連濱子が初出である。同様に、豊國別王の日向國造の祖の様な説明文の国も除く。

出現國は「出雲國、伯伎國、黄泉國、葦原中國、食國、刺國、大國、宇都志國、木國、根堅州國、高志國、倭國、常世國、近淡海國、豊葦原之水穂國、天津國、美濃國、科野國、韓國、若國、豊國、阿岐國、紀國、起國、針間國、稲羽國、旦波國、山代國、但馬國(多遅麻國)、三野國、尾張國、科野國、弟國、大倭國、相摸國、東國、河内國、安國」である。

美濃國と三野國は同じ読みだが、私は三野國が三国ではないかと思っている。食國は隠洲国、安國は野洲国、根堅州國は淀川河口、宇都志國は菟道の津の大津の志木と考える。気づくところは、日向國や熊襲國、筑紫國、奴國、伊都國をはじめ、九州の国が含まれていない。九州は、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連と『古事記』記述時に書かれた。熊曾建は敵国に入って、暗殺した人物である。豊國は安芸國が豐の秋津と呼ぶように、東の「拘奴國」で関門海峡を渡った東だ。

神武東征で日向や竺紫は記述される。宇沙は豐國の宇沙、『古事記』の神話では、日向や竺紫は勢力範囲外の権威が届かない国だ。日向や竺紫は国と認めていないことを示している。『古事記』の出現國には壱岐国もない。しかし、対馬と考えられる国があり、それが、天津國と黄泉國だ。『三國志』の「對海國」は「方可四百餘里」、20㎞四方と記述する。しかし、実測は最長72㎞、3国分の距離である。すなわち、水葬で対馬海流の最下流に死体が流れ着く「黄泉國」、もう一方が「天津國」なのだろう。そして、もしかしたら、もう一国、「對海國」も有ったかもしれない。倭国と畿内政権は別国だから。

2023年12月25日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と景行紀

  南の「狗奴國」との戦いで、不戦の国と、交戦した国がなぜ有ったのか。そして、『後漢書』の東の「拘奴國」はどのようにして『三國志』の南の「狗奴國」となったのか。豊後や日向は敵の熊襲ばかりなのに、菟狹川下、日向高屋宮では戦いが無い。理由は思い当たる。高千穂宮の人物、神武(おそらく豐御毛沼)の東征である。最初に向かったのが、「速吸之門」、関門海峡である。そこに「曲浦」を統治する、珍彦を配下にする。元々は配下でなかった、「拘奴國」の人物だろう。

そして、同様に、菟狹へ侵略すると、菟狹津彦がいた。菟狹津彦は破れて、侍臣天種子を菟狹津媛に迎え入れ、配下になった。天種子の子は安芸で、豊秋津国の中臣となった。この、三地点の内側が『後漢書』の東の「拘奴國」である。この結果、『後漢書』の東の「拘奴國」は『三國志』の南の「狗奴國」になったと考えられる。すなわち、豊国が東の「拘奴國」だった。

日向は日本童男が川上梟帥を殺害し、さらに、弟彦達が「悉斬其黨類」と殲滅した。童男は諸縣君牛諸井の祖先なのだろう。弟彦は景行天皇だった。おそらく、子達は御刀媛や日向髪長大田根を妃にして、阿牟君の始祖の日向襲津彦や、日向國造の始祖の豐國別を生む。

そして、『三國志』の南の「狗奴國」を掃討して、物部印岐美が「久努直」と「狗奴國」王となったようだ。印岐美、壹君とも書け、熊襲討伐の先遣の物部君の祖の夏花の子の可能性がある。さらに、橿日宮の卑弥呼は松峽宮へ、「熊鷲」と「御笠」で戦った。そして、朝倉の夜須、山門縣の『三國志』の南の「狗奴國」を滅亡させた。『晋書』以降、「狗奴國」は記述されない。『晋書』に泰始二年十一月己卯「倭人來獻方物」、義熙九年「倭國・・・獻方物」と倭は引き続き朝貢している。しかし、親晋倭王ではない。晋にとって、倭の重要性が減った。その結果、倭は畿内政権にすり寄っている。「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」である。

2023年12月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』 「拘奴國」から「狗奴國」

  『三國志』は倭国の構成国の30国を「此女王境界所盡」と記述した。「斯馬國」、「巳百支國」、「伊邪國」、「都支國」、「彌奴國」、「好古都國」、「不呼國」、「姐奴國」。そして、「對蘇國」、「蘇奴國」、「呼邑國」、「華奴蘇奴國」。更に、「鬼國」、「爲吾國」、「鬼奴國」、「邪馬國」、「躬臣國」、「巴利國」、「支惟國」、「烏奴國」、「奴國」である。そして、南に「狗奴國」が有って、「不屬女王」に対抗した国である。「狗奴國」は『後漢書』に「女王國東度海千餘里至拘奴國」と女王国の東、海を渡った場所に、その首都が有った。

「拘奴國」は「千餘里」50㎞、海も渡って彦島辺りが国境だ。景行天皇は周芳娑麼から「南方烟氣多起」と南方に戦乱を見た。『三國志』と同じ南である。すなわち、それ以前に、東の「拘奴國」を南に追いやった。その地を得たのは、久奴(拘奴)直の祖の物部大小木連だろう。「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世侍臣」、150年頃で、時代も合う。兄弟の大小市連は小市直の祖、嘉穂郡に小市神社が有り、小市という地名が有ったのだろう。大倭王の淡海の天皇の配下が「大倭王居邪馬臺國」と筑紫か宗像に居たと思われる。

それで、「桓靈間倭國大亂更相攻伐」後、「一國之魁帥」と壹国の頭領がいた。景行12年の九月甲子朔は206年の日干支だろう。景行天皇は根の纏向王で、大倭王は但馬・丹波・若狭・敦賀・淡海道・野洲・大津の王だ。「神夏磯媛」の神の那津伊襲媛、那珂河河口の伊襲国女王で一大率を置いていた。伊都と呼んだのは、首都の高千穂宮が有るからなのだろうか。「神夏磯媛」と景行天皇によって「邪馬壹國」は落ち着いたが、首都を移動して南の「狗奴國」はまだ存在する。領域は菟狹川上、三毛、碩田、速見、直入、來田見、竹田市の稻葉川、大野、直入、熊縣、玉杵名が敵国である。日向國、葦北、八代縣、阿蘇、大牟田の筑後國の御木、八女、浮羽は友好国のようだ。阿蘇を含む友好国、そして倭国の中の蘇を含む女王国の構成国がよく合致する。すなわち、「南至投馬國」と「投馬國」へ行く途中、九州西岸の肥前・肥後の国が21国と考えられる。倭は『山海經』の「海内東經」に記述される。「海東經」は黄海、東シナ海を指す。「草野姫」の草は天草の草だろうか。

2023年12月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『梁書』が見た「倭國」

  間違い説は『梁書』を引き合いに出すかも知れない。しかし、『三國志』の里単位を隋や唐の里単位の8倍になった目で書いたからと私は考える。『四海華夷総図』と同じ目を文書にしたのだ。日本に行ったことが無い、唐初の権威の「姚思廉」の「私選」の、『梁書』の常識なのだろう。梁朝以外の北朝の資料も使用して、余計な知識を使っているのだろう。

『隋書』は「夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行」と記述する。倭人は里数を知らないと。しかし、『日本書紀』は雄略天皇が創らせた崇神紀で記述して「任那者去筑紫國二千餘里」と。垂仁紀にも田道間守が「受命天朝遠往絶域萬里蹈浪」と短里で言った。『三國志』は対馬を「對海國」と呼んだ。いかにも「狗邪韓國」と対の国で、「狗邪韓國」は倭領だ。任那は「狗邪韓國」と思われ、「對海國」の対馬が統治したから、対馬までの距離100㎞なのだろうか。

そして、大化の記事には「三十里以下四里以上爲中郡三里爲小郡」と記述する。天武・大化の記事は元明朝が記述している。里単位を知っているから、唐朝に合わせて、1里400mの長里に変更している。150m四方の国は有り得ず、1.2㎞四方なら有り得る。隋朝は自分たちが使う里単位と違うから、倭人は里数を知らないと言ったのである。

「扶桑國」の人は短里を使っていた。雄略紀に東漢掬直が「方今區宇一家烟火萬里」と言った。長里だったら、中国を通り越す虚言、短里なら500㎞である。倭国が宋朝に主張する「萬二千里」の領域なら妥当である。

慧深又云扶桑東千餘里有女國」と記述する。『梁書』の倭国の、梁朝以前の記述の多くが慧深の言葉だ。官位の「對盧」を使い、高句麗と関係が深い扶桑国の慧深の言葉を、北朝の長里の単位と考えた。南朝の齊・梁は短里を使う慧深の隋にあった記録を長里と考え、8倍して短里に変換し64倍に。計三万二千里は九州からフロリダまでの距離、短里なら根室までの距離に相当する。書籍の『四海華夷総図』の目の『梁書』が出来上がった。南朝の記録のインドは「中天竺國在大月支東南數千里地方三萬里」である。ブータンからカシミールの間は千五百㎞で短里表記だ。

2023年12月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が見た「倭國」2

 「邪馬壹國」までの、足りないと言われている35㎞は、「伊都國」と「不彌國」の領内の距離である。「末盧國」は船行途中での記述で領内に入らず、「末盧國」は東南端の国境松浦川で、船を降りたと思われる。「不彌國」は陸行と記述しない。船行で領内を、立ち寄って通過したので、詳述されていないようだ。そして、「不彌國」と「邪馬壹國」の国境の河に到着する。国境は唐原川だろう。1国の領内の距離は「對海國」と「一大國」で記述した、3~4百里(15~20㎞)である。「奴國」を「陸行」せず、行っていない。だから、能古島・志賀島・海の道の博多湾北岸の遊覧の旅である。

能古島・志賀島・海の道の南には、「奴國」と「邪馬壹國」がある。「不彌國」の「千餘家」に対して、「奴國」が「二萬餘戸」、「邪馬壹國」は「七萬餘戸」である。千対九万の90倍の人口の土地、横幅が20㎞で、南北が2㎞対20㎞の土地である。住民比でも合致する。「伊都國」と「奴國」の国境は三瀬峠越えの「百里」で5㎞、「伊都國」と「不彌國」の国境は海を隔てて田尻、能古島間の、「百里」で5㎞である。陳寿は事実を記述し、後代の権威は、無い「景初三年」が有る、と記述した。

最初から解っていた。韓国から「一大國」まで、対馬の島内を通らないと、船行二千里の100㎞で行けない。約150㎞、三千里になる。『三國志』は95パーセント以上正しいのだから、正しくなるように理解した。正しく無かったら、考えるのも無駄だ。東でなく南なら、北や西かも、船で無く、筏で流されたかも。船行が10年でも何でも有り、万里と書き間違えても、だ。ご当地だと主張できても、証明できないから、首都遺跡の証拠がある纏向で決定だ。

2023年12月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が見た「倭國」1

  倭人伝の里程の合計が合わないと権威は主張する。7百里35㎞、または、千四百里70㎞足りないと言う。「四海華夷総図」を知っている権威は、『三國志』などあてにならないと言う。真実は権威の頭にあり、足りない35㎞、70㎞を陳寿は船行と陸行に置き換えたことに決めた。35㎞でフィリピンまで行かなければならないのだから、誇張したと。船行と陸行で、距離も自由だから、どこにでも行けると権威は考えた。

ところが、陳寿は、通過した場所の紀行文を記述した。「對海國」は「島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴」。「一大國」は「方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」。「末盧國」は「有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」。「伊都國」は「千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」。「不彌國」も国内の様子を記述しない。陸地がほとんどない、海岸線自体が領内なのだろう。「末盧國」は、陸地に入れないからと海岸線の様子を船から見て記述した。一度は接岸して、「草木茂盛行不見前人」と様子を見たのだろう。そして、また船に戻るという、沿岸船行を示している。すなわち、「末盧國」以外の国々は領内を通過していることを示している。

そして、「度一海千餘里至對海國」、「渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」、「渡一海千餘里至末盧國」。「對海國」と「一大國」は国の中を歩いたはずなのに、渡海して至ったとだけ記述している。さらに、「陸行五百里到伊都國」、「行至不彌國百里」と行き至っている。そして、「至奴國百里」、「至投馬國水行二十日」、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は「着きますよ」の意味だ。百里で、水行二十日で、水行十日陸行一月で「着きますよ」と記述している。しかし、「邪馬壹國」の様子を記述しているのだから、実際に行っている。すなわち、「不彌國」から「邪馬壹國」まで、行く必要が無い、0里で行けることを意味する。「奴國」から「邪馬壹國」も那珂川か御笠川が国境と思われる。

2023年12月13日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と朔の日干支

『三國志』の年号を検証しよう。233年「青龍元年閏五月庚寅朔」は朔の日干支。239年「景初三年正月丁亥朔」は前年12月30日晦日の日干支。242年「正始三年九月辛未朔」の注記は間違いで、241年の日干支である。ところが、261年の注、「景元二年八月丙子朔」は朔の正しい日干支である。すなわち、正始元年は239年である。「松之桉魏武以建安九年八月定鄴文帝始納甄后明帝應以十年生」と記述される。建安九年は204年、8月に后を迎えたので、翌205年以降の生まれと述べた。その為、「計至此年正月整三十四年耳」、239年正月なら35歳なのに34歳と記述する。この原因は、「景初三年正月丁亥朔」が原因だろう。本来は景初2年12月30日丁亥、34歳である。

ところが、「其以建寅之月為正始元年正月」で、正始元年1月30日丁亥と変化する。さらに、「以建丑月為後十二月」と「時改正朔」で1月は後の12月、後の12月は29日までである。その結果、「景初三年正月朔日丁亥」で、正始元年1月は存在しない。239年閏2月1日が丁亥朔であるが、238年12月に「帝寢疾不豫」なので違うだろう。実際の人々は、正始元年12月まで景初三年12月と思って記録したと考えられる。そのため、『梁書』も「至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢」と記述される。『日本書紀』の「明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等」も同じ感覚の中にいる。松之も当然、その範疇の人物だろう。

陳寿は明帝には「景初三年丁亥」、齊王には景初三年丁亥朔」と記述を書き分けた。239年の記録は、齊王の景初三年の記録と、正始元年の記録が記述されたようだ。その中に、倭国記事があったと思われる。正始元年記事の内容は、まだ改元されていなくて、倭人には皇帝が交代したことを知っているが、それでも景初3年である。12月に「詔書報」、明帝は危篤状態で皇后が代行している。正始改元は12月、日本人が知ったのは正始4年の使者が帰国後である。景初4年鏡が存在しても矛盾はない。

2023年12月11日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と地図

  『三國志』の信頼度が95パーセント以上正しく、グーグルマップで、距離が正確にわかる。3百里の壱岐は16㎞、1里約50mだ。しかし、1里50mでは唐津から、皆が想定する場所に届かない。合計「萬二千餘里」にも足りない、不明の足りない千四百里の問題だ。正しいはずなのに。また、「不彌國」と「邪馬壹國」間の距離記述がない。95パーセント以上正しい『三國志』、抜かりが無いはず。そこで、距離の記述がないから、理解できた。「不彌國」から「邪馬壹國」の首都までの距離ではなく、国境間距離だということが。両国間は0里、川が国境だ。国境の両岸が「不彌國」と「邪馬壹國」なのだ。足りないのは、領内の広さ、しかし、それはもう書いてある。壱岐や対馬の方三百里と方四百里だ。1国の領内の広さは15~20㎞である。「末盧國」は海岸線を船行する途中の様子である。「末盧國」の領内を通っていない。「末盧國」国境から歩行、記述は国境間である。記述が無いのは、「伊都國」と「不彌國」の領内の三~四百里である。足りない距離が埋まった。この結果は95パーセント以上の確率で『三國志』が正しいと、数値で示された。

対馬は縦長で70㎞、方四百里20㎞と矛盾する。しかし、対馬には、少なくとも、複数国があり、特定できないと思われるからだ。対馬は『山海經』で「女子國」とされる国で、「兩女子居水周之」と島に二人の女王が居た。月神と日神と考えられる。現在も上下の県郡が知られていて、国境が解らない。しかし、『三國志』は95パーセント以上正しい。すなわち、対馬内にある、三分の一の距離の国だ。『三國志』の距離認識を否定する根拠が、朝鮮や明の古地図である。朝鮮の1402年作と言われる『混一疆理歴代国都之図』や1532年作と言われる『四海華夷総図』などだ。日本が巨大だったり、北が南だったりしたので、海洋民族の日本人には奇異に見えただろう。

しかし、海を知らない騎馬民族の人々にとっては、『三國志』の記述をもとに描く以外方法が無い。日本は「有侏儒國在其南・・・去女王四千餘里」と記述されている。四千餘里、200㎞位で、沿岸船行で国東半島あたり、侏儒の土蜘蛛が居る土地だ。『日本書紀』に「到碩田國・・・茲山有大石窟曰鼠石窟有二土蜘蛛」、碩田は大分市だ。ところが、明の人々は、1里400mなので1600㎞、フィリピンに届く。北方騎馬民族の距離感と、歩行漢民族の距離感の違いである。里単位の違いを知らない地図を、愚かな日本の権威者が見た。中国人への侮蔑が生み出した錯誤だ 。




2023年12月8日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 日本の古代史研究

日本の古代史は、「まずは『日本書紀』ありき」で、言わば「国定教科書」と言えた。『日本書紀』が正しく、それ以外は間違い、国家という権威の当然な在り方であった。古代8世紀の国家の有力者の中には、『日本書紀』と異なる歴史を持つ人々が多数存在する。其々、氏族毎に、其々、氏族毎の歴史観が有ったはずだ。それらの人物が『舊事本紀』や『古事記』を記述したと思われる。国家の権威はそれらを偽書と扱った。

ところが、江戸時代に、国学者の本居宣長は『古事記』が正しいと考えた。『古事記』と『日本書紀』は相違点が多数あり、権威を否定したのである。そして、その頃、「邪馬台国論争」が勃発していた。新井白石は『古史通或問』で大和説を主張して朝廷のことだとした。日本に権威は大和朝廷だけと考えたのだろう。しかし、新井白石は「外国之事調書」では「筑後国山門郡説」を説いた。複数の権威が、古代には存在したと主張したわけだ。そして、本居宣長も『古事記』が正しいのだから、『馭戎概言』で、九州の熊襲による「偽僭説」を提唱した。大和朝廷が中国に朝貢して、配下になるなどとんでもないと考えたのだ。日本は建国以来、畿内以外の首都は存在しないのだから、当然だと考えたのだろう。

「邪馬台国論争」は、権力が複数あったか、畿内だけかの論争だ。『三國志』が正しければ、複数の権力、間違いなら、畿内政権だ。『三國志』の間違い論争が高まれば高まるほど、畿内政権が勝つ論争である。「東か南か」、「陸行か船行か」など意味がないのである。首都の遺跡は纏向に有る。年代の測定結果など、100年近い幅があると主張して問題なし。もし、「親魏倭王」の金印が出土しても、常套手段の偽造や盗難とすれば良い。権威が主張すれば、みな黙る。

 しかし、本居宣長の「『古事記』が正しい」は、衝撃を与えた。『古事記』が正しければ、『日本書紀』に間違いがある。『日本書紀』の元明朝の官僚の偽作説が誕生することとなった。『三國志』も作者の陳寿の信頼性を貶め、誇張だ、間違いだと主張した。「邪馬台国論争」は罪作りな論争だ。現代の何でも有りの歴史観と違い、古代はまじめな人々だ。『三國志』は晋朝の目で見た事実だ。『舊事本紀』や『古事記』も、その時代にあった『日本書紀』を基に、その氏族の目で見た事実なのだ。『三國志』が正しければ、必然の結果が導かれる。すると、誰も儲からず、マスコミも飛びつかない。

2023年12月6日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 はじめに

  私は、これまで、『日本書紀』の矛盾を考え、一書群(中国・朝鮮史書、古事記、舊事本紀等)と比較し、検証してきた。始まりは古田氏の「『三國志』は正しい」だった。しかし、私は失望した。古田氏は卑弥呼の墓を須玖岡本遺跡にしたいだけだった。そのため、1里を70mにして、奴国を女王国とした。これまでの、古代史の権威と全く変わらず、頭の霧は晴れなかった。ところが、世の中が変わった。誰もが簡単にネットに繋げられ、『日本書紀』をはじめ、『三國志』も『古事記』も原文で読めるようになった。それまで私たちが読めたのは、権威が書き換え、解説した『日本書紀』や『古事記』しかなかった。しかし、最も書き換えが無い『日本書紀』などの原本が国会図書館の電子ライブラリーで読めるようになった。中国史書は「維基文庫」や「中國哲學書電子化計劃」で原文が読めた。そして、グーグルマップで、簡単に正確な距離が算出できた。

そして、私は自動カレンダー作成ソフトを創った。月齢や二十四節気も、旧暦も表示させた。そして、その計算のため、フリーの、「朔・節気」計算ライブラリーを手に入れた。ユリウス数を使った高度なライブラリーだった。しかし、西暦0年が在り、その他の朔の間違ったユリウス日を返すバグがあった。それで、異常値は、集計して朔の個数で検証して修正した。修正が終わった朔や節気を使って、ユリウス数と旧暦の月日を対応させて、日干支を算出した。現代の日干支は簡単に検証でき、古代の日干支は、史書の「日蝕があった日干支」を使って検証した。検証結果は『漢書』・『後漢書』の誤った答の割合が172中7件だった。(一件、月食を記述していたと思われるので省いた。)7件は晦日か2日の間違いで、伝聞の間違いの可能性が高い。統計的に95パーセント正しければ、有効な数値と考えられる。従って、中国史書や三国史記の記事は95パーセント以上の記事が事実だと考えられる。ちなみに、『日本書紀』は日蝕記事がほとんどなく、全ての朔の記事で77パーセントの正確さだ。4分の1の記事が朝廷以外の記事と推定できる。中国史書は、晦日が朔だったりしたため、全朔で83パーセントの正確さだ。17パーセントの多くは違う暦を使った王朝の変換ミスだろう。

そして、新しい古代史の究明が始まった。今まで、どれが正しく、どれが間違いか解らなかった史書が、どの程度正しいか解った。晋・宋の歴史家の裴松之さえも、『三國志』を間違って解釈した。それより後代の歴史家など、真実をどれほど記述したのだろう。原文の史書が一番の資料、そこに、真実が八割もある。残りの2割の八割は、朔日を晦日に移植したりしたなどの間違いなのだろう。実際の錯誤は5分程度と考えられる。証拠が全くない権威者と比べ物にならない、それが、数値で示された史書群であり、『日本書紀』なのだ。

2023年12月4日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 まとめ

  『日本書紀』は藤原氏も含めて完成させた史書である。正史と異なる記述は当然別資料があったことを示す。『家傳』は、俀国の年号での記録だろう。白鳳や斉明の年号と倭国の元号の白雉や日干支での記録とを対応させた。同様な方法の結果が『日本書紀』だった。それぞれの王家にはそれぞれの基準年号がある。大神の宮には、日干支で書かれた、宮の行事、礎石(底津石根)に宮の大黒柱を立てる「宮建立」から始まる。そして、宮の神、前女王の皇太后を祀り(死者の神を合祀)、新しい女王が即位する。皇太后()を迎えるので、前宮は廃宮となり、女王が絶えると、最有力者(皇后の兄弟)の姫()を迎える。「栲幡娘姫皇女侍伊勢大神祠」や「離天照大神於豐耜入姫命」である。年中行事のため、朔の日干支は必ず記録される。それぞれの王家は、おそらく、相対的年数や日付を記録(墓誌の年干支)、冬至から、立春から何日後という日付なのだろう。

そして、「最終兵器の目」が登場した。ユリウス数から算出する朔の日干支である。陳寿は信頼できないと軽んじられた『三國志』をはじめとする、中国史書の日蝕の日干支が正しかった。少なくとも、中国史書の日干支が正しいことを証明した。中国史書の年数や朔の日干支の矛盾も、改暦の為であったことも証明した。偽書なら、暦も嘘を作ればよい。だが、暦は正しい。暦が正しければ、記事も正しいと考えられ、中国史書は正しいことが前提になる。

『日本書紀』は正しい日干支と間違いの日干支がある。すなわち、日干支が正しい記述は記録、間違いの日干支は寄せ集めてきた、記録と証明できる。そして、間違いの日干支はいつの日干支を持ってきたかが解る。残念なのは、寄せ集めなのだから、正しい日干支も違う場所からと頭の片隅に。そして、私の新『日本書紀』は天文学的数値で裏付けた歴史だったのである。辛酉の年干支で1月朔日が庚辰の日は紀元前660年だけだ。建国の日は正しかった。

疑問があるのなら、晦日や2日に日蝕が起こる大発見を証明してほしい。ユリウス数無しで、正確な朔を算出できる方法を教えてほしい。奈良時代に千年以上前の朔を算出できる計算式を示してほしい。太陽と月と地球の位置関係を定数で算出するのは不可能だ。地球は楕円に公転し、地軸の「ズレ」、長軸と短軸の速度は異なる。奈良時代の人々は、このような天文知識がない。もう止めよう。権威ある歴史学者の頭の中にしかない歴史から抜け出そう。『日本書紀』は偽書、『三國志』も信用できない、『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』も偽造と権威は言う。偽書や偽造はどこから証明したのか。偽書という『日本書紀』をもとにした研究のなれの果てである。嘘から出た嘘だから本当のはずがない。非主流の研究者には宝の山がここに眠っているから、ここからが出発点だ。

私は、まず、『日本書紀』の矛盾を考えた。そして、『日本書紀』をもとに、他書との矛盾を、考えた。最後に、他書をもとに、『日本書紀』を考えた。次は真実の日本の古代史を考えよう。

2023年12月1日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 『古事記』『舊事本紀』「帝皇本紀」より後2

『家傳』「大師伝」は「簡授錦冠」の後、「俄而崗本天皇崩」と記述される。『日本書紀』では645年「大錦冠授中臣鎌子」で654年に「天皇崩于正寢」、9年後に急死ではなく正寢である。斉明天皇も七年皇位に就いていた。そして、665年白鳳五年秋八月、「大綿冠内臣中臣連・・・超拝紫冠」とある。『日本書紀』では654年白雉五年正月、「紫冠授中臣鎌足連」とこれも異なる。そして、「俄而天萬豐日天皇」なので、665年、「已厭萬機登遐白雲」と崩じた。665年に官位授与と天皇崩、確かに俄かである。そして、皇祖母尊が「再應寶暦」と再登板し、「悉以庶務委皇太子」と、皇太子が摂政である。白鳳5年は『日本書紀』を引きずった年号で、実際は白鳳4年のことだ。

『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』という遺物がある。「丙寅年四月大旧八日癸卯・・・中宮天皇大御身労坐之時」と666年の天皇は中宮天皇である。『薬師寺東塔の擦管』に「庚辰之歳建子之月以中宮不悆」とある。680年11月に中宮天皇が治らなかったと記述されている。『日本書紀』も680年十一月、「後岡本天皇之喪而弔使」と660年崩じたとした天皇の弔使が記述される。660年ではなく680年の弔使だ。中宮即位は天智天皇が20歳になっていないので、即位できなかったからだ。661年、天智が13歳で皇太子、668年、天智が20歳になり、即位した。694年、天智は46歳で崩じ、鎌足は692年、56歳で薨じた。

『日本書紀』の白雉4年「發遣大唐」に定惠が唐に出発した。そして、一行が唐での死や海死したが、白雉5年「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」と記述される。貞恵は鎌足31歳の長男、不比等は46歳の次男である。しかし、『家傳』「貞恵伝」には、「白鳳5年随聘唐使到于長安・・・時年十有一歳矣」と記述される。「則唐主永徽四年」と記述し、「歳次甲寅」と653年、白雉2年が654年の干支で矛盾だらけだ。614年生まれの鎌足は高齢出産だが、637年生まれなら、鎌足19歳の子、不比等は23歳の子である。そして、白鳳16年、676年に「其年十二月廿三日終於大原之第春秋廿三」と廿二歳、春秋の数えで廿三歳の早逝だった。

629年から、実質の天皇は倭国王の吉備嶋皇祖母だった。飛鳥岡本宮は嶋大臣が生まれた「飛鳥河之傍」だった。貞観五年631年に、高表仁と対応したのは倭王だったことからも解る。そして、天智三年に「大紫蘇我連大臣薨」・「嶋皇祖母命薨」と乙巳の変で倭国は664年に崩壊した。665年麟德二年の封泰山で唐の天子と会った倭國の酋長は中宮天皇だった。670年咸享元年に『新唐書』「號日本國」と俀国は国号を変えた。しかし、大化6年、「長安元年其王文武立改元曰太寶」と文武が即位した。持統十一年697年即位ではなく700年だ。『古事記』は「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」、すなわち、大化年中だ。文武は潜んでいたがクーデタで新政権を樹立した。実質、襲名した馬古、文武の義父の不比等が天皇と同等だ。