秦王国は反百濟で、任那の秦王国領の継続を願い、倭王稲目は親百濟で、任那を百濟に与えようとした。秦王国は新羅を制御できなくなり、倭王稲目は新羅領の侵犯までの力が無かったようだ。結果的に俀国は親新羅・親唐、倭国は親百濟で、652年、義慈王十三年に「王與倭國通好」と同盟した。すなわち、倭と百濟、対俀と新羅、対任那復興の秦王国との三竦みの状態だったことを示している。
545年、欽明六年「高麗大亂被誅殺者衆」は548年の事のようだ。545年の『三国史記』には「王薨號為安原王」が記述されるのみだ。それに続いて、『梁書』「云安原以大淸二年卒以其子為寧東將軍高句麗王樂浪公誤也」と記述する。大乱など無く、548年、陽原王四年に「以濊兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」の記事がある。『三国史記』の安原王薨は「是梁大同十一年東魏武定三年也」と東魏の記録と『日本書紀』の記録によるのだろう。550年の欽明十一年二月辛巳朔庚寅は正しい日干支だが、「百濟本記云三月十二日辛酉」は3月11日である。2月1日を1月30日朔と考えた証拠である。
欽明十四年五月戊辰朔の「河内國言泉郡茅渟海中有梵音」は428年の説話と考えている。前年、大雀大別の薨が427年、丁卯年八月十五日だった。そこに寺が在って、大別死後に像が見つかったから、大別の寺に奉納したと考えた。敏達六年十一月庚午朔の「獻經論若干卷并律師禪師比丘尼咒禁師造佛工造寺工六人」の記事も527年の説話の可能性がある。造寺工が来る前に寺があったのは奇異で、大別王に百濟が技術者を送って、寺を造った。しかし、大別王が薨じ、その後の11月に、像を造った寺に安置したと考えられる。
555年、欽明十六年に「吉備五郡置白猪屯倉」と屯倉を置いた。屯倉は直轄地で、日本の統治形態は有力者が各氏族との姻戚関係で影響力を持って、労役させたと思われる。この、吉備の屯倉は稲目と尾輿の配下と思われる穂積氏の直轄地ということになる。127年、景行五七年に「諸國興田部屯倉」と屯倉を置いた。『古事記』は「倭屯家」、『舊事本紀』は記述されない。倭屯家は邪馬台国を統治する大倭王の住む地域に屯倉を置いたということだ。『日本書紀』では「賜膳大伴部」を賜姓され、膳夫は浮羽の人物である。すなわち、九州に屯倉ができたことを示し、倭国の記事と解る。仁徳即位前に額田大中彦が要求したのも、「倭屯田及屯倉」である。同じ頃と思われる、息長帯日売が「百濟國渡屯家」、依網屯倉も置き、日臣が置いたのだろうか。
『古事記』に記述されない、村合屯倉、倭蒋代屯倉など、多数の屯倉が記述され、日臣が侵略したのだろう。まさに名目上倭王武の配下の日臣の「東征毛人五十五國」の結果の55の国の屯倉と考えられる。そして、石井の敗北で、糟屋屯倉、すなわち、倭国の首都を直轄地にした初代稲目の建小広国押楯が倭王となった。そして、536年、宣化元年に論功で、蘇我大臣稻目宿禰、尾張連、麁鹿火を裏切ったと思われる新家連、阿倍臣が得た屯倉から、筑紫に兵糧を集めた。稲目は更に、備前兒嶋郡や倭國高市郡も得たようだ。倭国と畿内政権の統治形態の差が屯倉のようだ。