2023年9月29日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 武烈天皇前紀

武烈天皇は『舊事本紀』「神皇本紀」に二年巳卯春三月丁丑朔戊寅「麻佐良連公為大連」とある。すなわち、500年から麻佐良が大連天皇である。武烈元年は499年なので、麻佐良が武烈天皇ではない。『日本書紀』には武烈天皇即位前紀に「以大伴金村連爲大連」と金村が大連天皇と記述されている。しかし、『日本書紀』の武烈前紀に鮪の説話が記述される。それを、『古事記』は志毘と白髪天皇の皇太子の意祁の記録だ。すなわち、2代目木蓮子の意祁の布都久留が、実際は飯豐郎女が室屋から朝廷を奪ったと思われる。従って、武烈前紀は『古事記』の意祁の説話と小泊瀬稚鷦鷯の説話が入り乱れている。

鮪と小長谷若雀が取り合った麁鹿火大連の娘の影媛は、実際は意祁と志毘の取り合いである。影媛は春日大郎女で、意祁が勝利し、麁鹿火大連の妃は春日山田皇女で、意祁の義子である。

大伴氏は日向諸縣君の家系の人物で、物部氏では、目大連の家系と考えられる。すると、金村・目大連は「継體天皇御世為大連」とあるように、継体天皇ということになる。金村・目大連は539年十二月庚辰朔甲申に「物部目連公為大臣」と政権交代が起こった。室屋・目大連は458年に「神皇本紀」「磐余甕栗宮御宇天皇御世為連」と大連になった。そして、八釣宮から連に降格し、「物部目連公此連公継體天皇御世為大連」と継体大連天皇が復活した。

『梁書』には齊永元元年に「名國王爲乙祁」と乙祁が499年に扶桑国王になっている。すなわち、乙祁・意祁が武烈天皇とわかる。袁祁は磐城王の娘の難波王の夫である。意祁の父の布都久留の妃が飯豐郎女と考えられ、意祁は袁祁の甥にあたる。布都久留・白髪は吉備上道臣の娘の初代難波王の婿で磐城王の可能性が高い。従って、意祁は丘稚子で袁祁の義兄弟にあたる。

雄略天皇は大伴連室屋、458年即位、478年布都久留・飯豐郎女が天皇に即位、480年に真鳥が女王国の天皇になった。485年に小前が2代目室屋から扶桑国の皇位を奪取した。そして、488年には真鳥が扶桑国の皇位も奪取し、499年に皇太子の志毘を殺害して、実質、皇位を奪取した麻佐良・意祁が即位したと思われる。

2023年9月27日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁賢天皇

 仁賢天皇は『日本書紀』も『舊事本紀』の「神皇本紀」も大連を記述しない。「天孫本紀」には「物部木蓮子大連公此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」と記述されるが、これは、物部氏の当主に過ぎない。顕宗小前大連天皇の後継者は小前を襲名して大宿祢、大国王となったようだ。小前は田部連の祖、田部は許勢男人大臣の娘の紗手媛が給った。489年に袁本杼が大臣を引き継いでいるので、袁本杼が婿になって、小前を襲名したのだろうか。木蓮子は御太君の祖の大宿祢に婿入りしたと思われる。春日袁杼比賣が春日和珥臣深目の娘の童女君、袁本杼の姉と思われ、大臣を継承した。木蓮子の妃、御太君の祖の娘の里媛が袁杼比賣の娘の春日大郎女、子が乙祁だ。

その間、498年仁賢十一年八月に「大臣平群眞鳥臣專擅國政」と国政を担っていたと記述されている。『梁書』に「扶桑國者齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と記述され、499年に意祁が畿内の朝廷の王となった。『舊事本記』も500年、武烈二年巳卯春三月丁丑朔戊寅「麻佐良連公為大連」と麻佐良が即位している。女王国王は武烈即位前紀に「以大伴金村連爲大連」だ。

すなわち、498年まで、真鳥が女王国と扶桑国を統治していた、仁賢天皇である。490年に初代真鳥が崩じ、2代目真鳥が継承し、巨勢袁本杼(男人)大臣が女王国を統治したと考えられる。『古事記』では志毘を志毘臣と呼び、志毘の家が朝廷、志毘が皇太子である。「朝廷人等者旦参赴於朝廷晝集於志毘門」と、夜明けまで天皇に、その後皇太子志毘の宮殿に向かう。『隋書』「俀国伝」の「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」と同じである。すなわち、実質の俀国王は太子の利歌彌多弗利、扶桑国王も実質の王は太子志毘だ。同様に、朝廷は夜間の天皇が神とそれに仕える皇后、実質の昼間の天皇は皇后の父や兄弟の大連である。

仁賢元年正月辛巳朔乙酉の天皇即位、十月丁未朔己酉の葬天皇の日干支は九州の暦だ。仁賢朝の大連は真鳥が継続し、木蓮子大連は安康元年から襲名された名だ。小前も大宿祢を継承して、継承された大連に死亡記事や葬送記事は記述されない。すなわち、この即位、葬送記事は他の王朝の説話と考えられる。顕宗朝が崩壊した年なのだから、大漢国の記事の可能性が高い。大漢国王は、吉備上道臣の可能性が高い。『日本書紀』には白髮に武廣國押を挿入しているが、『古事記』には「武廣國押」がない。従って、「難波小野皇后恐宿不敬自死」によって、吉備上道臣没落後の仁賢期と考えられる。

二月辛亥朔壬子の「立前妃春日大娘皇女爲皇后」は2代目真鳥の皇后の記述と考えられる。春日の丸迩佐都紀臣の娘の袁杼比賣の兄弟が深目、深目の娘が童女君、2代目真鳥の皇后と思われる。深目の娘の童女君の女君は女国王大娘女を意味し、初代春日大娘女と考えられる。初代真鳥が480年に即位し、488年2月に2代目真鳥が継承し、489年八月九日に初代真鳥が崩御したと思われる。

仁賢三年春二月己巳朔の「置石上部舍人」は石上王の木蓮子大連の事績なのだろう。仁賢五年春二月丁亥朔辛卯の「佐伯部仲子之後爲佐伯造」は小前大宿祢の記事かもしれないが、2代目真鳥の謝罪なのだろうか。仁賢六年秋九月己酉朔壬子からの「遣日鷹吉士使高麗」がある。これによって、「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」の官位を扶桑国が取り入れたようだ。

2023年9月25日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 顕宗天皇

顕宗天皇は顯宗元年己丑春正月己巳朔の『舊事本紀』「神皇本紀」に「物部小前宿祢為大連次為大宿祢」と記述し、小前が大連天皇である。但し、「天孫本紀」には「石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連次為大宿祢」と記述される。『舊事本紀』は続けて、武烈二年巳卯春三月丁丑朔戊寅に「麻佐良連公為大連」と記述する。すなわち、485年に小前が皇位に就いたが、途中に退位させられた。そして、499年まで大宿祢、すなわち、大国王だったと述べ、499年に薨じたようだ。

『日本書紀』も498年仁賢十一年八月に「億計天皇崩大臣平群眞鳥臣以大伴金村連爲大連」と眞鳥が金村を大連天皇にした。真鳥大連天皇は金村に女王国を任せたということだ。金村は飯豐郎女と大伴室屋の清寧朝を引き継いだ。そして、飯豐郎女の弟の袁祁・小前は、恐らく、雄略天皇(大伴室屋)の子の磐城王の娘の、『古事記』に記述の難波王を妃に即位した。当然、次は『日本書紀』に記述する磐城王の子の丘稚子・金村が後継者である。しかし、年齢が若く金村が即位できず、皇位が木蓮子に継承されてしまったと考えられる。2代目小前は大宿祢とあるように大国王、木蓮子の妃は「御太君祖」の娘、三国と大国の王の祖だ。

初代圓、伊耶本和気は、水歯別と思われる葛城葦田宿禰の娘の黒比賣を妃に、市辺押磐が生まれた。黒比賣が都夫良郎女の可能性が高く、丸迩臣許碁登、すなわち、女王国の姻戚、八田皇后の姪だろうか。子の市辺押磐は蟻臣が伊耶本和気の妹か娘に婿入りした人物と思われ、荑媛を妃にした。それで、市辺押磐は大臣圓を継承した。市辺押磐が殺害されたとき、御馬王も殺害され、御馬王が婿で蟻臣なのだろうか。そして、袁祁と意祁は吉備上道臣を頼った。

元年二月戊戌朔壬寅は九州の暦で、前播磨國司來目部小楯が九州から葛木氏の東征で來目部の姓を得たと考えられる。父の押磐を殺害した仲間の狹狹城山君韓帒宿禰が許された。韓宿禰と韓を統治していた。しかし、おそらく、押磐殺害によって、倭宿禰とよばれたので、論功で野洲王になっていた。そして、顕宗二年に「賜本姓狹狹城山君氏」と狹狹城山君を追認した。狹狹城山君は真鳥大連の臣下なので、真鳥の記事だろう。

韓帒宿禰から倭帒宿禰となったのは、蘇我韓子が韓宿禰になった、もしくは逆、からなのだろう。また、曲水宴を485年486年487年と催しているが、吉備上道臣仲国王の記事の可能性が高い。曲水宴はこれ以降記述されず、吉備上道臣が没落したのと合致する。仲国は489年、「難波小野皇后恐宿不敬自死」と、蘇我氏の武廣國押稚日本根子によって滅ぼされたようだ。廣國は大漢国、大漢国は「無兵戈不攻戰」と扶桑国同様に戦いを好まない、平和な国の様だ。仲国朝の顕宗二年十月、「天下安平」と平和で裕福な国を継承した。廣国は、国が洲・島のことなので、広島だろう。

顕宗三年の月神や日神が「我祖高皇産靈」と述べるように、物部氏の祖神、饒速日の父が我祖と述べている。我祖は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」というように、日()が譲り、月()が禪ずる、狭霧國の狭霧尊が祖だ。そして、高国王として生まれた神霊、狭霧國は高国、すなわち高島、琵琶湖西岸の高倉下の国である。

2023年9月22日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 清寧天皇2

  白髪は女王国の男王真鳥大連天皇として即位し、天皇の姓の大倭根子となった。『古事記』は意祁が、ほゞ、完成させたので、意祁の事績を主に記述している。ところが、『日本書紀』は蘇我氏が記述したため、『古事記』と食い違っている。『日本書紀』は大倭根子では無く、「武廣國押稚日本根子」で、おそらく、蘇我氏の王の()姓と考えられる。また、志毘の恋敵も恋人も両書で全く異なる。『古事記』は天皇が2代目真鳥の白髪、恋敵が袁祁、対象が菟田首の娘の大魚である。

それに対して『日本書紀』は仁賢天皇、恋敵が小長谷若雀、対象が物部麁鹿火大連の娘の影媛である。しかし、『古事記』は白髪の説話なのだから、白髪が即位するときの説話とするほうが理に適う。482年頃、皇太子志毘が、意祁と難波小野王を取り合った可能性が高い。菟田首の名前を記述せず不明だ。しかし、489年に志毘が即位するときに難波小野王が自害した。そして、吉備上道臣は権力者でなくなった。

清寧三年九月壬子朔の「巡省風俗」、十一月辛亥朔の「賜綿帛」は九州の暦である。そして、清寧四年正月庚戌朔の「海表諸蕃使者於朝堂賜物」、九月丙子朔の「海表使者射賜物」も九州の暦だ。蘇我氏は韓子や高麗の名がつけられているように、任那に宮殿、恐らく、多沙城があったと考えられる。そして、「稚日本根子」と若狭を領有していたと考えられる。さらに、吉備上道臣の領地の仲国を侵略して、上道臣を弱体させた。蘇我氏は石井の乱で粕屋を奪って倭王となっている。すなわち、仲国(『梁書』の大漢國)と倭国の中間の文身国王の可能性が高い。

文身国は関門海峡の辺りで、当然、百濟と同盟関係の倭とも同盟関係だろう。海表の使者との交渉は蘇我氏が担ったと考えられる。女国も扶桑国もそれぞれ朝廷なのだから、大漢国、分身国、倭国もそれぞれ朝廷と考えられる。これら九州の暦は、天皇の崩御も含めて、分身国王蘇我氏の可能性が高い。実際の清寧天皇の崩は「冬十一月飯豐青尊崩」だろう。清寧三年正月、弘計王の「持節以王青盖車迎入宮中」で皇太子になったとき、皇位は室屋から飯豐と吉備上道臣に遷ったと考えられる。

2023年9月20日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 清寧天皇1

  清寧天皇は清寧元年庚申春正月戊戌朔壬子「室屋大連平群真鳥大連並如故」と記述された。すなわち、480年、真鳥が大連天皇になった。大長谷若建が「己巳年八月九日崩」と489年に崩じている。しかし、485年、顯宗元年己丑春正月己巳朔に「物部小前宿祢為大連」と顯宗小前大連天皇が即位している。それでも、498年に真鳥が「專擅國政欲王日本」と記述され、2朝の分裂を示している。すなわち、489年から498年までも2代目真鳥が皇位を継承したようだ。それは、480年から498年まで、女王国神の朝廷が女王の国から男王の国に変貌したことを示す。

498年仁賢十一年八月に「大臣平群眞鳥臣專擅國政」と国政を担っていたと記述されている。本来女王が担うべき国政を、真鳥が担ったとの意味だろう。そして、畿内の扶桑国は室屋・目大連が引き続き大連天皇だったが、跡継ぎが無く、小前に皇位を継承した。飯豐郎女が恐らく妃だった可能性が高い。飯豐郎女は「於忍海角刺宮臨朝秉政自稱忍海飯豐青尊」と朝政にあたった。「冬十一月飯豐青尊崩」と清寧天皇が一月に崩じても天皇が交代しなかったのに、飯豐が崩じると皇位継承が起こった。皇后が生存していれば、その親族が皇位を継承して、宮は変わらない。しかし、首都の宮の主が居なくなると、違う宮の皇后と天皇が即位する。

『古事記』には大長谷若建の妃に吉備上道臣の娘の稚姫が入っていない。すなわち、この稚姫は室屋大連の妃と考えられる。葛木氏の神武東征の立役者の一人の娘で、大伴氏の盟友である。すなわち、2代目室屋を巡って、星川皇子と磐城皇子が皇位を争った。星川皇子が破れ、磐城皇子が勝利して2代目室屋を襲名したと考えられる。すなわち、室屋は角刺宮大連天皇の襲名した名のようだ。そして、室屋は飯豐皇女を妃に、小前は磐城皇子の娘の難波小野王を妃にしたと考えられる。しかし、489年に大長谷若建が八月に、難波小野王が九月に「恐宿不敬自死」と同じ頃に薨じた。それは、2代目真鳥と吉備上道臣との間で戦乱があった結果なのではないだろうか。

2023年9月18日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇4

応神四一年にも筑紫國御使君の祖の「蚊屋衣縫」説話があったように、呉衣縫は筑紫で生産されたようだ。丁度雄略期、『日本書紀』を記述しているときに、「今呉衣縫」と記述したその「今」だ。その技術を、これ以降、多くの臣連たちに分散し、全国で絹織物を造ったと述べている。小子部の絹糸生産があっての分散で、扶桑の皮の紙も大量に生産された。「秦」の「はた」も、元々、秦などと書いておらず、「波多」などの表音で、推古朝の頃、秦王国の秦をあてたようだ。『日本書紀』での初出が雄略朝からで、記述したのは推古朝だ。

表意文字は漢字の意味や漢字の使用例を知ったうえで使われる。和迩吉師が持ってきた千字文によって表音、読みは理解できただろう。そして、共に持ってきた論語や『三國志』の内容が記述されるように史書も中国語として読んだと思われる。中国人は志賀高穴穗朝大神八国を大倭国と理解した。それを、泊瀬朝倉朝は大臣の大国と神の朝廷の倭国と理解した。そして、蘇我氏が俀国から粕屋を奪って倭国を建国した。さらに、倭国が秦王国を滅ぼし、天智天皇が倭国朝廷を滅ぼして日本を建国した。それで、日本イコール倭と理解した。すなわち、倭は「や」や「あま」の表意文字にした。これが『日本書紀』崇峻紀までの「倭」字の意味の変遷である。

雄略十四年四月甲午朔の「根使主爲共食者」の説話は377年4月1日の日干支と考えられる。「根使主所著玉縵」は雌鳥皇女から佐伯直阿俄能胡が奪った神の朝廷の王の璽の説話の流用と思われる。根使主は木角宿禰の子、神の朝廷の王の璽を近江山君稚守山の妃が奪った。山君が波多八代宿禰で、秦酒公の祖父だろうか。難波吉士日香香は反正天皇伊莒弗の義父の倭國造の祖の比香賀君と考えられる。日香香など探さなくとも、雄略八年や九年に縁者の赤目子や日鷹が記述されている。

雄略廿三年夏四月の百濟東城王の説話は日本の王の観点と『三国史記』の王の観点の違いを示している。『三国史記』は文周王の後継王がその長子の三斤王と見做している。しかし、『日本書紀』は三斤王が「年十三」で王とは見做さなかった。「拜王弟昆支為臣佐平」と弟の昆攴王が臣佐平となった。そして、文周王死後、「軍國政事一切委於佐平解仇」と日本側から見ると、昆攴王が内臣イコール王と見做した。日本ではこれが常識で、内臣である大臣や大連が天皇だったからと思われる。

2023年9月15日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇3

464年八年春二月の「新羅國背誕苞苴不入」の記事がある。道臣や小子部連、吉備上道臣は倭国との繋がりがあったようだ。『三国史記』慈悲麻立干五年462年「倭人襲破活開城虜人一千而去」、翌年「倭人侵歃良城」とある。倭国が新羅を侵略した。倭国侵略時、雄略九年465年の新羅戦の大敗北は463年の『三国史記』「擊大敗之」記事の可能性がある。この戦いは、3年間の大戦だった可能性がある。今まで、新羅・百濟と同盟関係だった、物部日本の秦に対して、葛木扶桑国は倭と共に親百濟で、新羅と戦ったようだ。

さらに、464年八年春二月の「桧隈民使博徳使於呉國」の記事がある。また、『梁書』に457年宋大明二年の「流通佛法經像敎令出家」という記事がある。すなわち、この時の南朝呉に使者博徳が遣ってきて、仏教の流布を伝えたと思われる。427年薨の大別の邸宅に577年に「安置於難波大別王寺」と像を安置する寺があった。寺を造り始めたのが577年で、この年に大別王の寺では早すぎて奇異である。しかも、「大別王未詳所出也」と、この大別王が詳しく解らないとある。そして、大別王は「自稱爲宰言宰於韓盖古之典乎」と今では使わない「宰」の役職名を使っている。すなわち、古い資料だったことを白状し、427年薨の大別の事と解る。百濟には384年、「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮禮敬焉佛法始於此」と百濟仏教が始まった。457年に既に仏典が流布しているのだから、大別が寺を造っても不思議でない。

身狹村主青が雄略二年、雄略八年「使於呉國」、雄略十二年「出使于呉」が博徳とセットで記述される。また、雄略十年、雄略十四年も呉からの帰国記事で記述される。博徳は斉明・天智朝でも外交を務める壱岐の倭国の襲名した人物のようだ。身狹は蘇我大臣稻目宿禰が「於倭國高市郡置韓人大身狹屯倉高麗人小身狹屯倉」と屯倉を置いた。すなわち、この説話は隋朝以降の倭王蘇我氏の説話と解る。曾都毘古の娘婿の子、朝鮮の多沙城で生まれたと思われる韓子宿禰の姻戚が身狹なのだろう。吉備上道臣田狹もやはり多沙城で生まれた可能性が高い。

蘇我氏は蘇我石河宿祢が大倭国高市県蘇我里で、蘇我氏の子として生まれた。子の満智宿祢が曾都毘古の婿となり、多沙城で、韓子宿祢が生まれたと思われる。蘇我石河宿祢が曾都毘古の義兄弟の立場となって、建内宿禰の子に数えられたのだろう。蘇我石河宿祢は「蘇我臣川辺臣之祖也」で、満智が『日本書紀』履中二年に平群木莵宿禰と共に蘇賀滿智宿禰が出現する。川辺臣の川辺は巨勢川辺宿祢が生まれた「軽里星河辺」の氏族である。その河辺に石河宿祢の子が婿入りして、巨勢川辺宿祢と呼ばれたのではないだろうか。川辺宿祢の義父が建彦借祢で軽の建彦、許勢臣雀部臣輕部臣の祖の小柄宿禰なのではないだろうか。小柄宿禰の子が輕部臣伊刀、兄弟が巨勢の乎利である。

2023年9月13日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇2

  雄略五年の「四月呉國遣使貢獻」は『宋書』孝武帝の「三月壬寅・・・興爲安東將軍」記事の倭の資料だろうか。三月晦()の日干支を変換するとき、四月朔の日干支にしたのだろう。盖鹵王の治世は治世18年472年まで平穏で、日本との関係がよかったのだろう。『百濟新撰』も日本の史書と同様に、盖鹵王の子、文周王の弟の昆攴君なのに、文周王を二代目盖鹵王と見做して、「盖鹵王遣王遣弟昆攴君」と記述している。これを理解すれば、百年以上生きる人物の意味が解る。日本も朝鮮も同じ文化圏なのだから、当然である。

雄略六年の「泊瀬小野」の命名説話も奇妙だ。泊瀬朝倉宮で「遂定宮焉」と宮に決めて即位した。しかし、恐らく現代の泊瀬、隠山と人が居ない泊瀬に、首都のはずの泊瀬の小野と命名している。すなわち、推古朝時の泊瀬と違う場所に首都泊瀬はあったことが解る。地名は人と共に動くのである。「賜姓爲少子部連」説話の三月辛巳朔丁亥の日干支は間違いの日干支である。小子部連は神八井耳が祖で、大臣や火君、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造など、全国の王の祖が始まりだ。すなわち、道臣と共に畿内にやってきた人物、九州の暦と解る。養蚕説話なので、扶桑国の始まりと考えられる。『日本書紀』の安康天皇以前に記述されず、『古事記』に記述される小子部連は雄略以降の資料だ。

『梁書』の扶桑国に「有文字以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮を紙替わりにして、文書が豊富に有ると記述している。扶桑の木を幻の植物としているが、『山海經』では海外東經の「湯谷」記述される。海外東經は三国以北の北陸に相当する地域である。そして、「湯谷」の傍に青丘國が存在し、「衣絲帛」と絹織物を着用していると記述する。「絲」を記述するのは海外北經の東北地方にある「歐絲之野」だけで、中国には存在しない。中国に桑は記述するので、野生の蚕で絹糸を作ったと思われる。日本では「三桑無枝」と枝を切り取って、「女子跪據樹歐絲」と女子が跪いて吐き出した糸を樹に巻いていたようだ。養蚕を、小子部連が人を集めて、多人数を取り仕切ったのだから、扶桑の皮が多く採取できた。それを、『梁書』が記述するように紙替わりにしたのだろう。そして、その紙に『日本書紀』の安康紀まで書き留めた。

その小子部連が七年秋七月甲戌朔丙子に大物代主神の璽を大伴大連天皇に献上した。代主神、大物の事代主神である。そして、曾都毘古の東征の中心人物の道臣や小子部連は神武東征説話とおり、仲国や吉備小国が協力したようだ。吉備でも、仲国も勢力下の上道臣が中心だったようだ。それで、翌月、正式に即位した大伴氏は、吉備小国の宗家の難波王の兄彦の分家の、「國造吉備下道臣山」を排除した。『古事記』では大長谷若建の妃に稚媛は含まれず、大伴大連天皇の妃であることが解る。下道國造は兄彦、吉備臣の祖の御友別の子、応神朝の難波の兄媛の甥である。兄媛は高城入姫と思われる。雄略九年春二月甲子朔の「遣凡河内直香賜與采女」は兄媛の末裔の河内王の説話だ。同族と思われる同地域の難波吉士日香香は日臣香香の意味かもしれない。

2023年9月11日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇1

  元年春三月庚戌朔壬子の「草香幡梭姫皇女爲皇后更名橘姫」とあるように、若日下部は大長谷若建の妃だ。そして、女国王も皇后と同名の橘大郎女で、恐らく同一人物である。嫁や婿も実子に入れたのが『古事記』・『日本書紀』の系図だ。稚足姫(𣑥幡娘姫)が「侍伊勢大神祠」と橘大郎女の後継者となったと思われる。大連天皇は室屋、女王国の皇太子と同等の大長谷若建大臣眞鳥だ。室屋が天皇位を奪取、日向諸縣君を後継し、波多毘能大郎子の子の可能性が高い。大伴氏の祖の道臣と思われる、日向諸縣君は「作大室於忍坂邑」と大室を作り、「道臣命宅地居于築坂邑」と領地となった。この坂は息長氏の領地も坂田で、神の朝廷伊勢、屋主の住む近辺である。

雄略二年「百濟池津媛」の「婬於石河楯」説話は蘇賀石河宿祢の説話と考えられる。石河宿祢の孫が韓子、曾孫が高麗と池津媛の子や孫のような名だ。石河宿祢は履中から雄略まで仕え、朝鮮半島で過ごした曾都毘古の妃の葛比売の家系の人物と考えられる。百濟葢鹵王はこの年、宋から「冠軍將軍」に任命され、新羅や宗主国の日本とも友好関係にと考えていたと思われる。しかし、倭と友好関係の蘇賀氏が邪魔をしたのではないだろうか。百濟と日本との友好を失敗させて、翌年、『三国史記』「倭人以兵船百餘艘襲東邊」と倭が新羅を侵略した。「百濟新撰云己巳年葢鹵王立」記事は、葢鹵王即位が安康二年乙未、己巳年は仁賢二年である。葢鹵王即位は455年、大長谷若建の大臣就位年である。己巳年は大長谷若建の薨年である。従って、この説話は大長谷若建の薨去時の記事の流用と考えられる。

幸御馬瀬命虞人縱獵」は現在の御馬瀬が伊勢神宮にあるように、神の朝廷、伊勢遺跡にあったと思われる。近江來田綿蛟屋野で市邊押磐を殺害した記事で、雄略二年ではなく安康二年の可能性がある。阿閇臣國見が栲幡皇女を陥れた事件は丸迩佐都紀臣深目の計略なのだろう。深目の娘の袁杼比賣は童女君と呼ばれた女王で、春日に居た。雄略四年八月辛卯朔戊申の「行幸吉野宮」は434年の麥入即位の年だ。この吉野宮は御馬瀬の辺りの獵場近辺に在る吉野宮だ。地名は紀里のように、氏族によって持ち運ばれる。伊勢遺跡の傍、野洲に吉地神社、旧名日吉悪王寺社があり、大津には日吉大社、吉の地名があったようだ。

雄略四年の「一事主神」説話は大長谷若建が王位に就いて四年目の雄略元年457年の説話と考えられる。大長谷若建が大臣に就位して、事代の神、圓大臣の神から引き継いだ宣言なのだろう。葛木氏から平群氏に大臣の姓を取り戻した宣言で、それに続く雄略二年の吉野幸に続く。しかし、挿入場所が違ったため、大前大臣の吉野幸記事を続けたようだ。

2023年9月8日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期3

大伴大連を、私は大日下の義父の日向諸縣君の孫と考えた。大伴氏は日臣、日向諸縣君の日向は高千穂宮から日向の名と共に諸縣に持って行った日臣と考えた。そして、もう一人よくわからない人物の物部目が存在する。系図では清寧・継體・欽明の大連である。ところが、史書部分では、欽明時に大臣、雄略時は「大伴連室屋物部連因為大連」と表記が異様だ。普通「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」、「大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連」のように共に「為大連」か「並びに」を付加する。

しかも、『日本書紀』も清寧の大連は室屋、継體は金村と麁鹿火、欽明は金村と尾輿である。目大連を全く記述しない。すなわち、物部目は大伴氏の可能性が高く、物部目の妃を記述しない。史書に記述されているから書かなかったのではないだろうか。そして、大臣大長谷若建は489年己巳八月九日に崩じた。大長谷若建は丸迩の佐都紀臣の娘の袁杼比賣を妃にしている。大長谷若建の後継者は袁本杼で、袁杼比賣と同地域の人物と思われる。

 『紀氏家牒』「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢」と巨勢氏は軽部の王だ。従って、軽部が木梨輕の為に定められたのだから、木梨輕もしくは輕大郎女の縁者だ。男浅津間若子大前大臣は木梨輕を守って薨じ、麥入の義父として、大連天皇を兼務した。その大前大連天皇が定めた軽部の宿祢が巨勢氏なのだから、大前の子と思われる。軽部宿祢が住む軽里星河辺の上流、川上の春日に袁本杼や袁杼比賣がいたと思われる。袁杼比賣の父の佐都紀臣は圓大臣の姻戚と思われる許碁登臣の子と思われる。

 『紀氏家牒』には紀伊国造莵道彦の娘の山下影媛の子の紀武内宿祢の妃が記述されている。角宿祢の母の紀伊国造宇豆彦道彦男の娘の宇乃媛と襲津彦宿祢の母の葛城国造荒田彦の娘の葛比売だ。すなわち、『紀氏家牒』は比古布都押之信と紀伊国造の家系の角宿祢と尾張氏竟富那毘の家系の味師内・襲津彦宿禰の家系を記述した。その他の平群氏、平群木兎宿祢は角宿祢の義兄弟と考えられる。すなわち、平群木兎宿祢は宇乃媛の姉弟と考えられる。従って、母を記述しない、波多八代、許勢小柄、蘇賀石河、若子の宿禰達はそれらの姻戚の王達と考えられる。たとえば、男浅津間若子宿祢が若子宿禰、妻の忍坂大中比賣が宇乃媛の孫に当たるのだろう。そして、紀伊国造は丸迩臣で宇乃媛の家系、許勢小柄が姉弟と考えられる。もし、本当の武内宿祢の子達なら、活躍年代の矛盾、『紀氏家牒』の記述の矛盾が奇異である。

2023年9月6日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期2

大長谷若建は489年己巳八月九日に崩じている。そして、480年、清寧元年庚申春正月戊戌朔壬子に、「室屋大連平群真鳥大連」とある。さらに、485年顯宗元年己丑春正月己巳朔、「物部小前宿祢為大連」とある。すなわち、480年から真鳥と室屋が天皇だった。『古事記』の白髪の役職名は大倭根子、天皇の役職名で、それ以外不要である。そして、白髪に崩御年が『古事記』に記述されていない。大長谷若建の薨が489年で白髪大倭根子の時代を内包している。女国の王は女王で、大臣はNo.2だ。しかし、真鳥の妃の草香幡梭姫橘大郎女女王の後継の春日大郎女が成人していなかったようだ。それで、真鳥が480年から、女王国、神の朝廷の大連天皇(大倭根子)に即位した。

『日本書紀』は清寧天皇を白髮武廣國押稚日本根子と記述している。『日本書紀』を記述した人物は、巨勢氏か蘇我氏の王の名を白髪(天皇)に武廣國押稚日本根子と記述したと考えられる。もしかしたら、稚日本根子が巨勢氏、武廣國押が蘇我氏かもしれない。許勢小柄宿禰は、許勢臣、雀部臣、輕部臣の祖である。巨勢氏の母系は玉勝山代根古が「雀部連軽部造蘇冝部首等祖」とあるように、山代王の系統だ。そして、武内大臣の兄、実際は祖先の味師内宿禰は山代内臣の祖で、山代根古の祖と考えられる。雀部臣の祖が神八井耳、意富臣の祖でもある。武内大臣が山背國紀郡の宇豆彦の娘を妃にした。その子の中に、蘇賀氏や、雀部臣や軽部臣の祖の巨勢小柄が存在してよくあう。

すなわち、大長谷若建は457年丁酉春三月庚戌朔壬子に「平群真鳥臣為大臣」と大臣に就位した。そして、480年、庚申春正月戊戌朔壬子に、「室屋大連平群真鳥大連」と、扶桑国と女国に大連天皇が並立した。458年から扶桑国天皇だった大伴連室屋に対し、実質大臣がNo1の女国の大臣が天皇を名乗った。大長谷若建が大臣、さらに、大連天皇を継承したのは、麥入・大日下の妹の若日下部を妃にできたからである。そして、女国の王位継承者の丸迩臣佐都紀の娘を妃に女国の皇位を継承したようだ。

2023年9月4日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期1

長谷朝倉宮雄略天皇に物部氏の大連は存在しない。『舊事本紀』に478年、雄略二十二年正月己酉朔に「物部布都久留連公為大連」と大連になった。しかし、480年には室屋大連と真鳥大連に交代している。その事件と思われるのは、雄略天皇が病に伏せると、「星川得志共治家國」と吉備上道臣と星川王が皇位を奪取した。すなわち「大藏之官」を取ることが皇位に就くことだったと思われる。「大藏之官」を取ったのが478年だ。

『古事記』に記述されない、吉備上道臣の娘の稚姫は大長谷若建の妃ではない。清寧天皇は白髪大倭根子とあるように、平群氏が天皇である。大倭根子は葛木氏の天皇の呼称なのだから。従って、布都久留の妃の太姫は吉備上道臣の娘の可能性が高い。小前大連は大連から大宿祢と大国王になっていて、太姫は大姫と考えられる。それでは、長谷朝倉宮大連天皇は誰かというと、『舊事本紀』は雄略二年丁酉春三月庚戌朔壬子の記事がある。この日干支は雄略元年の年干支と日干支で実質安康3年が元年だったのだろう。

そして、『舊事本紀』は「平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連因為大連」のように、室屋と因という不明な人物を記述する。因を目と解釈している。しかし、目は磐余甕栗宮大連・継体朝大連と記述している。従って、実態は大伴連室屋が天皇である。大伴氏は「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣」に天降った天忍日の末裔だ。大伴氏が天皇で、『日本書紀』を記述したのだから、当然である。そして、神武東征の時、すでに、日臣と賜姓され、高千穂宮から宇佐へ侵略した人物だ。神武東征説話は中臣、日臣、和珥君が宇佐や安芸に侵略した説話だった。

大伴氏は日臣・道臣の末裔である。大伴氏の初出は倭建に協力した説話だ。そして、大伴連賜姓後の人物は大伴武以連、この人物は大臣賜姓より前の武内宿禰と共に記述される。倭建は熊襲建から名を貰った。曾都毘古の名も日向髪長太田根の子の日向襲津彦から貰ったと思われる。武内宿禰大臣賜姓が350年、それ以前に、曾都毘古が日向氏に婿入りしたのならよく合致する。そして、その日向氏が日臣の日向君と考えられる。日向諸縣君の娘の髪長比賣は大長谷若建の妃の長日比賣の母だ。大長谷若建は平群真鳥大臣、女国王は、おそらく、妹の橘大郎女と考えられる。女国は『梁書』に滅びた記述がないので、女国は継続したので、大郎女が女国王の呼称のようだ。

2023年9月1日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安康天皇

  『古事記』は意乎巳(大臣)家の史書と解った。穴穂はいつ崩じたか『古事記』は記述しない。それは、大臣家の傍流だからと考えられる。『舊事本紀』に安康天皇元年十二月己巳朔、「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」とある。木蓮子は「天孫本紀」に「物部木蓮子大連公此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」と仁賢天皇大連である。そして、478年、雄略二十二年正月己酉朔、「物部布都久留連公為大連」まで物部氏は大連天皇が空白である。ただし、『舊事本紀』「天孫本紀」は「大前宿祢連公此連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連」と記述する。すなわち、453年正月に大日下麥入大連が崩じた後、大前が大連天皇に即位し、穴穂に殺害された。それは、木梨之輕と輕大娘の子の皇位継承者の2代目木梨之輕太子が20歳前で即位できなかったからと思われる。それで、男浅津間若子大前大臣が大連になったと思われる。

しかし、454年正月に穴穂が二人を殺害し、大日下の皇后の長田大郎女を奪って、皇位に就いたと記述する。しかし、大連の継承者の目弱王は太子にもなれない年齢、長田大郎女は女国王で、畿内の天皇継承権が無い。大臣は大前の甥の市辺押磐が圓を継承したと思われる。市辺押磐が石上神宮を祀る木蓮子で、石上宮の物部氏の宮主を、物部氏は木蓮子大連と呼んだと思われる。それは、物部氏は「大夫者今大連大臣」と大臣も大連も同等と考えていたからと思われる。それで、後継者がいない時期は飯豐郎女が石上宮主を引き継いだ。

大連は大前なのに、木蓮子と記述され、478年大連は布都久留、785年大連が木蓮子と記述される。おそらく、穴穂宮が石上にあったから木蓮子、布都久留は市辺押磐子の義兄弟と考えられる。穴穂のクーデタは、大長谷若建が天皇の大日下の妹の若日下部王を妃にしようとしたことによると思われる。葛木氏をバックにした長田大郎女と、日向諸縣君をバックにした若日下部王の反目である。

それで、女国王は長田大郎女、No2の大臣は市辺押磐圓大臣である。若日下部王を要求した根使主は坂本臣の祖で、紀伊国造宇豆彦の国の山背國紀郡の出身だ。山背から平群県紀里に遷って平群木兎宿祢が生まれた。紀伊国造、当然、山背木国造は丸迩臣で、丸迩臣の許碁登の娘が水歯別の妃の都怒郎女だ。『紀氏家牒』に「紀伊国造宇豆彦道彦男也女宇乃媛」の子が角宿祢、水歯別が婿の角宿祢だろうか。角宿祢の子と思われる根使主は若日下部王の婚姻を邪魔し、義兄弟、都夫良郎女の夫と思われる圓と同じ側である。ただし、根使主は結果的に、大日下を滅ぼし、若日下部王を得て、平群氏の本家だったので許されたようだ。