2022年6月29日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』景行天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀』は続けて「景行天皇諱日本大足彦忍代別尊者活目入彦五十狹茅天皇第三太子也母曰皇后葉洲媛命丹波道主王之女也元年歳次辛未秋七月皇太子尊即天皇位尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈太皇太后二年二月播磨稻日太郎姬立為皇后誕生三男第一大碓命次小碓命次稚根子命矣其一二皇子日同腹雙生天皇異之則誥於碓故曰大碓小碓尊幼有雄(?)之氣及壯容貌魁律身長一丈力能扛鼎焉四年天皇幸美濃國左右奏言此國有佳人日弟媛容姿端正八坂入彦皇子之女也天皇欲入爲幸弟媛家聞乗輿車駕則隠竹林矣天皇權令弟媛至而居于浗宮鯉魚浮池臨視而戲時弟媛欲見鯉遊密來臨池天皇遇之矣弟媛以為夫婦之道古今達則也然於吾而不便則請天皇曰妾性不欲交接之道今不勝皇命之威暫納帷幕之中然意(?)不快亦形姿穢陋久之不堪陪於掖庭唯有妾妹名日八坂入媛容姿美麗志亦貞潔冝納後宮天皇聴之仍喚八坂入彦媛為妃生男七女六女皇子第一稚足彦次五百城入彦次丒足別次稚倭根子 次大酢別次五十狹城入彦次吉備兄彦次淳熨斗姫次淳名城姫次五百城入姫次麛依姫次高城入媛次弟姫次妃三尾氏磐城別之妹水齒郎媛生五百野皇女次妃五十河媛生神櫛皇子次稲背入彦皇子次妃阿倍氏高田媛生武國疑別皇子次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子次妃襲武媛生國乳別皇子與國疑別皇子次國背別皇子亦名宮道皇子次豐戸皇子次妃佳人日御刀媛生豐國別皇子」、【景行天皇の諱は日本大足彦忍代別で活目入彦五十狹茅天皇の第三子で母は皇后日葉洲媛で丹波道主王の娘だ。元年辛未年の秋七月、皇太子は天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后と言い、皇太后を尊んで大皇太后を追号した。二年の二月、播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后は、三人の皇子を生み、第一子が大碓、次が小碓、次が稚根子だ。その大碓と小碓は、同腹の双子として生まれた。天皇はこれをいぶかって、碓に向かって叫んだので、二人の皇子を大碓・小碓と言う。小碓は幼いときから雄々しい性格で壮年になると、容貌はすぐれて逞しかった。身長は一丈、力は鼎を持ち上げられるほどであった。四年、天皇は美濃国に行った。側近の者が「この国に、美人がいます。弟媛といい、容姿端麗で八坂入彦皇子の娘です」と言った。天皇は、妃にしようと思い、弟媛の家に行った。弟媛は天皇が来たと聞いて、竹林に隠れた。天皇は、弟媛を引き出そうと計って、泳宮にいて、鯉を池に放って、見て遊んだ。あるとき、弟媛はその鯉が遊ぶのを見ようと思って、ひそかにきて池を見た。天皇はそれを引きとめて召した。弟媛は、夫婦の道は昔も今もずっとおこなわれるものであるが、自分には無用と考えた。そこで、天皇に「私は交接を望みません。いま、恐れ多い言葉のため、大殿の中に召されたが、心の中は快くない。また、私の顔も美しくなく、長く後宮にお仕えすることはできません。ただ、私には姉がいて、名を八坂入媛といい、美人で志も貞潔です。どうぞ後宮に召し入れてください」と申し出たため、天皇はこれを許し、八坂入媛を妃とした。八坂入媛は七男六女を生んだ。(以下略)】と訳した。

『日本書紀』もほぼ同じだが、『日本書紀』は『舊事本紀』に無い武内宿禰の出生を記述し、「三年春二月朔」は1月30日で九州の王朝の記録と考えられ、「娶紀直遠祖菟道彦之女」と春日宮天皇以前の内容が記述され、本来は朔の日干支から孝元天皇7年か開化44年の説話で、恐らく、開化44年の伊香色男統治3年の説話の可能性がある。

そして、八坂入媛を妃にしたのは、恐らく木國造荒河刀弁の孫豊城入彦か曽孫の意富多牟和氣で、荒河刀弁は武内宿禰の義兄弟の可能性があり、荒河刀弁は襲名した建諸隅の可能性がある。

丹波比古多多須美知能宇斯王・弟彦と水之穗眞若・豊城入彦、義父荒河刀弁とが皇位を争って水之穗眞若王が負けて、別朝廷を開いたようだ。

分王朝は建諸隅の娘婿の豊城入彦、同じく娘婿の大新河、妹大海姫の子の八坂入彦、これは恐らく同じく建諸隅の妹の子の山代之大筒木眞若王の子が八坂入彦其の人で、豊城入彦の妹豊鋤姫は「妹豊鋤比賣命者拝祭伊勢大神之宮也」と伊勢大神を祀り、八坂は「八坂彦命伊勢神麻績連等祖」と伊勢遺跡の地の王で、山代之大筒木眞若王の孫は息長を名乗り、「息長地名在近江國坂田郡」のように、伊勢の八坂の坂と関係が有りそうだ。

2022年6月27日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書15 氏族2

  前項では淡海・野洲王の系譜を検証したが、さらに興味深い氏族が、但遲麻國造で『舊事本紀』「六世孫建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等祖」、「和迩臣遠祖姥津命之妹姥津姫生彦坐王・・・次彦坐王當麻坂上君等祖」、「但遲麻國造・・・彦坐王五世孫」とあるように、但遲麻國造は尾張氏建田背の系譜で坐王も尾張氏である。

そして、『古事記』「山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母丹波能阿治佐波毗賣生子迦迩米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王此王娶葛城之高額比賣生子息長帯比賣命次虚空津比賣命次息長日子王息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王此者多遅摩國造之祖也」、『舊事本紀』「但遲麻國造彦坐王五世孫舩穗足定賜國造」と、大箇木真若が坐王の子、迦迩米雷が孫、息長宿祢が3世の孫、大多牟坂が4世の孫、舩穗足が5世の孫となる。

前項で、景行天皇意富多牟和氣の子が志賀髙穴穗天皇大陀牟夜別で大陀牟の名の系譜の始めと述べたが、すると、息長宿祢の妃河俣稻依毗賣が景行天皇の姻戚と解り、『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」とあるように、倭建の子の稲依別王と似た名の河俣稻依毗賣も倭建の娘か孫の可能性が高い。

さらに、淡海志賀髙穴穗天皇大陀牟夜別の妃は『古事記』「穂積臣等之祖建忍山垂根之女名弟財郎女生御子和訶奴氣王」と穂積臣の祖の娘で、『古事記』以外記述されないが、『舊事本紀』のみに記述される人物の皇妃の物部五十琴姫が存在し、すなわち、複数の宮の天皇、皇子がいない宮の天皇と和訶奴氣王が生まれた宮の天皇、物部氏を妃にして五十功彦が生まれたた宮の天皇が存在する。

五十琴姫が皇后の天皇の他の一つの朝廷は、淡海志賀髙穴穗天皇で太子が生まれず、倭建の子が即位した天皇、また、五十琴姫皇后の義兄弟が物部多遅麻で、五十琴彦の娘の安媛との子が宮主山無媛、太子の莵道稚郎の母である天皇で、五十琴姫皇后の朝廷を多遅麻が簒奪した。

そして、『古事記』「大帯日子游斯呂和気・・・娶倭建命之曽孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣」と師木玉垣天皇の娘の布多遅比賣を妃にする倭武の曽孫の子の訶具漏比賣を纏向日代天皇が妃にする矛盾した記述をするが、倭武が襲名された名とすると、全く矛盾にあたらない。

和珥臣の系譜で尾張氏と物部氏を繋いだ建諸隅と武諸隅も、建諸隅は『舊事本紀』「紀伊國造智名曽妹中名草姫」と紀伊國造の妹の子で、『古事記』「娶木國造名荒河刀弁之女遠津年魚目々微比賣生御子豊木入日子」と豊城入彦の祖父も木國造、『舊事本紀』「弟大新河・・・紀伊荒川戸俾女中日女爲妻」「武諸遇連公新河大連之子」と木國造荒川戸俾の娘の子が武諸隅で、木國造を介して尾張氏建諸隅と物部氏武諸隅とが繋がって襲名された。

武諸隅は磯城瑞籬宮天皇六十年に出雲の神寶を検定して大連になっていて、父の大新河は纏向珠城宮天皇の時に物部連賜姓と矛盾しているが、大新河の妃が荒川戸俾の娘で、磯城瑞籬宮天皇の妃も荒川戸俾の娘なので、大新河は磯城瑞籬宮天皇の賜姓となり、その子の武諸隅の娘が纏向珠城宮天皇の時に賜姓された十市根の妃になって整合する。

すなわち、纏向珠城宮天皇は師木玉垣宮天皇で、師木宮六十年賜姓を纏向珠城宮と間違えた、時代の違う二人の伊香色雄を同じと考えて発生した間違いと考えられる。

これまで、述べたように、史書は一人の武諸遇が父・子・孫の三代若しくは祖父を入れた四代を一人と考えていて、建諸隅と武諸隅で一代20年と考えると最低でも160年間程度が建諸隅と武諸隅の活躍年代と思われ、この人物を一纏めにしたのが倭武()、この倭は天・八国で、荒川戸俾の娘の姉妹を娶った義兄弟の初代の武諸隅の大新河の兄弟の磯城天皇の皇太子の十市根が初代建諸隅の曽孫・皇弟の子の訶具漏比賣を娶れば全く矛盾とならない。

2022年6月24日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書14 氏族1

  前項では、物部氏と和珥臣の関係を述べたが、その他にも興味深い氏族が存在し、その氏族の1つが、上毛野君である。

上毛野君の始祖は『日本書紀』「豐城命令治東國是上毛野君下毛野君之始祖也」と豐城だが、豐城は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛」とあるように、遠津氏の子でもあり、遠津氏は『古事記』の須佐之男と稻田宮主の娘との子の八島士奴美、すなわち、周饒國の皇子と君子国の姫の子の八国王から17世続く神の最後の天狹霧の子の遠津山岬帶の子孫と考えられ、八国の王家のようだ。

それは、豐城の孫が『舊事本紀』「能等國造志賀髙穴穗朝御世活目帝皇子大入來命孫彦狹嶋命定賜國造」・「上毛野國造瑞籬朝皇子豊城入彦命孫彦狹嶋命初治平」、『日本書紀』「以彦狹嶋王拜東山道十五國都督」とあるように、狹霧の領地の狹嶋・若狭を含む能登など15国を領有して、狭嶋は淡道御井宮天皇の和知都美の娘の蝿伊呂杼の子も狹嶋で海直の祖と淡海の王で、すなわち、和知都美は遠津氏の姫を妃にして蝿伊呂杼を生んだと考えられ、和知都美は襲名した近淡海國造の祖の天押帶日子・天忍人である。

以前、倭迹迹姫と少彦建猪心の『古事記』と『日本書紀』の違いから倭迹迹稚屋姫と彦太忍信の子が屋主忍男武雄心と推理したが、その推理から、遠津氏の八国王家を和知都美が継承し、和知都美の娘の絚某姉の子の倭迹迹稚屋姫、その子の屋主忍男武雄心、すなわち、襲名した彦太忍信と考えられる。

同様に、『古事記』「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢」、『 舊事本紀 』「倭得玉彦命亦云市大稲日」と彦太忍信の妃が尾張連の祖の大稲日・倭得玉彦の妹なのだから、彦太忍信の妹が大稲日の妃も有り得て、それが、近淡海の天之御影・倭迹迹稚屋姫の娘の息長水依・淡海國谷上刀婢と考えられ、その子が安直の祖の水之穗眞若、また、荒河刀辨の娘は大新河にも嫁ぎ、子が武諸遇で、大稲日の父が建諸隅・荒河刀辨で、建諸隅・武諸遇の接点となって襲名されている。

ところが、大稲日・坐王と弟袁祁都比賣の子の山代之大筒木眞若の子の迦迩米雷は息長氏とつながらないが、遠津臣の娘との子が息長宿禰と息長氏を名のり、遠津臣の氏が息長と解り、息長水依・水之穗眞若(豐城)・娘高材比賣・息長宿禰と受け継がれたと考えられる。

彦狹嶋の祖父は豊城と大入來で、大入來は『舊事本紀』では「活目帝皇子大入來命」と活目帝の皇子とあるが、『古事記』に「師木水垣宮治天下也此天皇・・・生御子大入杵」とあるように、崇神の子で、『日本書紀』に記述されず、どちらにしても矛盾しているが、垂仁朝の纏向朝廷と師木玉垣朝廷に起因していると考えられる。

恐らく、大入杵の娘が豐城の子の意富多牟和氣の妃になって、その子が彦狹嶋と考えられ、そうすると、豐城と迦迩米雷が同世代なので、「妹豊鋤比賣命者拝祭伊勢大神之宮」と淡海の伊勢にいて、豊鋤比賣が高材比賣と考えられ、迦迩米雷は大入杵の兄弟、八国の坂の王と思われる八坂之入日子の可能性が高い。

『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」、「伊玖米天皇之女布多遅能伊理毗賣命生御子帯中津日子命」、『日本書紀』「兩道入姫皇女爲妃生稻依別王次足仲彦天皇」、「母皇后曰兩道入姫命活目入彦五十狹茅天皇之女」と地位に矛盾があるが、布多遅比賣の父は纏向珠城天皇ではなく師木玉垣天皇で、孫が近淡海の志賀高穴穗宮天皇、「淡海國造志賀髙穴穗朝御世彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と淡海朝廷の淡海王すなわち天皇の大陀牟夜別で、坐王三世孫、すなわち、坐王、子水之穗眞若・豊城、2世孫師木天皇の意富多牟和氣・師木登美豊朝倉曙立王、3世孫大陀牟夜別で、師木天皇水之穗眞若と纏向天皇弟彦が分裂し、八坂入比賣の子の大陀牟夜別が遷都し八坂入比賣の兄弟の息長宿祢に政権が遷って、彦狹嶋が上毛野君となった。


2022年6月22日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書13

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「八世孫物部武諸遇連公新河大連之子此連公磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔群臣日武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命使分明檢定獻奉覆命之時乃爲大連奉齋神宮物部膽咋宿祢女清媛爲妻生一男弟物部大小市連公小市直等祖弟物部大小木連公狹夜部直久奴直等祖弟物部大母隅連公矢集連等祖巳上三連公志賀髙穴穗宮御宇天皇御世並爲侍臣供奉孫物部膽咋宿禰 十市根大連之子此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣市師宿祢祢穴大足(?)女比咩古命爲妻三兒又阿努建部君祖大玉命女鴨姬爲妾生一兒三川穂國造美巳止真妹伊佐姫爲妾生一兒宇太笠間連祖大(?)命女止巳呂姫爲妾生一兒弟物部止志奈連公杭田連等祖弟物部片堅石連公駿河國造等祖弟物部印岐美連公志紀縣主遠江國造久努真佐夜直等祖弟物部金弓連公田井連佐比連等祖巳上四連公同朝御世並爲侍臣供奉九世孫物部多遅麻連公武神諸遇大連之子此連公纏向日代宮御宇天皇御世拜爲大連奉齋神宮物部五十琴彦連公女安媛爲妻生五兒孫物部五十琴宿祢連公膽咋宿祢之子此連公磐余稚櫻宮御宇神功皇后攝政御世元為大連次為宿祢奉齋神宮物部多遅麻大連女香兒媛為妻生三兒妹物部五十琴姫命此命纏向日代宮御宇天皇御世立為皇妃誕生一兒即五十功彦命是也弟物部五十琴彦連公此連公物部竹古連公女弟媛為妻生二兒弟物部竺志連公奄智蘰連等祖弟物部竹古連公藤原垣見君長田川合君三川蘰連等祖弟物部椋垣連公域蘰連比尼蘰連等祖已上三人同朝御世並為侍臣供奉十世孫物部印葉連公多遅麻大連之子此連公輕嶋豐明宮御宇天皇御世拜為大連奉齋神宮姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后弟物部伊与連公弟物部小神連公已上二人同朝御世並為侍臣供奉弟物部大別連公此連公難波高津宮御宇天皇御世詔為侍臣奉齋神宮輕嶋豐明宮御宇天皇太子莵道稚郎子同覆妹矢田皇女難波高津宮御宇天皇立為皇后而不生皇子之時詔侍臣大別連公為皇子代后號為氏使為氏造改賜矢田部連公姓孫物部伊莒弗連公五十琴宿祢之子此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮倭國造祖比香賀君女玉彦媛為妻生二兒娣岡陋媛為妾生二兒弟物部麥入宿祢連公此連公遠飛鳥宮御宇天皇御世元為大連次為宿祢奉齋神宮物部目古連公女全能媛為妻生四兒弟物部石持連公佐為連等祖孫物部目古連公田井連等祖五十琴彦之子弟物部牧古連公伏比伏連等祖」、【・・・物部山無媛連公は、軽嶋豊明宮で天下を治めた天皇の皇妃となり、太子・莵道稚郎子皇子矢田皇女雌鳥皇女をお生んだ。その矢田皇女は、難波高津宮で天下を治めた天皇の皇后となった。・・・天皇の太子である莵道稚郎子皇子の同母妹・矢田皇女は、難波高津宮で天下を治めた天皇の皇后になったが、皇子は生まれなかった。このとき、侍臣の大別連公に詔して、御子代を設けさせた。皇后の名をウヂの名とし、大別連公を氏造として、改めて矢田部連公の姓を賜った。・・・】と系図以外を訳した。

前項で『日本書紀』の志紀縣主の襲名した葉江の天忍人から建諸隅・武諸遇を接点に和珥臣の祖が多遅麻に引き継がれたと述べたが、志紀縣主は『古事記』では志紀縣主の祖と記述され、最初の志紀縣主と記述されるのは雄略朝の志紀大縣主で、すなわち、葛城氏の神武天皇の襲津彦が東侵した390年頃の天皇大中彦が志紀大縣主である。

この志紀縣主の祖は、十市根の兄弟の建新川、十市根の子の印岐美が継承し、志紀が首都の時の志紀縣主は天皇で、志紀から纏向に遷都するまで建新川や印岐美が『古事記』の首都の師木の志紀縣主の地位を得たことを示し、十市根は神宝を司った。

それで、皇位は十市根、膽咋、五十琴宿祢と継承され、多遅麻が娘を五十琴宿祢に嫁がせて皇位を継承したが、 五十琴彦も娘が多遅麻の妃となって、印葉に後継者が居なかったと思われ、五十琴彦の子の目古が皇位を継承したと考えられる。

また、記紀に出現しない景行天皇妃の五十琴姫は纏向王朝の妃の大中姫、すなわち、五十琴宿祢が大中彦で、十市根、膽咋、五十琴宿祢、麥入、大前小前の家系が大中彦である。

2022年6月20日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書12

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「七世孫建膽心大(?)命此命磯城瑞籬宮御宇天皇御世姫為大(?)供奉弟多辨宿祢命宇治部連交野連等祖此命同天皇御世爲宿祢供奉弟安毛建美命六人部連等祖此命同天皇御世爲侍臣供奉弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時紀伊荒川戸俾女中日女爲妻生四男弟十市根命此命纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五大夫一次為大連奉齋神宮勑物部十市根大連曰屢遣使者於出雲國雖撿校其國神財而無分明奏言者汝親行于出雲國冝檢校定則十市根大連挍定神財分明奏言矣仍令掌神寶者同天皇御世五十瓊敷入彦皇子命於河内國幸乃河上宮作大刀千口名曰赤花伴亦云裸伴剱今藏在石上神寶此後詔皇子命俾主石上神寶矣同天皇御世即經八十七年五十瓊敷倉皇子命謂妹大中姬命日我老也不能掌神財自今已後必汝主焉大中姬命辞曰吾手弱女人也何能登天神庫耶五十瓊敷入々彦命曰神庫雖高我能為神庫造梯豈煩登庫乎故諺曰天之神庫隨樹梯之緣也然遂大中姬命遂授物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也物部武諸遇連公女子時(?)爲妻生五男弟建新川命倭志紀縣主等祖弟大咩布命若湯坐連等祖此二命同天皇之御世並為侍臣供奉」 、【弟大新河命は、纏向珠城宮で天下を治た天皇の世、大臣となり、ついで物部連公の姓をもらい、改めて大連となって、神宮を祀った。大連の号は、このとき初めて起こった。<・・・略・・・>十市根は、纏向珠城宮で天下を治めた天皇の世に、物部連の姓をもらい、はじめ五大夫の一人、ついで大連となって、神宮を祀った。十市根に、天皇は「たびたび使者を出雲国に派遣して、その国の神宝をあらためさせたが、はっきりとした報告をする者がいない。お前が出雲国に行って、調べて来なさい。」と言った。十市根は、神宝を調べて報告したため、神宝のことをつかさどることになった。五十瓊敷入彦は河内国の幸の河上宮で、剣千口を作らせ名づけて、赤花の伴といい、または裸伴の剣という。現在は石上神宮にある神宝である。この後、五十瓊敷入彦に言って、石上神宮の神宝をつかさどらせて八十七年を経たとき、五十瓊敷入彦が、妹の大中姫に「私は老いたから、神宝を掌ることができない。これからはお前がやれ」と言ったが、大中姫命は辞退して「私はかよわい女だ。どうして神宝を収める高い神庫に登れるか」と言った。五十瓊敷入彦は「神庫が高いといっても、私が神庫用に梯子を作るから、登るのが難しいことはない」と言った。ことわざにもいう“天の神庫ははしだてのままに”というのは、このことが元である。その後、ついに大中姫は物部十市根大連に授けて、石上の神宝を治めさせた。物部氏が石上の神宝をつかさどるのは、これがその起源である。・・・以下略】 と系図以外を訳した。

武諸隅は『舊事本紀』では伊香色雄の子の十市根の兄弟で大新河の子なのに、十市根が垂仁天皇の大連、武諸遇は崇神天皇の大連、十市根の妃が武諸遇の娘の時姫で、武諸隅は義父となり、2代の齟齬があるが、武諸隅は十市根の子の膽咋宿祢の娘清媛を妃にしていて、膽咋宿祢と同世代より次の世代に近い人物となり、武諸隅は、少なくとも4代の襲名があったとわかる。

ところが、十市根の神宝の検分が垂仁87年、武諸隅の検分が崇神60年で、この90年を超える間隔は4世代程度の差では理に適わず、恐らく、崇神60年の武諸隅は物部の襲名武諸隅ではなく尾張の襲名建諸隅で、建諸隅が君子国の天皇の璽を得て朝廷を開き、垂仁天皇の首都が『古事記』では師木、『日本書紀』では纏向と異なる原因で、実際の活目と豐城の及び建諸隅の皇位の相続争いが起こったのがこの時期と考えられる。

さらに、十市根の義父が武諸隅で大新河の子が武諸隅なら、大新河の妻の父の紀伊荒川戸俾が武諸隅と考えられ、豐鍬入彦の妃の父が紀伊荒川戸俾で義兄弟、武諸隅の子の多遅麻は「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、「物部山無媛連・・・為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子」と和珥臣の祖で、和珥臣の祖は「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」、「和珥臣達祖姥津」のように、紀伊荒川戸俾・武諸隅の先祖が天押人で、姥津の妹の子の丹波を攻略した坐王と十市根の父の伊香色雄が同世代、紀伊荒川戸俾と大海姫が同世代、天忍人の子孫の「尾張連之祖意富阿麻比賣」の兄弟が建諸隅で、尾張氏の建諸隅と物部氏の大新河の妃の父の荒川戸俾・武諸隅は全て同一一家の人物と思われる。

2022年6月17日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書11

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「三十年春正月己未朔甲子天皇詔五十瓊敷命大足彦尊曰汝等各言情願之物也兄王諮欲得弓矢弟王諮欲皇位於是天皇詔之曰各冝隨情則以弓矢賜五十瓊敷命仍詔大足彦尊曰汝必継朕位矣三十二年秋七月甲戌朔己卯皇后日葉酢媛命薨三十七年春正月戊寅朔大足彦命立爲皇太子八十一年春二月壬子朔五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連九十九年秋七月戊子朔天皇崩於纏向宮時年百四十歳冬十二月癸卯朔壬子葬於菅原伏見陵(?)正皇子十男三女兄譽津別命鳥取造等祖次五十瓊敷入彦命次日本大足彦忍代別尊次大中姬命次倭姬命天照太神齋祠初起齋宮次稚城瓊入彦命次鐸石別命次膽香足姬命次磐撞別命三尾君等祖次稻別命次池速別命次五十建石別命次五十日足彦命」、【三十年春正月己未が朔の甲子、天皇は五十瓊敷と大足彦に「お前たち、それぞれに欲しいものをいってみよ」と言った。兄は、「弓矢が欲しいです」と、弟は、「天皇の位が欲しいです」と言った。そこで、天皇は「それぞれ望みのままにしよう」と言い、弓矢を五十瓊敷命に与え、大足彦尊には、「お前は必ずわが位を継げ」と言った。三十二年秋七月甲戌が朔の己卯、皇后・日葉酢媛が崩じた。三十七年春正月戊寅が朔、大足彦を皇太子にした。八十一年春二月壬子が朔、五大夫の一人の十市根に、物部連公の姓を与え、大連とした。九十九年秋七月戊子が朔に、天皇は纏向宮で崩じ、百四十歳であった。冬十二月癸卯が朔の壬子、菅原伏見陵に葬った。天皇が生んだ子は、十男三女であった。<・・・以下略・・・>】と訳した。

五十瓊敷と大足彦の皇太子争奪戦は、結果として、五十瓊敷が「五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶」と、天皇の璽の神寶を大中姫に引き継いでいて、大中姫は『古事記』では「大中津日子」と異なっていいて、実際は大中彦に天皇の璽を引き継いだと考えられる。

すなわち、この説話は五十瓊敷と大中()彦の説話で、『古事記』には『日本書紀』に出現しない「須賣伊呂大中日子」が存在し、皇太弟大中彦は説話に対応していて、大中日子の娘の訶具漏比賣は大帶日子の妃で五十瓊敷の妃が大中彦の姉、大中彦の妃が大中姫なら理に適う。

「八十一年春二月壬子」の賜姓は、「廿六年秋八月戊寅朔庚辰天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國」と十千根大連を記述して矛盾しており、二五年「和珥臣遠祖・・・中臣連遠祖・・・物部連遠祖・・・大伴連遠祖」は前5年以降に天皇の親族若しくは中臣氏のように同盟関係から臣下に変わったことを示し、大中彦が仲国を配下にしたのが前5年頃だったことが解り、そして、廿六年の出雲の神寶を、すなわち、君子国の皇位の璽を得て、姓の無い倭志紀彦(天皇)の娘の真鳥姫の子の十千根が皇太弟大中彦となったことを示している。

卅七年春正月戊寅の立太子は、西暦116年から37年後の152年に倭奴国が都を変えた王を記述していると思われ、『三国史記』には121年「十年春夏四月倭人侵東邊」、「十一年夏四月大風東來折木飛瓦至夕而止都人訛言倭兵大來」は倭の来襲に怯えた様子を記述し、123年に「十二年春三月與倭國講和」のように倭と講和し、125年に倭の同盟国百濟は己婁王「四十九年新羅為靺鞨所侵掠移書請兵王遣五將軍救之」と新羅を助け、倭は外交で主導権を握り、同年に倭国は後漢鏡が出土する野方遺跡の近くの室見川に銘板が発見され、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と篆書交じりの銘板を残し、永宮を作り、『後漢書』には邪馬台国に「大倭王」が居たと記述し、「倭國王帥升」と区別している。

脱解尼師今十七年西暦73年「倭人侵木出島」と新羅に倭が侵略し、倭国王帥升が伊都国に造反し、宗像まで勢力圏だった「拘奴國」を畿内政権の大倭王が「拘奴國」を追い出し、さらに、高千穂王朝の伊都国の勢力下だった粕屋に侵略、粕屋が地盤の甕棺を用いない倭が甕棺を使う伊都の勢力下の室見川に侵略し、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂」となったと考えられる。

2022年6月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書10

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「二十三年秋八月丙申朔已亥大新河命為大臣十市根命為五大夫一並宇摩志麻治今裔孫也同月丙申朔丁巳大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連九月丙寅朔丁卯詔群卿曰譽津別王是生年三十鬢鬚八掬猶泣如兒常不言何由矣因有司而議矣冬十月乙丑朔壬申天皇立於大殿前舉津別王子侍之時有鵠鳴度大虛王子仰觀鵠曰是何物耶天皇則知王子見鵠得言而喜之詔左右曰護能捕此鳥獻之於是鳥取造祖天湯河板舉奏曰臣必捕而獻即天皇勑湯河板舉曰汝獻是鳥必敦賞矣湯河板舉遠望鵠飛之方進尋詣出雲而捕獲或日得于但馬國矣十一月甲午朔己未湯河板舉獻鵠也舉津別命弄是鵠遂傳言語是以敦賞湯河板舉則賜姓而号鳥取造亦定鳥取部鳥養部譽津部」、【二十三年秋八月丙申が朔の已亥、大新河を大臣とし、十市根を五大夫の一人とし、ともに宇摩志麻治の子孫である。同月丁巳に、大臣の大新河に物部連の姓を賜った。そうして、大臣を改めて大連とした。九月丙寅が朔の丁卯、天皇は群卿に「誉津別王は三十歳になり、長い髭が伸びるまでになっても、なお子供のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことができないのは何故か。皆で考えよ」と詔勅した。冬十月乙丑が朔の壬申、天皇は大殿の前に立ち、誉津別王子はそのそばにつき従っていた。そのとき、白鳥が大空を飛んでいった。王子は空を仰ぎ白鳥を見て言った。「あれは何物か」と、天皇は、王子が白鳥を見て、口をきいたのを知り喜んだ。側近の者たちに「誰か、この鳥を捕らえて献ぜよ」と命じ、そこで、鳥取造の祖の天湯河板挙が言った。「わたくしが必ず捕らえてきましょう」と、天皇は湯河板挙に「お前がこの鳥を捕らえたら、必ず十分に褒美をやろう」と言った。湯河板挙は、遠く白鳥が飛んでいった方向を追って、出雲まで行き、ついに捕らえた。ある人は「但馬国で捕らえた」ともいう。十一月甲午が朔の己未、湯河板挙は白鳥を献じた。誉津別はこの白鳥をもてあそび、ついに物が言えるようになった。これによって、あつく湯河板挙を褒賞し、姓を授けて、鳥取造と名づけた。また、鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。】と訳した。

五大夫は「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」だが、渟川別は天皇大彦の皇太子、國葺は和珥臣の祖の國意祁都が襲名した和珥臣の祖の建諸隅の中の一人と考えられ、4道侵攻後の勝利宣言の主要メンバーで、建諸隅は大臣で、大新河も大臣、かつ、子が物部武諸遇で、曽孫が和迩臣の祖の「日觸使主之女宮主宅媛」の物部山無媛なので、建諸隅・武諸遇は和迩氏を受け継ぎ野洲王朝を打ち立てたと言う事だ。

大新河・十千根の母が山代縣主祖で、山代は木国造の祖の珍彦の娘婿の比古布都押之信が山代内臣の祖を生み、建諸隅の母も紀伊國造の娘と思われる節名草姫、建諸隅の子の倭得玉彦は2代目大彦と伊香色謎の娘と思われる大伊賀姫・御眞津比賣を妃にし、伊香色謎の兄の伊香色雄は山代縣主祖の娘を妃にして、大新河・十千根の父である。

すなわち、五大夫は大彦天皇のもとに、皇太子と、皇太子と同等の大臣と仲国王と日本海の海の道と瀬戸内の海の道の王達で、大国・倭国・仲国・日本海・瀬戸内の朝廷が成立したことを示したようだ。

『古事記』には旦波大縣主すなわち初代大彦の娘の竹野媛と欝色雄の子の天皇の2代目の大彦天皇の伊香色雄の子の「彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命」と品治部君の祖の比古由牟須美、その子が大筒木垂根、すなわち、武渟川別・比古由牟須美が春日朝の皇位を継承し、誉津別は武渟川別・比古由牟須美と沙本毘賣の子の大筒木垂根と推定できる。

ここで、鬱色謎と欝色雄、 鬱色謎 の子の大彦・由碁理と欝色雄の娘の伊香色謎、竹野比賣と2代目大彦の欝色雄の子の伊香色雄と大綜杵の子の伊香色謎、比古由牟須美と大綜杵の子の伊香色雄が開化天皇と思われるが、坐王はどの開化天皇の子かと言えば、大倭根子の姫の民磯姫の子の阿田賀田須・大諸見足尼の娘の諸見巳姫を妃にした建諸隅が開化天皇と考えられる。

大彦と共に坐王は丹波を攻略したにもかかわらず、五大夫に含まれず、これは、倭得玉彦が実権を握ったため、物部武諸遇・國葺が五大夫になったと考えられ、女系の皇位継承では、家内工業のように、夫も兄弟とその子や孫も一心同体の天皇や王と考えられる。

2022年6月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書9

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又随其后之白喚上美知能宇斯王之女等比婆須比賣命次弟比賣命次歌凝比賣命次圓()野比賣命并四柱然留比婆須比賣命弟比賣命二柱而其弟王二柱者因甚凶醜返送本主於是圓野比賣慚言同兄弟之中以姿醜被還之事聞於隣里是甚慚而到山代國之相樂時取懸樹枝而欲死故号其地謂懸木今云相樂又到弟國之時遂堕峻淵而死故号其地謂堕國今云弟國也又天皇以三宅連等之祖名多遅摩毛理遣常世國令求登岐士玖能迦玖能木實故多遅摩毛理遂到其國採其木實以縵八矛將來之間天皇既崩尓多遅摩毛理分縵矛四竿()獻于太后以縵四縵矛四竿()獻置天皇之御陵戸而擎其木實叫哭以白常世國之登岐士玖能迦玖能木實持参上侍遂叫哭死也其登岐士玖能迦玖能木實者是今橘者也此天皇御年壱佰伍拾参歳御陵在菅原之御立野中也又其太后比婆須比賣命之時定石祝作又定土師部此后者葬狭木之寺間陵也」、【又、后の言うまゝに、美知能宇斯王の娘達、比婆須比賣、次に弟比賣、次に歌凝比賣、次に圓野比賣の四柱を召した。しかし比婆須比賣、弟比賣の二柱を留めて、その弟王二柱は、とても醜くかったので、本国に返し送った。それで圓野比賣は恥じて、「同じ兄弟の中で、姿が醜いので還された事は、近辺に知られるので、甚だ恥となる。」と言って、山代國の相樂に着いた時、樹の枝で首を吊った。それで、そこを懸木といったのを今は相樂という。また弟國に着いた時、とうとう急峻な淵に墮ちて死んだ。それで、そこを墮國と言い、今は弟國と言う。また、天皇は、三宅連の祖の、名は多遲摩毛理を常世の國に派遣して、いつでも香りを放つ実を求めさせた。それで、多遲摩毛理は、遂にその國に到って、その木實を採って縵に八つ、矛を八矛を持ってくる間に、天皇は崩じた。それで多遲摩毛理は、縵を四つ、矛を四矛分けて、大后に献上し、縵を四縵、矛を四矛天皇の陵の戸に献じて、その木實を捧げて、叫んで「常世の國のいつでも香りを放つ実を持って参上した。」と言って、とうとう叫び哭いて死んだ。そのいつでも香りを放つ実は、今の橘だ。この天皇の年は、153歳だった。陵は菅原の御立野の中に在り、大后の比婆須比賣の時、石祝作を定めて、また、土師部を定めた。この后は、狹木の寺間の陵に葬った。】と訳した。

私は常世の国が済州島と主張しているが、それは多遲摩毛理が持って来た橘が日本固有種と異なる種で、そのような種は高麗橘のみが日本の萩に自生しているので結論付けた。

もし、他の種が現れたら再検証すれば良く、また、高麗橘であれば、少なくとも、この説話の国は萩から但馬を領有した、畿内の暦を使う王の説話であることが証明される。

私の古代史研究の基本が、「中国文献は天文学的朔が正確なので正しい、『日本書紀』は中国文献の挿入年代が正しい、『日本書紀』は天文学的朔が正しいものと間違いのものがある、間違いは中国文献の朔の日が晦日から朔日に変化した影響によると考えられ、間違いの日干支は燕や漢の配下であった九州の黄海側にいた倭の記録が『朔が晦』だったからと推論でき、『日本書紀』は複数の王権の資料を当て嵌めたとき、当て嵌める場所を間違えた。中国の史書は直接の記録。日本の史書は寄せ集めの記録。」と言うことが解り、研究できた。

そして、もう一つが出土物で、この高麗橘を済州島で船に乗って直接学んで栽培したように、稲も河姆渡から熊本県本渡市の大矢遺跡に約5000~4000年前導入され、日本からは赤漆を船で輸出して稲作を学んで帰国したのであり、沖縄・奄美群島・朝鮮に稲の古い遺跡は見つかっていない。

河姆渡遺跡の住民が船に乗って伝播したとは考えにくく、稲の原産地の『西山經』、『南山經』・『海内經』の稲は「西南黑水之閒有都廣之野后稷葬焉」とあり、后稷は『大荒西經』で「帝俊生后稷」のように生まれ、中国の西の国から遷って来た人々が営んだ河姆渡遺跡の記述と考えられ、さらに、日本海東部の『海外東經』に稲が記述される。

稲がある『海外東經』の「黑齒國」は『大荒東經』にも記述され、日本海から太平洋岸まで勢力をもち、河姆渡遺跡と「黑齒國」の中間に籾殻跡が残る縄文土器が発掘される大矢遺跡があり、「黑齒國」は「君子國」の東北方にある。

帝堯が羲和に命じて暦を作った時、羲仲が分命されたが、羲仲は『尚書』「羲仲宅嵎夷曰暘谷」と暘谷に住む、島に住む夷人で「黑齒國」の北には湯谷があり、羲和の国は『大荒東經』・『大荒南經』と太平洋にあり、紀伊半島か房総半島の地域だ。

2022年6月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「即曙立王兎上王二王副其御子遣時自那良戸遇跛盲自大坂戸亦遇路()盲唯木戸是掖月之吉戸卜而出行之時毎到坐地定品遅部也故到於出雲拝訖大神還上之時肥河之中作黒巣橋仕奉仮宮而坐尓出雲國造之祖名岐比佐都美餝()青葉山而立其河下將獻大御食之時其御子詔言是於河下如青葉山者見山非山若坐出雲之石𥑎()之曽宮葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎問賜也尓所遣御伴王等聞観()見喜而御子者坐檳榔之長穂宮而貢上驛使尓其御子一宿婚肥長比賣故竊伺其美人者蛇也即見畏遁逃尓其肥長比賣患光海原自舩追來故益見畏以自山多和引越御舩逃上行()於是覆奏言因拝大神大御子物()詔故参上來故天皇觀喜即返兎上王命()造神宮於是天皇因其御子定鳥取部鳥耳()部品遅部大湯坐若湯坐」、【それで、曙立王、菟上王の二王をその子に従わせて派遣した時に、那良戸から片足を引きずり、大坂戸からもまた片足を引きずって歩いた。唯、木戸は掖月の吉の戸と卜が出て着いた土地毎に品遲部を定めた。それで、出雲について、大神を礼拝し終わって還り上る時に、肥河の中に黒い巣橋を作り、仮宮で仕えていた。そこに出雲國造の祖の岐比佐都美は、青葉の山を飾って、その河下に立てて、大御食を献上する時に、その御子が「この河下に、青葉の山のようなのは、山に見えて山ではない。もし出雲の石の曾宮にいる葦原色許男大神が居ついて祀った大国の朝廷なのか。」と問うた。それで従って仕えていた王達は、聞いて喜んで、御子を檳榔の長穗宮に逗留して、驛使を貢上した。それでその御子は、一晩、肥長比賣と契った。それで、密かにその美人を見ると、蛇だった。それを見て畏れて逃げた。それでその肥長比賣は悩んで、海原を照らして船で追って来た。それで、益々それを見て畏れ、山のくぼみから船を引き越して逃げ上って行った。それで「大神を拜んだので、御子はしゃべった。それで、参上してきた。」と復命した。それで、天皇は歓喜して、菟上王を返して、神の宮を造らせた。そこで天皇は、御子に因んで、鳥取部、鳥甘部、品遲部、大湯坐、若湯坐を定めた。】と訳した。

この説話は『古事記』の神話の「神亦爲宇都志國玉神・・・於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理」を示し、出雲の地が宇都志國、すなわち、珍彦たちの出身地で、かつて三国・大国・筑紫・八国を支配した大神朝廷の帝の璽を盗られて衰退した宮殿跡を鎮魂し、宮を造らせ、形式上も三国朝廷が終焉したようだ。

出雲臣・土師連の祖が天穂日で野見宿禰は土師臣で土師連の祖、すなわち、この時点で出雲臣と土師連が分岐して、この宮を祀る出雲臣は権威で実態は中臣連の遠祖の中臣大鹿嶋が出雲を含む仲国の王になったことが解る。

それで、品牟都和氣は失脚して、朝廷も2つに分裂し、道主の朝廷は大和・丹波・播磨・吉備・仲国を支配し、淡海朝廷は三国・若狭・但馬・日本海・朝鮮半島を支配し、分裂前の朝廷に「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」が中心人物で、武渟川別の子の品牟都和氣は品治部君だが、分裂した天皇の子の曙立王は伊勢の品遲部君で、この伊勢は野洲の伊勢遺跡の伊勢である。

品牟都和氣に代わって天皇になる弟彦に対して、大海部直の祖で八坂入彦の母は大海宿禰の娘の大海媛、すなわち、大国と淡海の女王で、弟彦は淡海國谷上刀婢の子、谷上刀婢は近淡海の御上の天之御影神の娘の息長水依比賣の可能性が高く、襲名した2代目弟彦の丹波道主と1代目弟彦の子の淡夜別の水之穗眞若なら理解できる。


2022年6月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書7

  『日本書紀』は続けて概略、「廿三年秋九月丙寅朔丁卯と十月乙丑朔壬申に譽津別の説話、十一月甲午朔乙未に部を作った説話」に対して、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙()作二俣小舟而持上來以浮倭之市師池輕池率遊其御子然是御子八拳鬚至于心前真事登波受故今聞高往鵠之音始爲阿藝登比尓遣山邊之大鶙令取其鳥故是人追尋其鵠自木國到針間國亦追越稲羽國即到旦波國多遅麻國追廻東方到近淡海國乃越三野國自尾張國傳以追科野國遂追到高馬()國而於和那美之水門張網取其鳥而持上獻故号其水門謂和那美之水門也亦見其鳥者(於思)物言()()思尓勿言事於是天皇患賜而御寐之時覺于御夢曰修理我宮如天皇之御舎者御子必真事登波牟如此覺時布計()摩迩()占相而未()何神之心尓崇出雲大神之御心故其御子令拝其大神宮將遣之時令副誰人者吉尓曙立王食卜故科曙立王令宇氣比白因拝此大神誠有験者住是鷺巣池之樹鷺乎宇氣比給()如此詔之時宇氣比其鷺堕地死又詔之宇氣比活尓者(宇氣比)更活又在甜白檮之前葉広熊白檮命()宇氣比枯忽()令宇氣比生尓名賜曙立王謂倭者師木登美豊朝倉曙立王」、【それで、その子を連れて遊ぶ様子は、尾張の相津に在る二俣の榲を二俣の小舟に作って、持って上って、倭の市師池、輕池に浮かべて、その子と一緒に遊んだ。しかし、この子は、八国風の一拳の鬚が心臓の前に届くまでになっても全く口を利かなかった。それで、今、空高く飛ぶ鵠の声を聞いて、始めて「ああ」と言った。それで山邊の大鶙を派遣して、その鳥を取らせた。それで、この人はその鵠を追い探して、木國から針間國に到って、さらに追って稻羽國を越え、それで旦波國、多遲麻國に到って、東の方に追い回って、近淡海國に到って、それで三野國を越え、尾張國からつたって科野國に追い、とうとう高志國に追ひ到って、和那美の水門に網を張って、その鳥を取って上って献上した。それで、その水門を和那美の水門と言った。またその鳥を見ると、何か言うと思ったが、思ったようには言葉を発しなかった。それで、天皇は悲しんで、寝た時、夢見に「我が宮を天皇の御殿のように修理すれば、子は必ず言葉を発する。」と言った。この様にして目覚めた時、太占で占って、どの神の心だ求めると、その祟りは出雲の大神の心とでた。それで、その子をその大神の宮に礼拝するよう派遣した時、誰が一緒に行けばよいかを占った。すると、曙立王が卜うと良いと出た。それで、曙立王に言って、「この大神を拜むにあたって、本当に験が有るのなら、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、神の誓いで落ちろ。」と誓約した。この様に言った時に、誓約したその鷺は、地面に墮ちて死んだ。また「誓約で活きかえれ。」と言うと、生き返った。また、甜白梼の前に在る葉廣熊白梼を、誓約で枯らし、亦、誓約で生き返らせた。そこで、名を曙立王に与えて、倭者師木登美豐朝倉曙立王と言った。】と訳した。

この説話は、『古事記』に「東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津故其地謂相津也是以各和平所遣之國政而覆奏尓天下太平人民富榮於」のように、この、4道侵攻で尾張の相津に到着して、天下を平定したと述べた後の説話と考えられる。

この説話は、大彦・建沼河別・品牟都和氣の三代がこの相津での戦利品の船で遊んだ説話とと考えられ、後に、退位した建沼河別は垂仁朝(実際は崇神朝?)の臣下の5大夫として臨席した時、天皇が『日本書紀』「是以人民富足天下太平也今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」の説話に繋がったと考えられる。

曙立王の祖母は山代の荏名津比賣、亦の名は苅幡戸辨で、苅幡戸辨は垂仁天皇の妃の山背大國の不遲の娘で落別・祖別の子が曙立王と考えられ、次項で出雲に行く途中で品遅部を定めているが、順序で言うとまだ品遅部は出来ておらず、食い違っていて、建沼河別の朝廷滅亡後の品遅部が定められた後の説話なら話が通り、奇日方や鞴五十鈴の三国王朝が崩壊し、その権威を出雲氏が受け継いだのがこの説話で、その後で、曙立王の父は天皇になり、曙立王も師木登美豐朝倉の天皇となったと言っている。

すなわち、苅幡戸辨は荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣の可能性があり、落別・祖別は豐木入日子の可能性があり、豐木入日子は美知能宇斯王の子の朝廷別・弟彦に対する水穗眞若王・豐木入日子が落別・祖別は名前としても良く合致する。

2022年6月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「如此逗留之間其所妊之御子既産故出其御子置稲城外令白天皇若此御子()天皇之御子所思齊()者可治賜於是天皇詔雖怨其兄猶不得忍愛其后故即有得后之心是以選聚軍士之中力士輕捷而宣者取其御子之時巧()掠取其母王或髪或手當随取獲而掬以控出尓其后有()豫知其情悉剃其髪以髪覆其頭亦腐玉緒三重纏手且以酒腐御衣如全衣服如此設備而抱其御子刺出城外尓其力士等取其御子即握其御祖尓握其()髪者御髪自落握其御手者玉緒且絶握其御衣者御衣便破是以取獲其御子不得其御祖故其軍士等還來奏言御髪自落御衣易破亦所纏御手之玉緒便絶故不獲御祖取得御子尓天皇悔恨而惡作玉人等皆奪取()地故諺曰不得地玉作也()天皇命詔其后言凡子名必母名何稱是子之御名尓荅白今當火焼稲城之時而火中所生故其御名宜稱本牟智和氣御子又命詔何爲日足奉荅白取御母定大湯坐若湯坐宜日足奉故随其后白以日足奉也又問其后曰汝所堅之美豆能小佩者誰解荅白旦波比古多多須美智宇斯王之()名兄比賣弟比賣茲二女王浄公民故宜使也然遂殺其沙本比古王其伊呂妹亦從也」、【この様に逗留しているうちに、妊娠した子は既に生み育ったので、子を稻城の外に出して、天皇に「もし子を、天皇の子と思うなら手元に置いてください。」と言った。それで天皇は「兄を怨んでも、后を愛しんで忍びない。」と言った。それで、后を得たいと思って兵士の中の力持ちで俊敏な者を選り集めて、「子を取る時、その母子共に奪い取れ。髮でも手でも、掴め取れるまゝに、掴んで引き出せ。」と言った。それで后は、もとからその気持ちを知っていて、残らず髮を剃り、その髮で頭を覆い、また玉の緒を腐食させて、三重を手に巻き、また酒で衣を腐食させ、普通の衣の様に着た。この様に備えて、子を抱いて、城の外に差し出した。それで、力持ち達は、子を受け取り、親を握った。しかし、髮を握れば、髮がポロッと落ち、手を握れば、玉の緒がチギレ、衣を握れば、衣は破れた。それで子を受け取れたが、親を得られなかった。それで、その兵士達は、帰って来て「髮がポロッと落ち、衣は簡単に破れ、また、手に巻いた玉の緒もちぎれた。それで、親を獲れず、子は受け取れた。」と言った。そこで天皇は悔み恨んで、玉を作った人達を憎み、その地を皆奪った。それで、諺に「玉作の土地を得た。」と言う。また天皇は、后に、「普通子の名は必ず母が名付けるが、子の名を付けろ。」と命じた。それに「今、火で稻城を焼いている時で、火の中で生れた。それで、名は本牟智和氣としましょう。」と答えた。また 「どうやって育てれば良いのか。」というと、「母代わりの養母を決めて育ててください。」と答えた。それで、后の言うままに育てた。また、后に「お前が堅めた美豆能小佩は誰が解くのか。」と問いかけると、「旦波比古多多須美智宇斯王の娘の、名は兄比賣、弟比賣、この二柱の女王が、穢れがない者だ。それを使ってください。」と答えた。それで遂に沙本比古王を殺したら、その妹も従った。】と訳した。

この戦いの勝者は、息長水依比賣の子の多多須美智宇斯王で政権を奪ったことを示し、活躍した人物は、第一が「上毛野君遠祖八綱田令撃狹穗彦」と上毛野君の遠祖八綱田で、上毛野君の祖は「豐城命令治東國是上毛野君・・・始祖」と豊城入彦で、豊城入彦の母が「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛生豊城入彦」と遠津年魚眼媛、紀伊國荒河戸畔の孫が上毛野君の始祖、すなわち、遠津年魚眼媛が上毛野君の祖、紀伊國荒河戸畔が上毛野君の遠祖、紀伊國荒河戸畔が八綱田である。

そして、この戦いに付随して、當摩蹶速と野見宿禰が戦い、野見宿禰が勝って當摩蹶速の地を奪ったが、この當摩は但馬國造の祖の建田背・當麻坂上君の祖の彦坐王・多遲摩國造の祖の大多牟坂王と息長氏が領有し、淡海朝の勝利の説話で、その後、野見宿禰は土部臣、連ではなく臣を与えられ、物部連などの大和の朝廷では無い姓で、淡海朝崩壊後に連を賜姓されたようだ。

そして、恐らく「紀伊國・・・戸畔」は 紀伊国王を表すと思われ、「建斗禾命天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫爲妻」、「建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等祖次建宇那比命此命城嶋連祖節名草姫生」と丹波国王の祖の建田背の弟建宇那比は父と同じく2代に渡って紀伊國造の娘を妃にし、建田背と建宇那比の子の建諸隅共に八綱田の候補で、建諸隅が有力である。

2022年6月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書5

  『日本書紀』は続けて概略「四年秋九月丙戌が朔の戊申に、皇后の兄狹穗彦王が謀反を謀り、五年冬十月己卯が朔に、皇后が兄王の反状を奏し、上毛野君の遠祖八綱田に狹穗彦を撃たせ、稻城に狹穗彦が籠り、皇后も稻城に入って。後宮の事を丹波國道主王の娘、あるいは、彦湯産隅王の子に任せるよう言い残して死んだ。七年秋七月己巳が朔の乙亥に、當麻邑の當摩蹶速と出雲國の野見宿禰が相撲で戦い野見宿禰がかったので、當摩蹶速の地に野見宿禰に与え」、「十五年春二月乙卯朔甲子」・「八月壬午朔」に皇后の説話」がある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「此天皇以沙本毗賣爲后之時沙本毗賣命之兄沙本毗古王問其伊呂妹曰敦愛夫與兄歟荅曰愛兄尓沙本毗古王謀曰汝寔思愛我者將吾與汝治天下而即作八塩折之紉(槽)小刀授其妹曰以此小刀刺殺天皇之寝故天皇不知其之謀而枕其后之御膝爲御寝坐也尓其后以紉(紐)小刀爲刺其天皇之御頸三度擧而尓忍哀情不能刺頸而泣涙落溢於御面乃天皇驚起問其后曰吾見異夢從沙本方暴雨零來急洽(沾)吾面又錦色小蛇纏繞我頸如此之夢是有何表也尓其后以爲不應爭即白天皇言妾兄沙本毗古王問妾曰敦愛夫與兄是不勝面問故妾荅曰愛兄歟尓誂妾曰吾與汝共治天下故當殺天皇云而作八塩折之紉(紐)小刀授妾是以欲刺御頸雖三度擧哀情忽起不得刺頸而泣涙落洽(沾)於御面必有是表焉尓天皇詔之吾殆見欺乎乃興軍撃沙本毗古王之時其王作(往)稲城以待戰此時沙本毗賣命不得忍其兄自後門逃出而納其之稲城此時其后妊身於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年故廻其軍不急攻迫」、【この天皇は、沙本毘賣を后とした時、沙本毘賣の兄の沙本毘古が、その妹に、「夫と兄とどちらが愛しい。」と聞いたら、「兄が愛しい。」と答えた。そこで沙本毘古は、「お前が本当に私が愛しいなら、私とお前とで天下を治めよう。」と言って、それで八鹽折の紐小刀を作って、妹に授けて、「此の小刀で、天皇が寢たところを刺し殺せ。」と言った。それで、天皇は、その謀略を知らず、后の膝を枕に、寢ていた。それで后は紐小刀で、天皇の頚を刺そうとして、三度、振り上げたが、哀しい気持で忍びず、頚を刺すことができず、泣く涙が顔に落ち溢れた。それで天皇が驚いて起き、后に「私は変な夢を見た。沙本の方から激しい雨が降って来て、急に私の顔にかかった。また錦色の小さな蛇が、私の頚に纏わりついた。こんな夢は、何の験だろうか。」と言った。それで后は、争えないと思って、天皇に、「私の兄沙本毘古が、私に、『夫と兄とどちらが愛しい。』と言った。こう面と向かって聞かれると勝てないと思って、私は、『兄が愛しい。』と答えた。それで私に 私に頼んで、『私とお前で天下を治めよう。だから、天皇を殺せ。』と言って、八鹽折の紐小刀を作って私に授けた。これで頚を刺そうとして、三度振り上げたが、哀しき思いが起って、頚を刺せず、泣く涙が顔に落ち濡らした。きっとこのためでしょう。」と答えた。それで天皇は、「私は危うく騙されるところだった。」と言って、挙兵して沙本毘古を撃った時、その王は、稻城を作って待ちうけて戦った。この時、沙本毘賣は、我慢できずに兄の元に、裏門から逃げ出て、稻城に入った。この時、后は妊身していた。それで天皇は、后が懐妊しているのを愛しみ三年間我慢してから、軍を回して、急襲した。】と訳した。

沙本毗古は妹を天皇の妃にして、皇位を奪取しようと目論み、この時の天皇は子の名前が本牟智和氣すなわち品治部君と考えられ、品治部君の祖は「次彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命」と大縣主すなわち大彦の孫の彦湯産隅で母が竹野姫、竹野姫は落国伝説を記述した姫だが『古事記』は弟国に着いたとき弟姫が堕ちて死んだから「墮國」と名付けたが、弟国で生まれたから弟姫で、意味が通らず、竹野姫伝説はそれ以前、彦湯産隅の母の伝説と錯覚しているようだ。

論理的に言うと、大彦の子が品治部君の祖の建沼河別・彦湯産隅でその子が品治部君・本牟智和氣となり、大毘古が高志道を撃ち、子の建沼河別が東方十二道に派遣された崇神天皇の説話の続きで、丹波道主の娘・日女が建沼河別の妃になることで、丹波多多須道主・襲名した建諸隅・倭得玉の子の弟彦が皇位を奪ったことを示している。

この後で朝廷が分裂し、建沼河別の兄弟と思われる御眞津比賣・大伊賀姫の夫の倭得玉彦・坐王の子の丹波道主と苅幡戸辨・摩須郎女の子の祖別・朝廷別・落別が分裂し、建沼河別の子が大和の品治部君と退位し、落別の子の一人の曙立王が淡海の伊勢の品治部君と二人の品治部君が記述された。

2022年6月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書4

  前回に続いて、燕の影響下でなかった朝鮮は燕の衛氏が侵略し、衛氏が滅びると、北部朝鮮は『漢書・ 地理志 第八』に「燕・・・上谷至遼東・・・北隙烏丸夫餘東賈真番之利玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮」と燕の支配地の朝鮮を記述し、玄菟、樂浪、濊、貉、句驪の地が箕子朝鮮の領域だったと記述、燕の支配下として黄海・東シナ海に倭人もいた。『漢書 西南夷兩粵朝鮮傳』にも燕の満が朝鮮王となり、「滿得以兵威・・・眞番臨屯皆來服屬方數千里」と大きく見積もって約250Km四方、現代の北朝鮮の領域を得たと記述され、「遂定朝鮮爲眞番臨屯樂浪玄菟四郡」と前漢朝によって滅ぼされて郡に統治された。

そして、『後漢書』には「朝鮮王准為衛滿所破・・・自立為韓王准後滅絶馬韓人復自立為辰王建武二十年韓人廉斯人苏馬諟等詣樂浪貢獻光武封苏馬諟為漢廉斯邑君」と衛の官吏が前200年頃韓王を名乗ったが絶滅し、馬韓人が辰王を名乗り西暦44年に廉斯邑君と漢の配下となったと記述する。

しかし、衛滿と闘った時は韓王で、そのころ、「眞番辰國欲上書見天子・・・元封二年」と前109年に既に辰国が存在し、『三国史記』で「温祚王・・・國號十濟是前漢成帝鴻嘉三年也」と前18年に百濟を建国していて、しかも、「元年夏五月立東明王廟」と扶余国王の後継者と記述し、建国地は扶余で高句麗と王位を争った可能性が高い。

百濟は温祚王三年秋九月靺鞨侵北境」、「國家東有樂浪北有靺鞨と前16年にはまだ靺鞨と北辺が接していて、東は樂浪郡で扶余の地に高句麗と共に玄菟郡に居て、「獲神鹿以送馬韓」と馬韓に贈り物をしていて、別国と解り、前6年十三年「遣使馬韓告遷都」、西暦9年二十七年「馬韓遂滅と馬韓を征服して、それ以前は「眞番辰國」配下の馬韓が存在し、百濟も辰配下の王と考えられ、中国も秦配下の馬韓と晋朝まで呼び続けている

新羅は前57年に赫居世居西干が建国し、「辰人謂瓠爲朴・・・爲姓居西干辰言王」と辰国人が朴姓を賜姓し辰国では新羅王を王と呼んでいたと記述し、前28年垂仁2年には「樂浪人將兵來侵」と楽浪郡が侵略して来て、日本に援助を求めたと考えられ、前20年に瓠公は馬韓に「我國自二聖肇」と聖人二人で国が始まったと、すなわち、赫居世居西干も辰王も聖人だと述べて、東沃沮の使者も赫居世居西干を「聞南韓有聖人出」と認めている。

そして、赫居世居西干は建国時前57年13歳で垂仁2年に長男が20歳前後と考えられ、南解次次雄は弟の長男なら、赫居世居西干六十一年には30歳程度、21年在位で50代で死亡なら、次の儒理尼師今が34年在位と長く矛盾はなく、新羅の最初の記録の「四年夏四月辛丑朔日有食之」は天文学的朔で、この頃、漢は晦を朔の日に記述し、『漢書』にも同じ日の記事があるが「五鳳四年夏四月辛丑晦日有蝕之」と晦の朔を記述し、新羅の最初の資料は畿内の資料と考えられ、その後、『漢書』の資料を使用している。

このように、辰韓の新羅は淡海政権と友好関係を保ち、燕の配下だった扶余族が南下し、倭が新羅を侵略する為、「新羅王子天日槍」が「近江國吾名邑」に住み、「天之日矛・・・泊多遅摩國即留其國而娶多遅摩之俣尾之女名前津見生子多遅摩母呂須玖此之子多遅摩斐泥此之子多遅摩比那良岐此之子多遅麻毛理次多遅摩比多訶・・・娶其姪由良度美生子葛城之高額比賣命此者息長帯比賣命之御祖」と但馬國に定住し、子孫が神功皇后の親になったように、淡海王朝を頼って援助を依頼した。

倭は畿内政権の分裂を好機と、縁がある扶余と組んで3韓の地の支配を目論んだのが、新羅への侵略と、熊襲の反乱と考えられ、百濟は西暦9年『三国史記』「温祚王二十七年夏四月二城降移其民於漢山之北馬韓遂滅・・・二十八年春二月立元子多婁為太子」と日本の朝廷の様式と同じく、王と太子がワンセットの倭国と同じ風習の王朝が成立し、新羅は6世紀の真興王から立太子の記述が始まり、新羅は畿内朝廷と同様に、王が決まると自動的に太子が決まったようだ。

すなわち、倭は天皇が20歳以上で、13歳以上の男の太子がいないと、弟や義弟が太子となって首都が変わる王朝交代が起こるが、畿内朝廷は天皇(皇后)が決まれば同じ首都に住む長男・長女の夫・皇后の兄弟が太子となって、互いの子の間で婚姻していたようだ。