『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・于時天稚彦妻下照姫哭聲與風響到天爰在天之稚彦父天津國玉神乃妻子聞其哭聲則知天稚彦亡則疾風飄擧到天即造(?喪)屋而河鴈爲持傾頭者以鷺爲持(?掃 イ+希)者以翠鳥爲御食人以雀爲碓舂女以雉爲哭女以鶏爲尸者以鷦鷯爲哭者以鵄爲造綿者以鳥爲完人凡以衆鳥任事而八日八夜啼哭悲歌極矣先是天稚彦在於葦原中國之時與味耜高彦根神友善矣故味耜高彦根神昇天吊(?喪)之時天稚彦之父亦妻皆哭云我子者不死有耶哉我君者不死坐耶云々取懸手足而哭悲也其過者高彦根之容婆甚能相似如天稚彦平生之儀故天稚彦親族妻子皆謂吾君猶在則攀牽衣帯且喜且慟時高彦根忽然作色大怒日朋友之道理冝相吊我爲愛友故不憚汚穢遠自弔來如何誤死人於我耶則抜所帯十握劍名大葉刈以斫仆喪屋其屋隨而成山此則今在美濃國藍見河之上喪山是也・・・」、【そのとき、天の稚彦の妻の下照姫が泣き悲しむ声は、風に響いて天まで届いた。それで、天にいた天の稚彦の父の天の津の国玉と妻子たちがその声を聞いて、稚彦が亡くなったことを知り、それを疾風が天に伝えた。そして、喪屋を造って、河雁を棺桶担ぎとし、鷺を箒持ちとし、翠鳥を料理持ちとし、雀を碓つき女とし、雉を哭き女とし、鷄を尸者(送り人?)とし、鷦鷯を泣く者とし、鵄を綿作りとし、烏を料理人とした。すべての諸々の鳥をこのように決めて、八日八夜、泣き悲しみ歌った。これより前、天の稚彦が葦原の中国にいたとき、味耜高彦根とは親しい間柄だった。それで、味耜高彦根は、天に上ってとむらったとき、天の稚彦の父や妻がみな泣いて、「私の子は死んでなかった」「私の夫は死んでいなかった」などといって、手足に取りすがりついて泣き悲しんだ。間違たのは、高彦根が天の稚彦の生前とよく似ていたためだ。それで天の稚彦の親族や妻子は「主人は死なないで居た」といって、衣を引っ張って、喜び、また泣いた。しかし、高彦根は憤然として。「友人とし弔うべきで、親友だから、けがれるのもいとわず遠くから悔やみにやってきた。それなのに、死人と間違えるとは」と言って、腰に帯びた十握の剱の『大葉刈』を抜いて、喪屋を切り倒した。それが山になって、今、美濃の国の藍見川の河上の喪山がこれだ。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故天若日子之妻下照比賣之哭声與風響到天於是在天天若日子之父天津國玉神及其妻子聞而降來哭悲乃於其處作喪屋而河雁爲岐佐理持鷺爲掃持翠鳥爲御食人雀爲碓女雉爲哭女如此行定而日八日夜八夜以遊也此時阿遅志貴高日子根神到而吊(弔)天若日子之喪時自天降到天若日子之父亦其妻皆哭云我子者不死有祁理我君者不死坐祁理云取懸手足而哭悲也其過所以者此二柱神之容姿甚能相似故是以過也於是阿遅志貴高日子根神大怒曰我者愛友故吊(弔)來耳何吾比穢死人云而抜所御佩之斗(十)掬劔切伏其喪屋以足蹶離遣此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也其持所切大刀名謂大量亦名謂神度劔故阿治志貴高日子根神者忿而飛去之時其伊呂妹高比賣命思顯其御名故歌曰阿米那流夜游登多那婆多能宇那賀世流多麻能美須麻流美須流迩阿那陀麻波夜美多迩布多和多良須阿治志貴多迦比古泥能迦微曽也此歌者夷振也於・・・」と、ほゞ同じだが、『舊事本記』は葬列の様子が詳しく、『古事記』は高彦根の妹とその歌を記述している。
『舊事本記』は高彦根を下照姫の兄として、下照姫と同じように「葛󠄀上郡髙鴨」社に祀り、『古事記』は下照姫を亦の名で高姫と記述して、高彦に対して高姫と兄弟と見做させているが、稚彦と高彦を兄弟としていない。
それで、下照姫と高姫が別人と解り、侵略する側が後に稚彦となる高彦と高姫で、侵略される側が大国主と下照姫で、下照姫の婿の高彦が寝返って稚国王となって稚彦と名乗ったと考えたほうが理に適う。
そして、稚彦の葬儀が野洲にあれば美濃は近く、藍見川は東海道と東山道がぶつかる「あいづ」が有る長良川が有力で、「あいみ」川は「あいづ」の3つの川・揖斐川・長良川・木曽川がぶつかる川の可能性が高く、高彦根が若狭・近江・美濃・大和の根国の王を表していて、野洲と若狭の間に彦根があり、彦根は美濃への起点で、丹波大国と野洲の中間点が若狭で、両書は琵琶湖周辺の神話を記述している。
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