『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「天饒石國饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊亦云天饒石國饒石尊亦云天津彦彦火瓊瓊杵尊天祖詔授天璽鏡劔陪從諸神等事見天神紀高皇産靈尊以真床追衾覆於皇孫天津彦火瓊瓊杵尊仍使陪從先駈乃離於天磐座且排天八重雲稜威之道別道別而天降之時先駈者還白有一神居天八達之衢而上光高天原下光葦原中國其鼻長十咫背長七咫餘當言七尋且口尻明耀眼如八咫鏡而赩然似赤酸醬也召遣從神將往問之時有八十万神皆不得目勝相問故錐手弱女人而勅天鈿鈿賣命乃露其(?胸)乳而抑下裳帶於臍下而咲噓向立則衢在問天鈿鈿賣汝爲之何故耶對曰天神之子(?所)幸道路有如此居之者誰也敢問之對曰天照太神之子今當降行故奉迎相待吾名是猨田彦大神時天鈿鈿賣覆問曰汝將先我行乎抑我先汝行乎對曰吾先啟行天鈿賣覆問日汝何處到耶皇孫何處到耶對曰天神之子則當到於築紫日向高千穗槵觸之峯吾則可到伊勢之猍長田五十鈴川上因曰發顯我者汝矣故汝可以送我而到矣天鈿賣命還諸報狀・・・」、【天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵または天饒石国饒石といい、または天津彦々火瓊々杵という。天祖が詔勅して、天の璽の鏡と剣を授けて、諸人を随行させたことは、天神本紀にある。高皇産霊は、寝床を巡らす衾で皇孫の天津彦火瓊々杵を囲い、お伴と先払いの者を派遣した。そして、皇孫が天の磐座を離れ、天の八のいくつもの霧を押し分けて、勢いよく道をふみ分けて天から降ろうとしたとき、先払いの者が戻ってきて「一人が天の八達の要にいて、東は高天原を支配し西は葦原の中国までを支配する十咫の鼻(槍の長さ?)、十咫の背、言うに七尋の広さを守る、 口の端は明るく光り、目は八咫鏡のようで赤いほうずきの様に輝いている」と言った。それで、従者を派遣して問わせようとしたが、八の十柱の万神は、問うことが出来なかった。そこで、か弱い女ではあったが、眼力が優れて鋭いので詰問させた。胸をあらわに出し、腰ひもを臍の下まで押しさげて、空笑って向かって立った。要の神は、天鈿売命に「なぜそんなことをしている」と尋ねた。天鈿売命は「天神の子が行く道に、こうしているのは誰かをわざわざ聞きに来た」と答えた。それに「天照大神の子が、今降ってきたと聞いた。それで、待ち受けていた。わが名は猿田彦だ」と答えた時、天の鈿売がまた「お前が私より先に行くのか、私が先に行くのか」と尋ねた。猿田彦は「私が先に行く」と答えた。天鈿売はまた「お前は何処へ行こうと言うのだ。皇孫を何処へ連れていくのか」と尋ねた。猿田彦の神は「天神の子を、筑紫の日向の高千穂の、槵触の峯に連れて行く。私は伊勢の狭の長田の五十鈴の川上に行く」と答えた。そして「私を見つけたのはお前だから、私を送って行け」と言った。天鈿売命は、天に帰って報告した。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・是以随白之科詔日子番能迩々藝尓此豊葦原水穂國者汝將知國言依賜故随命以可天降尓日子番能迩々藝命將天降之時居天之八衢而上光高天原下光葦原中國之神於是有故尓天照大御神高木神之命以詔天宇受賣神汝者雖有手弱女人與伊牟迦布神靣勝神故専汝往將問者吾御子爲天降之道誰如此而居故問賜之時荅白僕者國神名猿田毘古神也所以出居者聞天神御子天降坐故仕奉御前而参問之侍尓天兒屋命布刀玉命天宇受賣命伊斯許理度賣命玉祖命并五伴緒矣支加々而天降也於是副賜其遠岐斯八尺勾璁鏡及草那藝釼亦常世思金神手力男神天石門別神而詔者此之鏡者専爲我御魂而如拝吾前伊都岐奉次思金神者取持前事爲政此二柱神者拝祭佐久々斯侶伊須受能宮次登由宇氣神此者坐外宮之度相神者也次天石戸別神亦名謂櫛石窓神亦名謂豊石窓神此神者御門之神也次手力男神者坐佐那那縣也故其天兒屋命者(中臣連等之祖)布刀玉命者(忌部首等之祖)天宇受賣命者(猿女君等之祖)伊斯許理度賣命者(作鏡連等之祖)玉祖命者(玉祖連等之)」とあり、天降りに随行する人物と三種の神宝を付け加えている。
『古事記』のこの部分は、「九段17」で述べたように、この璽と鏡と剱のセットを神宝とするのが継体天皇507年の樟葉宮二月辛卯朔の時からで、これが前提となった神話と理解され、矛ではなく剣が神宝の王朝の神話と解り、遠賀川以東の神話で、鏡が出土する紀元前200年以降の神話が基の、「四志」以降の神話と考えられる。
『舊事本記』の猿田彦の様子は、八岐大蛇と同じ様相で、八国の軍勢の様子をおどろおどろしく描き、猿田彦も同じ八国人と解り、そのため、戻る場所が野洲の伊勢皇大神宮のある場所に帰ると記述していると考えられる。
また、「上光高天原下光葦原中國」の上下を太陽の光に上下は無いので、太陽が昇る東が上りだから上を東、沈む西が下りで西と考え、国譲りした大国主に変わって大国を得た猿田彦が野洲で大国を統治し、『舊事本紀』は『日本書紀』の越を髙志と記述するように髙は『古事記』ともども髙志を意味し、太陽が昇る高志国の天原から日が沈む出雲や安芸がある「なか国」を照らしている(統治している)と理解できる。
これは、大国主が支配した高志から筑紫までの内、筑紫を瓊々杵に譲ったと記述し、『後漢書』の
「女王國東度海千餘里至拘奴國」の拘奴國が譲られた国と考えれれ、前漢から後漢時代の神話と考えられる。
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