2021年10月15日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段15

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故更且還來問大國主神汝子等事代主神建御名方神者隨天神御子命勿違白訖故汝心奈何荅日僕子等二神隨白僕之不違此葦原中國者隨命既獻也唯僕住可者如天神御子之天日副(?)之登陀流天之御巣而於底津石根宮柱太敷利枚髙天原(?)木高知治賜者僕者於百不足八十隈(?永 ム+)隠而侍亦僕子百八十神者即事代主神爲之御尾前而仕奉者違神者非也因大巳貴神及子事代主神並皆奉避如吾防御者國内諸神必當同禦誰敢有不順者乃以乎國之時(?)杖之廣矛授二神日吾以此矛卒有治功天孫若用此矛治國者必當乎安今我當於百不足之八十隈將隠者言訖遂隠矣二神誅諸不順鬼神等既訖于時於出雲國多藝志之小濵造天之御舎而水戸神之孫櫛玉八神以爲膳夫獻御饗之時禱白而櫛八王神化鵜八海底咋出底之填作天八下十毘良迦而鎌海藻之柄作燧臼以海蓴之柄作燧杵而?()出火云是我(?)焼火者於髙天原者神皇彦靈御祖尊之登陀流天之新巣之凝烟之八擧垂摩之焼擧地下者於塵津石根焼凝而栲縄之千尋縄打延爲釣海人之日大尾翼?(鱫・鱸)佐和佐和途於寄騰而折竹之登遠々途獻天之真魚咋也于時經津主神武甕槌神還昇於天・・・」、【そこで、また帰って、大国主に「お前の子達の事代主・建御名方は、天神の子の言うことに背かないと言った。お前はどうだ」と尋ねた。「私の子供達が言う通り、私も違えない。この葦原の中国は言うとおり献上する。」と答えた。「ただ、私の住む所を、天神の子が日神の皇太子として天の「すみか」のように住む底津の礎石に太い高天の原の丸太を高く持ち上げて宮柱にして治めさせて貰えたら、私は百年とは言わないが八十年以上永く隠れています。また、私の子達百八十柱は、事代主の前後に仕えたら、背く者はいない」と言って、大己貴、および、子の事代主は一緒に「もし、私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように抵抗するので、私が身を退くのだから、誰もあえて反抗する者はいない」とこのように言って去った。それで、国を平定するときの杖の広矛を、二柱に授けて「私はこの矛で功績をおさめた。天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば、きっと平安になる。今から私は、百年とは言わないが八十年以上隱れる」といい終わると、ついに隠れてしまった。二柱は、諸々の従わない鬼神達を誅殺した。そうして出雲の国の多芸志の小浜に、天の舎を造って、水戸の孫の櫛八玉を料理人として、ご馳走を献上したときに、櫛八玉は、祝い言を唱え鵜になって海底に潜り、底の土をくわえ出て、天の八国の十箇の皿を作って、また、海藻の茎を刈り取って燧臼を作り、小甘藻の柄を使って燧杵を作って、火を焚き集めて つくり出して「この、私の焼火は、髙天原の神産巣霊の祖が住む新しい「すみか」の煤が八拳くらいに垂れ下がるように焼き上げ、地面は津の礎石に堅く焼き固め、栲繩を、千尋に繩打ちして延ばして作り、海人が釣り上げた大きな尾が翼のようと言う鱸をそれそれと引き寄せあげて、とををとををにと竹を打って、天のご馳走を献上する」と言った。そうして、経津主と武甕槌は天に昇り帰った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・更旦還來問其大國主神汝子等事代主神建御名方神二神者随天神御子之命勿違白訖故汝心奈何尓荅白之僕子等二神随白僕之不違此葦原中國者随命既獻也唯僕住所者如天神御子之天津日継所知之登陀流天之御巣而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷木多迦斯理而治賜者僕者於百不足八十坰手隠而侍亦僕子等百八十神者即八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者違神者非也如此之白而於出雲國之多藝志之小濵造天之御舎而水戸神之孫櫛八玉神爲膳夫獻天御饗之時祷白而櫛八玉神化鵜入海底咋出底之波迩作天八十毗良迦而鎌海希之柄作燧臼以海蓴之柄作燧杵而鑽出火云是我所焼火者高天原者神産巣日御祖命之登陀流天之新巣之凝烟之八拳垂摩弖焼舉地下者於底津石根焼凝而𣑥繩之千尋繩打莚爲釣海人之口大之尾翼鱸佐々和佐和迩控依騰而打竹之之登遠々登遠々迩獻天之真魚咋也故建御雷神返参上復奏言向和平葦原中國之状尓天照大御神高木神之命以詔太子正勝吾勝々速日天忍穂耳命令平訖葦原中國之白故随言依賜降坐而知者尓・・・」と、『舊事本記』とほゞ同じだ。

この項では、『日本書紀』は神武天皇が「畝傍之橿原」に「太立宮柱於底磐之根」と宮柱を立てているが、『古事記』は宇都志國玉が「宇迦能山本」、大国主のために「出雲國之多藝志之小濵」、天忍日が「笠沙御前」、『舊事本記』には、大国主に「出雲国多芸志小浜」、顕見国主が「宇迦能山之嶺」、瓊々杵が「吾田笠狹之碕」、そして神武が「畝傍之橿原」に宮柱を立てている。

これは、『日本書紀』は神武からずっと一つの王朝が続いているとの前提で有ることを示し、葛城氏の『古事記』は神倭(神八)王朝が王朝の始まりで、その場所が宇迦能山で、神倭(神八)王朝が続いていると考え、仲国は出雲の多藝志で朝廷が始まり、神武東征の立役者の日臣の祖の天忍日は笠沙で朝廷が始まったと述べている。

そして、『舊事本記』は「天忍日命大伴連等祖亦云神狭日命」と日国の狭の王と呼んでいるように、瓊々杵が「日臣」の領地を奪った事を記述し、多芸志や宇迦能山は『古事記』と同じ理由で朝廷が始まり、『古事記』の神武天皇の崇神天皇の建国は物部氏の力で出来上がったと述べている。

高皇産靈を「髙天原の神産巣霊祖」と記述し、皇(み)が神の意味と以前述べたが、それを証明し、産巣霊が始祖だから、皇祖の意味で皇の文字を使って「高皇産霊」と記述している。

ここで興味深い記述があり、「百不足八十永隠」と80~100年が永遠で、大国主の祖父から大国主の孫までが20歳違いと考えて100年が大国主にとっての現実に見る世代時間が永遠となる、とても理に適う時間軸を示し、神話はやはり現実的に理解すべきだと示し、説話は身近な狭い地域で出来、伝聞によって、どの地域か不明になり、伝聞に、元ネタの地域と異なる地域の説話を重ねることで、理解不能な神話が出来上がったと考えるべきで、それが一書群に現れている。

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