2021年10月27日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段20

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・皇孫詔天鈿賣命日此御前仕奉猨田彦大神者専(?)顯申也汝送奉亦其神御名者汝負仕奉是以猨女君等負其猨田彦神名而女呼猨女君之事是也于時猨田彦神坐阿耶河之時爲漁而於比良天具其平見咋合而沉溺海塩故其沉居底之時名謂底度久御魂其海水之都夫立之時名謂都夫立御魂其沫佐久行之時名謂沫佐久御魂爰送猨田彦神而還到乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以問言汝者天神御子仕奉耶之時尓諸魚皆仕奉白之中海(?)不白尓天鈿賣命謂海鼠云此口不荅之口而以細小刀折其口故於今海鼠口折是也其御世御世速贄獻之時給猨女君等者是其縁也天津彦彦火瓊々杵尊天降坐于筑紫日向襲之槵觸二上峯矣 于時自天浮橋立於浮渚在平處旅(?+)完之空國自頓覔國行去到於吾田笠狹之碕矣遂登長屋之竹嶋乃巡覽其地者其地有一神自号事勝國勝長狹其事勝國勝神者是伊弉諾尊之子亦名謂塩土老翁矣皇孫問曰此誰國(?)對曰長狹有國亦(?)住之國也取捨遊之隨勅奉上矣故皇孫就而留矣詔曰此地者向韓國直道求笠狹之御前而朝月月直剌國夕日日照國也故謂此地吉地矣詔於底津石根宮柱太敷而於高天原槫榛高知坐矣・・・」、【皇孫は天鈿売に「この先導で仕えるという猿田彦を、見つけたと報告したお前が送れ。また、その神の名を、お前が受け継いで仕えなさい」と命じた。それで猿女君達は、猿田彦の名を受け継いで、猿女君と呼ぶことになった。それで、猿田彦が阿耶訶にいるとき、漁をしていて、比良夫貝にその手をはさまれて、海に沈み溺れてしまった。それで、海の底に沈んだときの名を、底度久御魂といい、その海水が泡粒になって上がるときの名を、都夫立御魂といい、その沫が裂けるときの名を、沫佐久御魂という。さて、天鈿売命は、猿田彦を送り、帰ってきて、すぐに大小の魚を追い集め、「お前たちは、天神の子に仕るか」と尋ねた。このとき、多くの魚は、「仕えます」といったが、その中で海鼠だけが答えなかった。そこで、天鈿売命が海鼠に、「この口が答えない口か」といって、細い小刀でその口を切った。そのため、今でも海鼠の口は裂けている。各天皇の代ごとに、初物の魚介類を献上するとき、猿女君らに分かつのは、これが由来である。天津彦々火瓊々杵は天から降って、筑紫の日向の襲の槵触の峯にいた。このとき、天の浮橋から、浮島のある平らな所にいて、痩せた不毛の地を、丘続きに良地を求めて歩き、吾田の笠狭の崎に着いた。長屋の竹嶋に登り、その地を見わたすと、そこに人がいて、事勝国勝長狭と名のった。この事勝国勝は、伊弉諾の子で、またの名を塩土老翁という。皇孫は事勝国勝長狭に「ここは誰の国か」と尋ねた。これに答えて「長狭がいる国で、住んでいる国だ。しかし、まずはゆっくりしなさい。国は詔勅どうり差し上げましょう」と答えた。そこで、皇孫はそこに赴き、留まった。そうして「ここは韓国に向かい合って、まっすぐ道が笠沙の御崎に通じ、朝日のさす国で、夕日が照らす国だ。それで、ここはよい土地だ」と詔勅して、底津の礎石に太い宮柱を立てて、高天の原の丸太を高く持ち上げた所に居て統治した。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故尓詔天津日子番能迩々藝命而離天之石位押分天之八重多那雲而伊都能知和岐弖於天浮橋宇岐士摩理蘇理多々斯弖天降坐于竺紫日向之高千穂之久士布流多氣故尓天忍日命天津久米命二人取負天之石靭取佩頭椎之大刀取持天之波士弓手挾天之真鹿兒矢立御前而仕奉故其天忍日命(此者大神連等之祖)天津久米命(此者久米直等之祖也)於是詔之此地者向韓國真米(來)通笠沙之御前而朝日之直刺國夕日之日照國也故此地其吉地詔而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原水椽多迦斯理而坐也故尓詔天宇受賣命此立御前所仕奉猨田毗古大神者専所顯申之汝送奉亦其神御名者汝負仕奉是以猨女君等負其猨田毘古之男神名而女呼猨女君之事是也故其猨田毗古神坐阿那訶(此三字以音地君)時爲漁而於比良天具其手見咋合而沈溺海塩故其沈居底之時名謂底度久御魂其海水之都夫多都時謂都夫多都御魂其阿和佐久時名謂佐久御魂於是送猨田毗古神而還到乃悉追聚鰭廣物鰭狭物以問言汝者大神御子仕奉耶之時諸魚皆仕奉白之中海鼠不白尓天宇受賣命謂海鼠云此口乎不荅之口而以細小刀析其口故於今海鼠口析也是以御世島之速贄獻之時給猨女君等也於・・・」とある。

天降り先が竺紫の日向の高千穗のくしふる岳という中間点が有り、その後笠沙に移動して、すなわち、朝廷は『日本書紀』と同じく「高千穗のくしふる岳」が重要な場所であったことを示し、両書の神武天皇が同一人物だったことを示し、『舊事本記』は「高千穗のくしふる岳」を軽く触れただけで、重要視していない。

そして、沙国は葛城氏にとっても物部氏にとっても宮柱すなわち宮殿を建てた重要拠点だったことを示している。

そして、前項で述べたように猿田彦は野洲の人物で、宇治の婿の迩々藝を後に曲浦の王となる宇受賣を引き連れて「笠沙御崎」に定住し、その後、猿田彦を伊勢に祀ったと記述して、後の『古事記』「木國造之祖宇豆比古」、『日本書紀』に「珍彦爲倭國造」の珍彦の神話を流用しているようだ。

また、迩々藝が得た場所は沙国だということが解り、物部氏は沙国すなわち若狭を迩々藝の前の世代に得ていたと述べ、若狭は若倭根子日子・若帯日子の領地で、筑紫は日向発の葛城氏の神武天皇の母系の出身地なので、葛城氏にとっては重要な説話であったと思われる。

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