2021年10月22日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段18

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・正哉吾勝々速日天押穂耳尊以髙皇産霊尊女栲幡千々姫万幡姫命爲妃居於(?)天而生兒號天津彦々火瓊々杵尊同欲以此皇孫代親而降矣天照太神詔任白可降矣冝以天兒屋命天太玉命及諸部神等皆悉相換且服御之物一依前授矣然後天忍穂耳尊更還覆於天上矣太子正哉吾勝々速日天押穂耳尊高皇産霊尊女万幡豊秋津師姫命亦名栲幡千々姫命爲妃誕生二男矣兄天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊弟天饒石國饒石天津彦々火瓊々杵尊」、【正哉吾勝々速日の天の押穂耳は、高皇産霊の娘の栲の幡の千々姫の万の幡姫を妃として、(?空)天で子を生んだ。天の津彦の彦の火の瓊瓊杵と名づけた。それで、この皇孫を親に代えて降らせようと思った。天照太神が「言った任務で降らせなさい。」と詔勅し、天児屋、天太玉、および諸部の者達を、悉く、指導者を変え、着物は前のとおりだった。その後、天の忍穂耳は、また天に上り帰った。太子・正哉吾勝々速日の天の押穂耳は、高皇産霊の娘の万の幡の豊の秋津師姫、またの名を栲幡の千々姫を妃として、二柱の男を生んだ。兄は、天照国照彦の天の火の明櫛玉饒速日、弟は、天饒石国饒石の天の津彦の火の瓊々杵だ。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・其太子正勝吾勝々速日天忍穂耳命荅白僕者將降装束之間子生出名天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩々藝命此子應降也此御子者御合高木神之女萬幡豊秋津師比賣命生子天火明命次日子番能迩々藝命二柱也」とあり、名前の修飾辞が異なっている。

この項で目立つのが、栲幡千々姫万幡姫が幡姫と千々姫と師姫、天照國照彦天火明櫛玉饒速日が天照國照彦と天火明と櫛玉饒速日のように、いかにも複数の人物を一つの人物と呼んでいて、三王朝の始祖の名前を表現し、天照大神の後継と自負する葛城氏と尾張氏と物部氏の王朝を示すと考えられる。

そして、『日本書紀』では饒速日を記述しないで迩々藝のみ記述され、尾張連の祖の火明は大山祇の娘の鹿葦津姫の子だが、『舊事本記』では髙皇産霊の娘の万幡姫で、さらに、鹿葦津姫の子とも記述するが、工造達の祖となっていて、饒速日の子の香語山が尾張連の祖と記述している。

すなわち、『日本書紀』の神話の基となった『四志』には物部氏の歴史が含まれず、物部氏が葛城王朝と敵対した朝廷を運営していたことが解り、押穂耳の文字が同じ筆者にも関わらず、「忍」と「押」が混同され、筆者自体も古いが表音文字使用の時代より遅い、表意文字を使った文献を合成したと考えられ、押穂耳と瓊瓊杵と饒速日は全く時代がが異なる人物をまとめ上げた説話と解る。

この説話の作成は天を虛天と記述するように、天を空と理解した時代、雄略天皇が『日本書紀』を作成した時より後の時代の文献を併せたものと考えられる。

なお、『先代舊事本紀巻第三天神本紀第五天孫本紀』の饒速日の系図は特殊な系図なので後述し、次項は巻第六皇孫本紀から記述する。

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