2021年10月13日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段14

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・經津主武甕槌二神降到於出雲國五十田狹小汀而問大巳貴神日天神高皇産靈尊効日天照太神詔日葦原中國者我御子之可知之國詔寄賜故汝將此國奉天神耶以不如何于時大巳貴命對日汝疑二神非是吾處來者故不須許也二神則揆十握劔倒刺立於地踞其鋒端而問大巳貴神欲降皇孫君臨此地故先遣此二神駈除平定汝意如何當避須不時大巳貴命對日當問我子事代主神然後將報是時其子事代主神遊行在於出雲國三穂之碕以釣魚遊鳥樂故以熊野諸手舩載使者稻背脚遣天鳥舩神徴來八重事代主神問將報之辞時事代主神謂其父日今天神有此借問之勑我父冝當奉避吾亦不可違因於海中造八重蒼紫籬蹈舩枻而矢之逆牟(?)打而青柴垣打成隠故尓問大巳貴神合汝子事代主神如此白訖亦有可白之子乎對日必白之且我子有建御名方神除此者無也如此白問建御名方神千引之石指捧手未而來言誰來我國而忍々如此言者然欲爲力競故我先故取其御手故令取其手者即成立氷亦取成剱刃故尓懼而退居尓欲取建御名方神手乞歸而取者如取若葦搤批而授離即逃去固追往而迫到於科野國洲羽將殺之時建御名方神白恐矣莫殺我我除此地者不行侘處不違我父大國主神之命不違兄八重事代主神之言此葦原中國者隨天神御子命獻矣・・・」、【経津主と武甕槌の二柱は、出雲の国の五十狭の小汀に降って、大己貴に尋ねていった。「天神の高皇産霊は、『天照大神は詔勅して、葦原の中国は我が子が治めるべき国だと言っている』と言っている。お前はこの国を天神に献上するかどうか」と言った。大己貴は「あなたがいうことは、私が居るところでないと言うのはおかしいのでは。」と答えた。二柱は、十握の剣を抜き、斜めに突き立て、その矛先に坐って大己貴に「皇孫を降して、この地に君臨するのだ。そこで、我らがやって来て、平定する。どうだ。去るか」と問いかけた。大己貴は「私の子の事代主にこのことを聞き、その後で返事する」と答えた。このとき、子の事代主は、出雲の国の三穂の岬で魚釣りや鳥を捕っていた。そこで、熊野の諸手船で、使者の稲背脚を乗せて、天鳥船を派遣し、八重事代主を呼び戻して、返答を尋ねた。それで、事代主が父に「今回の天神の問いかけにどおり、父はすぐに去り、私も、逆らわない」と言い、海の中に八重の蒼柴の籬をつくって、船のへりを踏んで、矢を逆手に打って、青柴の垣を打ち隠れた。さらに、大己貴に「今、お前の子の事代主は、このように言った。まだ言わなければならない子はいるか」と聞いた。「答える者に、我が子の建御名方がいる。これ以外にはいない」と言う間に、建御名方は千引の大石を手の指に持ち上げて、「誰だ。我が国にやって来て、こそこそ斯々然々と言っている者は。それなら、力くらべをしよう。私がまず、その手を取ろう」と言った。そこで、その手を取らせると、氷柱になり、また剣のよ刃になった。それで恐れて退却した。それで建御名方の手を取ると、若葦をとるように掴んでくじいて投げ離すと、逃げ去っていった。それを追って科野の国の洲羽の海に追いつめて、殺そうとすると、建御名方が恐れて「私を殺さないで。この地以外、どこにも行きません。また、父の大国主の命令に背かない。兄の八重事代主の言葉にもそむかない。この葦原の中国は、天神の子の言う通り献上します」と言った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・是以此二神降到出雲國伊耶佐之小濵而抜十掬劔逆刺立于浪穂趺坐其劔前問其大國主神言天照大御神高木神之命以問使之汝之宇志波祁流葦原中國者我御子之所知國言依賜故汝心奈何尓荅白之僕者不得白我子八重言代主神是可白然爲鳥遊取魚而往大御之前未還來故尓遣天鳥舩神徴來八重事代主神而問賜之時語其父大神言恐之此國者立奉天神之御子即蹈傾其舩而天逆手矣於青柴垣打成而隠也故尓問其大國主神今汝子事代主神如此白訖亦有可白子乎於是是亦白云亦我子有建御名方神除此者無也如此白之間其建御名方神千列石撃手末而來言誰來我國而忍如此物言然欲爲力競故我先欲取其御手故令取其御手者即取成立氷亦取成釼刃故尓懼而退居尓欲取其建御名方神之手乞歸而取者如取若葦搤枇而投離者即逃去故追往而迫到神科野國之州羽海將殺時建御名方神白恐莫殺我除此地者不行侘處亦不違我父大國主神之命不違八重事代主神之言此葦原中國者随天神御子之命獻故・・・」とあり、『舊事本記』とほゞ同じだ。

『古事記』は大国主が対象だが、『舊事本記』は大己貴と大国主が混在し、事代主のいる所が『古事記』は「八重事代主」が「大御之前」で「大御」、『舊事本記』は「事代主」が「出雲國三穂之碕」で出雲國の説話と近江の野洲の説話で、野洲の政権は縄文土器の最高峰が出土する諏訪まで勢力圏であったようだ。

『舊事本記』が時代が異なる「經津主」と「武甕槌」が国譲りに出陣するように、「武甕槌」は「八重事代主」の子「天日方奇日方」、その子「建飯勝」で妻が出雲臣の娘、その子が「武甕槌」で『日本書紀』の崇神天皇代に「出雲臣之遠祖出雲振根主・・・既而出雲振根從筑紫還來之」と出雲臣が賜姓され、「建飯勝」はこの頃の人物で、出雲国の初出は垂仁天皇の代で、崇神天皇の頃に建国された。

すなわち、『舊事本記』は懿徳天皇の頃の「武甕槌」の「神倭(八)」国の大国の国譲りで「大倭(八)」国になった神話と政務天皇代の後漢の時代に「經津主」の「稚」足王の「稚」国が「仲」国を支配して「仲」足王となった神話を記述し、邪馬台国を大倭(八)国王が『後漢書』に「其大倭王居邪馬臺國」と記述し、『日本書紀』では景行天皇128年には「近江志賀高穴穗宮」と近江に宮が有り、仲哀天皇193年には「角鹿笥飯宮」と若狭、198年「橿日宮」と香椎に宮が有り、神話と整合している。

ちなみに、葛城氏の役職名は首都が近江の時大足彦と呼ぶ大国王、次いで稚足彦と呼ぶ若狭王、首都が若狭に有るときは仲足彦と呼ぶ仲国王である。

そして、葛城氏の国盗りの最前線、中国人が野蛮な東夷の中にも関わらず、聖人と呼ぶ丈夫国・大人国・君主国と表現した地域の香椎・敦賀・野洲を葛城氏が制圧した姿を記述したものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿