2021年9月29日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段8

   『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰天孫幸大山祇神之女子吾田鹿葦津姫則一夜有身遂生四子故吾田鹿葦津姫抱子而来進曰天神之子寧可以私養乎故告狀知聞是時天孫見其子等嘲之曰姸哉吾皇子者聞喜而生之歟故吾田鹿葦津姫乃慍之曰何爲嘲妾乎天孫曰心之疑矣吾嘲之何則雖復天神之子豈能一夜之間使人有身者哉固非我子矣是以吾田鹿葦津姫益恨作無戸室入居其內誓之曰妾所妊若非天神之胤者必亡是若天神之胤者無所害則放火焚室其火初明時躡誥出兒自言吾是天神之子名火明命吾父何處坐耶次火盛時躡誥出兒亦言吾是天神之子名火進命吾父及兄何處在耶次火炎衰時躡誥出兒亦言吾是天神之子名火折尊吾父及兄等何處在耶次避火熱時躡誥出兒亦言吾是天神之子名彥火火出見尊吾父及兄等何處在耶然後母吾田鹿葦津姫自火燼中出来就而稱之曰妾所生兒及妾身自當火難無所少損天孫豈見之乎報曰我知本是吾兒但一夜而有身慮有疑者欲使衆人皆知是吾兒幷亦天神能令一夜有娠亦欲明汝有靈異之威子等復有超倫之氣故有前日之嘲辭也梔此云波茸音之移反頭槌此云箇步豆智老翁此云烏膩」、【一書に、天孫は、大山祗の娘の吾田鹿葦津姫を娶った。それで一夜で四人の子を身ごもった。それで、吾田鹿葦津姫は子をお腹の中に抱いてやって来て、「天の神の子を、どうして私だけで養えましょう。それで、状態を告げに来た」と言った。この時に、天孫は、その子達を見て、「おう美しいものよ、私の子と、聞いたがうまく生まれるかな」とけなした。それで、吾田鹿葦津姫は、「どうして私をけなすのか」と怒った。天孫は、「疑わしいから、けなした。なぜなら、天神の子といっても、どうして一夜で、身ごもるのだ。本当は私の子でないのでは」と言った。それで、吾田鹿葦津姫は、ますます恨んで、戸が無い小屋を作って、その中に入り、「私の腹の子がもし天神の子でなかったら、きっと死んでいる。これがもし天神の子ならば、無事に生まれる」と誓った。それで火を放って小屋を焚いた。その燃え始めで明るくなった時に、ふんばり叫んで生まれた子は、「私は天神の子で名は火明。我が父は何処にいらっしゃる」と言った。次に火が燃え盛る時に、ふんばり叫んで生まれた子は、また「私は天神の子。名は火進。我が父と兄は、どこにいらっしゃる」と言った。次に火炎が下火になった時に、ふんばり叫んで生まれた子は、「私は天神の子で名は火折。我が父と兄達は、どこにいらっしゃる」と言った。次に火の熱が冷める時にふんばり叫んで生まれた子は、「私は天神の子。名は彦火火出見。我が父と兄達は、どこにいらっしゃる」と言った。その後で、母の吾田鹿葦津姫が、燃えのこりの中から出てきて、子達と一緒に、「私が生んだ子とわが身は、自分から火の中に入ったが、少しも損わなかった。天孫、よく見なさい」と言った。「私は元々私の子と知っていた。ただ、一夜で身ごもった。だから疑う者がいると思って、皆が皆、我が子で、天神だから一夜で身ごもると知らせようとした。またお前も不思議な威厳が有る、子達も類まれな気概が有ることを明らかにしようとした。だから、前の日にからかった」と答えた。梔を「はじ」という。音は之移の反。頭槌を「かぶつち」という。老翁を「をぢ」という。】と訳した。

一書()は「頭槌」や「老翁」の説明を記述しているので、一書()の続きと解る。

事細かに火の中から生まれたと記述しているが、『日本書紀』記述時は「火」は「ほ」と読み、「ほ」は「穂」国のことで「穂・火」という漢字が入った後につくられた神話と理解でき、この一書を記述した人たちは、「ほ」を火と理解し、別の一書の人たちは「ほ」を穂と理解し、農耕の人と狩猟の人の違いと思われる。

すなわち、「彦火瓊瓊杵」は「穂日子瓊瓊杵」すなわち「穂日」の子で、正勝吾勝勝速日天忍穗耳は速日国の「神」国の配下の王で日国の分国の「穂」国に侵略して、瓊瓊杵を「穂」国王にした神話があり、それで、『日本書紀』は豊日国の女王の子を産むが、本来は松明や暖炉を描いていた古伝があり、この神話は吾田という地域の神話と完全に入れ変え、「ほ」を火に書き換え、火の中から生まれて、火山が近辺にある地域の神話に書き換わったようだ。

以前に記述したように、『舊事本記』は熊襲国を筑紫に入れないで「日向國謂豊久士比泥別」、『古事記』は「熊曽國」も筑紫に入れて日向に國を付加せず「肥國謂速日日向豊久士比泥別」と伊都国の日向の近辺の吾田と日向国の近辺の吾田と別地域で、霧島や鶴見岳や阿蘇山を想定した隼人の祖の火闌降(火進)の神話を記述していると考えられる。

2021年9月27日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段7

  『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰初火燄明時生兒火明命次火炎盛時生兒火進命又曰火酸芹命次避火炎時生兒火折火火出見尊凢此三子火不能害及母亦無所少損時以竹刀截其兒臍其所棄竹刀終成竹原故號彼地曰竹屋時神吾田鹿葦津姫以卜定田號曰狹名田以其田稻釀天甜酒嘗之又用淳浪田稻爲飯嘗之」、【一書に、初め火炎が明るい時に生んだ子は、火明。次に火炎が盛んな時に生んだ子は、火進。または、火酢芹。次に火炎が小さくなる時に生んだ子は、火折彦火火出見という。すべてで三人の子は、火で害されなかった。母もまた少しも傷つかなかった。その時に竹の刀で、その子の臍の緒を切った。その棄てた竹の刀は、とうとう竹林となった。それで、その地を竹屋と名付けたと言う。その時に神吾田鹿葦津姫が、占って決めた田を、狹名田と呼んだという。その田の稻を、天のおいしい酒に釀もして供えた。また渟浪田の稻を用いて、飯にして供えた。】と訳した。

 『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰髙皇産靈尊以真床覆衾裹天津彥國光彥火瓊瓊杵尊則引開天磐戸排分天八重雲以奉降之于時大伴連遠祖天忍日命帥来目部遠祖天槵津大来目背負天磐靫臂著稜威髙鞆手捉天梔弓天羽羽矢及副持八目鳴鏑又帶頭槌剱而立天孫之前遊行降来到於日向襲之髙千穗槵日二上峯天浮橋而立於浮渚在之平地膂宍空國自頓丘覓國行去到於吾田長屋笠狹之御碕時彼處有一神名曰事勝國勝長狹故天孫問其神曰國在耶對曰在也因曰隨勅奉矣故天孫留住彼處其事勝國勝神者是伊弉諾尊之子也亦名鹽土老翁」、【一書に、高皇産靈は、床に敷く寝具を、天津彦國光彦火瓊瓊杵にまとい、天の磐戸を引き開けて、天の八重雲をおし分けて降った。その時に、大伴連の遠祖の天の忍日と、來目部の遠祖の天の槵津の大來目を率いて、天の磐靫を背負い、肘には威光がある高鞆を着けて、手には天の赤黄色の弓と天の羽羽矢をとって、八の目が有る鏑矢を一緒に持って、また持ち手が槌の形をした劒を帯びて、天孫の前に立って、降って来て、日向の襲の高千穗の槵日の二上の峯の天の浮橋に到り、渚に浮かぶ平地に立って、背筋の肉のような空国を、急な丘の上から国を探し回り、吾田の長屋の笠狹の岬に着いた。その時そこに一柱の神がいて、名を事勝國勝長狹と言った。それで、天孫は、その神に「國が在るか」と問いかけた。「在る」と答えた。それで、「詔勅のとうり差し上げましょう」と言った。それで、天孫は、そこに留り住んだ。その事勝國勝は、伊奘諾の子だ。またの名は鹽土老翁という。】と訳した。

ここの一書は本文とは異なる鹿葦津姫と亦の名の神吾田津姫の合成や、火折と彦火火出見の合成、本文に出現しない忍日などの人名や大伴氏の祖の出現は神武紀、鹽土老翁は海幸伝説で海神のいる場所に案内し、異なる場面での出現を記述している。

私は、これまでも「天」国の王が天子、「神(み)」国の王が神子(みこ)とのべ、王の子達が「みこと」と述べてきたが、これは、すなわち、「みこと」が神の孫なのだから、天子の子達が天孫、すると、神孫は皇の表音は「み」だったので、皇孫が「み」国の孫達にあたる。

そして、王の名はこのようにインフレを起こし、本来、史上最初の王は「むすひ」の「ひ」が神祖で「日」国の初代の王は「霊(ひ)」、すなわち、「神」国の初代の王が「神(み)」で『山海經』の「神霊」、そして、殷以前には「神霊」の他には「聖」と「倭」と「大人」が存在し、「聖」は「日後」で「三身国」の王たちのことと理解でき、「三身国」の王たちも「聖」すなわち後の「日」、そして、その子達が「日子」・「日女」で「日別」などの王達は日孫の「人(日と)」となる。

一書()の時代は、宇摩志摩治・兄弟の髙倉下と鹽土老翁の「じ」と同じ官位がある時代で、大伴連の祖の日臣は高倉下の居住地で神剣の「韴靈(帶頭槌剱?)」を得た日臣や大久米が記述され、高倉下の親が饒速日と日国の構成国の「速」国の王、母親が天道日女と「速」国の分国の「道」国王で、高倉下(手栗彦)が「日子」、その子がおそらく忍日、その妻が忍日女で忍日は「日臣」と呼ばれ、神武東征で「道国」が速日国の配下となり、日臣が道臣と名を変えたと考えられる。

そして、大伴の連の祖が出現するのは「垂仁天皇二五年」で「我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇惟叡作聖」のように「崇神天皇は聖」と述べている時に記述され、崇神天皇の東征の時の説話と考えられ、朝廷を開いた時、「我皇祖大啓鴻基其後聖業逾髙王風」と聖業・ひじりの政治と述べている。 

2021年9月24日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段6

  続けて『日本書紀』慶長版一書()は「・・・於天故天津彥火瓊瓊杵尊降到於日向槵日髙千穗之峯而膂宍胸副國自頓丘覓國行去立於浮渚在平地乃召國主事勝國勝長狹而訪之對曰是有國也取捨隨勅時皇孫因立宮殿是焉遊息後遊幸海濱見一美人皇孫問曰汝是誰之子耶對曰妾是大山祇神之子名神吾田鹿葦津姫亦名木華開耶姫因白亦吾姉磐長姫在皇孫曰吾欲以汝爲妻如之何對曰妾父大山祇神在請以垂問皇孫因謂大山祇神曰吾見汝之女子欲以爲妻於是大山祇神乃使二女持百机飲食奉進時皇孫謂姉爲醜不御而罷妹有國色引而幸之則一夜有身故磐長姫大慙而詛之曰假使天孫不片妾而御者生兒永壽有如磐石之常存今既不然唯弟獨見御故其生兒必如木華之 移落一云磐長姫耻恨而唾泣之曰顯見蒼生者如木華之俄遷轉當衰去矣此世人短折之緑也是後神吾田鹿葦津姫見皇孫曰妾孕天孫之子不可私以生也皇孫曰雖復天神之子如何一夜使人妊乎抑非吾之兒歟木華開耶姫甚以慙恨乃作無戸室而誓之曰吾所娠是若他神之子者必不幸矣是實天孫之子者必當全生則入其室中以火焚室于時焔初起時共生兒號火酢芹命次火盛時生兒號火明命次生兒號彥火火出見尊亦號火折尊齋主此云伊播毘顯露此云阿羅播貮齋庭此云踰貮波」、【それで、天の津彦の火の瓊瓊杵は、日向の槵日の高千穗の峯に降り到って、膂宍の胸副国は、頓丘から國を求めて立ちあがり、波打ち際に浮かぶようにある平地に立って、国主の事勝國勝長狹を配下にして尋ねた。「ここに国が有って、取るも捨てるもおっしゃる通りに」と答えた。それで皇孫は、宮殿を建てて、休息した。そして海辺で遊んでいて、一人の美人を見染めた。皇孫は「お前は誰の子だ」と問いかけた。「私は大山祇の子で、名は神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫といいます。」と答えた。続けて、「また私の姉の磐長姫がいます」と言った。皇孫は「私はお前を妻にしたいと思う、どうだ」と言った。「私には父の大山祇がいます。お願いですから下問してください」と答えた。皇孫は、それで大山祇に「私は、お前の娘を見染めた。それで妻にしたい」と言った。そこで、大山祇は、二人の娘を、飮食の机百を持たして進呈した。その時皇孫は、姉を醜いと思って、召さないで返した。妹は国中で一番の美人と、召し入れた。それで一夜で妊娠した。それで、磐長姫は、とても恥じて恨んで、「もし天孫が、私を避けず召してもらえるなら、生む子は長生きして、磐や石がずっと有るようにずっと王朝が続いたのに。今や、そうではなく、ただ、妹一人のみ召し入れた。だから、その生む子は、きっと木の花のように、短い間に散るでしょう」と言った。ある人が言うのに、磐長姫は恥じて恨んで、悔し泣きして「眼前に広がる青々とした国は、木の花のように、すぐにうつろい衰退するだろう」と言った。これは世人の短命の由縁と言っている。この後に、神吾田鹿葦津姫は、皇孫を見て「私は、天孫の子を妊娠した。私だけでは産めない」と言った。皇孫が 「また天の神子と言っても、どうして一夜で人を妊娠できるのか。そもそも私の子なのか」と言った。木花開耶姫は、とても恥じ恨んで、仕切りの無い小屋を作って、「私が妊娠した、この子がもし他神の子ならば、きっと死んで生まれるだろう。本当に天孫の子ならば、きっと無事に生まれるだろう」と誓って、それでその部屋に入って、火を点けて部屋を焚いた。その時に、焔が最初立ち上がった時に生まれた子を、火酢芹と名付けた。次に火の盛りの時に生まれた子を、火明と名付けた。次に生んだ子を、彦火火出見と名付けた。またの名は火折という。祭りの主は、齋を「いはひ」という。顯露、を「あらはに」という。齋庭、を「ゆには」という。】と訳した。

私は「膂宍」すなわち背骨の肉の表現から、天橋立や海の中道を思い描き、そこが、「むな」国に隣りあう国と理解し、『山海經』の「女祭女戚在其北居兩水閒」と半島の国で素戔嗚の国宗像と思われる丈夫国の近辺だった、女王の国女戚と理解した。

女戚の神を草野姫と理解し、草野姫はもともと野槌という神・木の神が「句句廼馳」で、山や海の神名は無かったが、海の「み」が神で山の神が「かみ」と以前述べたが、その山の神が「山つみ」と考えられ、志賀島から宗像はこの神話によく対応し、磐長姫は草野姫と同時代の「句句廼馳」の前の神話の人物と考えられる。

対馬は対馬海流で流された海士神の海が集まる場所で、対馬の川上にも川神の神がいて、その出会う場所が海辺の河口の津で、そこの王神が「つみ」と呼ばれ、「つみ」の地から船で各地へと交流する場所に津を造り、そこに、配下の「つみ」が定住したのが、各地に「つみ」が存在する理由と思われる。

本文にない火折が記述され、火折が古型と思われ、火の文字を使用しているが、「日」ではなく「ほ」の国の神話だったことがわかり、この一書はいくつもの時代の神話を集めてつなぎ合わせたものと考えられる。   

2021年9月22日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段5

 続けて『日本書紀』慶長版一書()は「・・・乃合八十萬神於天髙市帥以昇天陳其誠款之至時髙皇産靈尊勅大物主神汝若以國神爲妻吾猶謂汝有䟽心故今以吾女三穗津姫配汝爲妻宜領八十萬神永爲皇孫奉護乃使還降之即以紀伊國忌部遠祖手置机負神定爲作笠者彥狹知神爲作盾者天目一箇神爲作金者天日鷲神爲作木綿者櫛明玉神爲作玉者乃使太玉命以弱肩被太手襁而代御手以祭此神者始起於此矣且天兒屋命主神事之宗源者也故俾以太占之卜事而奉使焉髙皇産靈尊因勅曰吾則起樹天津神籬及天津磐境當爲吾孫奉齋矣汝天兒屋命太玉命宜持天津神籬降於葦原中國亦爲吾孫奉齋焉乃使二神陪從天忍穗耳尊以降之是時天照大神手持寶鏡授天忍穗耳尊而祝之曰吾兒視之寶鏡當猶視吾可與同床共殿以爲齋鏡復勅天兒屋命太玉命惟爾二神亦同侍殿內善爲防護又勅曰以吾髙天原所御齋庭之穗亦當御於吾兒則以髙皇産靈尊之女號萬幡姫配天忍穗耳尊爲妃降之故時居於虛天而生兒號天津彥火瓊瓊杵尊因欲以此皇孫代親而降故以天兒屋命太玉命及諸部神等悉皆相授且服御之物一依前授然後天忍穗耳尊復還・・・」、【すなわち八の十の萬神を天の高市に集めて、一緒に天に昇って、その帰順に至った経緯を述べた。その時に高皇産靈は、大物主、「お前はもし国神を妻としたら、私はまだお前が反逆心が有ると思うだろう。だから、今は私の娘の三穗津姫を、お前に娶わすから妻にしなさい。八の十の萬神を率いて、ずっと皇孫のことを守って仕えなさい」と詔勅して、還り降らせた。すなわち紀國の忌部の遠祖の手置帆負を、定めて笠作にした。彦狹知を盾作・天目一箇を金作・天日鷲を木綿作・櫛明玉を玉作にした。すなわち太玉を、貧弱な肩に太い手繦を掛けて、御手代にして、この神を祭らせるのは、ここから始まった。また天兒屋は、神事の主の宗源者である。それで、太占の卜事で、仕へた。高皇産靈は、それで、「私は天の津の神籬および天の津の磐境を起し樹て、私の孫ために身を清めて祀った。お前達天兒屋・太玉は、天の津の神籬を持って、葦原の中國に降って、また私の孫の為に身を清めて祀りなさい」と詔勅した。それで二柱の神を派遣して、天の忍穗耳に従わせて降らせた。この時に、天照大神は手に寶鏡を持って、天の忍穗耳に授けて、祝って、「私の子が、この寶鏡を視るのは、私を視るのと同じだ。床を同じにし、御殿を共にして、祈りの鏡にしなさい」と詔勅した。また天兒屋・太玉に、「お前達二柱の神も、一緒に御殿の中で仕えて、ちゃんと護衛しなさい」と詔勅した。また「私の高天原にいる祈祷の庭の穗を、私の子に任せる」と詔勅した。すなわち高皇産靈の娘の、萬幡姫を、天の忍穗耳に娶わせて妃として降らせた。それで、その時に虛天に居て生まれた子を、天の津彦の火の瓊瓊杵と言う。そのためこの皇孫を親に代って降らせようと思った。それで、天の兒屋・太玉、および諸部の神達を、皆残らず皆授けた。また王の衣を最初に着せて授けた。その後で、天の忍穗耳は、天にまた還った。】と訳した。

八十萬神を八の十の萬神と訳しているが、ここに記述する神々も三穗津姫・大物主・事代主・手置帆負・彦狹知・天目一箇・天日鷲・櫛明玉・天兒屋・太玉と10柱以上記述されず、たくさんの神とは思えないので、10柱の神の萬神と考え、大物主の子大田田根子も『古事記』に「意富多多泥古人之時於河内之美努村見得其人」と河内の人物で、大物主は崇神朝の人物で、この頃の畿内から仲国に天降った神話のようだ。

前項でも安寧朝廷の後の神話としたが、出現する虚天と天を空の文字の代わりにしているので、実際に文書化されたのは、応神紀の285年記事の「習諸典籍於王仁」、実際は400年頃に入って来た中国文献を見て創った造語と考えられ、『山海經』の『山經』の山の上にある天、高山の水源を想定しているようだ。

そして、日本でも、海中六合の天出身の人々が山の上の水源に領地を得て、そこを天と考えて虚天の文字を採用し、『日本書紀』を記述した平郡氏より早く中国文献を見て、表意文字を使い始めた葛城王朝の人々の配下の氏族が記述した一書ではないだろうか。

中臣氏は仲哀天皇の崩御時に「齋宮親爲神主則命武内宿禰令撫琴喚中臣烏賊津使主爲審神者」のように武内宿禰と共に仕え、「嚴之事代主神有之也」と登場人物が類似し、中臣氏が足仲彦の臣下になったことを示している。

2021年9月20日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段4

 『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰天神遣經津主神武甕槌神使平定葦原中國時二神曰天有惡神名曰天津甕星亦名天香香背男請先誅此神然後下撥葦原中國是時齋主神號齋之大人此神今在乎東國檝取之地也既而二神降到出雲五十田狹之小汀而問大己貴神曰汝将以此國奉天神耶以不對曰疑汝二神非是吾處来者故不湏許也於是經津主神則還昇報告時髙皇産靈尊乃還遣二神勅大己貴神曰今者聞汝所言深有其理故更條條而勅之夫汝所治顯露之事宜是吾孫治之汝則可以治神事又汝應住天日隅宮者今當供造即以千尋𣑥繩結爲百八十紐其造宮之制者柱則髙大板則廣厚又将田供佃又爲汝往来遊海之具髙橋浮橋及天鳥舩亦将供造又於天安河亦造打橋又供造百八十縫之白楯又當主汝祭祀者天穗日命是也於是大己貴神報曰天神勅教慇懃如此敢不從命乎吾所治顯露事者皇孫當治吾将退治幽事乃薦岐神於二神曰是當代我而奉從也吾将自此避去即躬披瑞之八坂瓊而長隱者矣故經津主神以岐神爲鄕導周流削平有逆命者即加斬戮歸順者仍加褒美是時歸順之首渠者大物主神及事代主神・・・」、【一書に、天神は、經津主・武甕槌を派遣して、葦原中國を平定させた。その時に二柱が、「天に悪い神がいる。名を天津甕星という。(またの名は天香香背男)。お願いします、まずこの神を誅殺して、それから下って葦原中國を平定しましょう」と言った。この時、祀りの主の神を齋の大人と言う。此の神は、今東國の檝取の地にいる。すでに二柱の神は、出雲の五十田狹の小汀に降ってきて、大己貴に「お前は、この国を、天神に渡すか否か」と問いかけた。「おかしなことを、お前たちは、私の所に仕えに来たのではないのか。許さない」と答えた。そこで、經津主は、昇り帰って報告した。その時に高皇産靈は、また二柱の神を派遣して、大己貴に「今、お前の言うことを聞いたが、お前の言うことは確かにもっともだ。それで、さらに筋を通してお前が治める現実の世界は私の孫が治めるべきだ。お前は神事を治めなさい。またお前が住む天の日隅の宮を今造ろうと、千尋の栲で編んだ、百八十紐を結んで縄にしよう。その宮を造る方法は、柱は高く太い。板は廣く厚くしよう。また直営の農地を与えよう。またお前が海を行き来するために、高橋・浮橋および天の鳥船も造ろう。また天の安河にも打橋を造ろう。また百八十縫いの白楯を造って与えよう。またお前が祭祀の主となるのは、天穗日だ」と詔勅した。そこで、大己貴は「天神のおっしゃることは、とても礼儀正しい。どうして逆らえましょう。私が治める現世界は、皇孫が治めなさい。私は退いて幽事を治めましょう」と返答した。それで二神に、「我に代って従いなさい。私はこれから直ぐに、退去します」と言って岐神を推薦して、それで体に瑞の八坂瓊を着けて、長に隱れた。それで、經津主は、岐神をその郷の導き手にして、巡って平定した。反逆者がいたら惨殺した。帰順したものは、褒美を与えた。この時に、帰順した首領は、大物主と事代主だ。・・・】と訳した。

この一書は穗日が既に出雲に存在し、安寧朝廷の皇后の兄弟の建飯勝の子の武甕槌時代の神話で、大八国・大倭国の主の官位を持つころの神話であるが、天津甕星は『舊事本記』に記述され、葛城氏の配下であり、物部氏にも仕えた中臣氏は特別に氏姓が連なのに葛城氏の圓大使主と同じく、中臣烏賊津使主と使主を使っているように、中臣氏の神話の可能性がある。

すなわち、中臣氏が經津主・武甕槌を使って天降って仲国を支配した神話、実際は岐神が前支配者の「うし・主」を追い出した神話で、岐神は君子国・三国の兵で、支配者「主」を中国史書を見て、「大人国」の王を追い出したので「大人」の文字を当て嵌めたと考えられる。

そして、ここでの登場人物は、『日本書紀』では大己貴・高皇産靈・天穗日は皇祖・神祖の時代、事代主は神武天皇の親の世代、大物主は崇神天皇の世代で『舊事本記』では武甕槌が懿徳天皇の頃で皇祖・神祖の時代、『古事記』では大物主が神武天皇の親の世代である。

すなわち、これらの神々は宮の象徴である初代の人名で、その宮が続く限り、その宮の主がその名を襲名していると考えるべきで、たとえば、建飯勝の子の建甕尻が建甕槌を襲名し、また、建甕之尾(男)を亦の名と記述し、天尾羽張神の子の「建甕槌之男神亦名建布都神」と記述され、「石上布都大神」を襲名していると思われ、垂仁天皇の時に出雲から神宝を石上に遷し、それが、「石上布都大神 」を名乗る理由で、布都大神が饒速日でそれを祀る神子は宇摩志麻治、天孫大祢で、代々天皇と呼ばれるように、代々大国主と呼び、代々大祢と呼ばれたのではないだろうか。

2021年9月17日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段3

   そして『日本書紀』慶長版一書は続けて一書()・・・已而且降之閒先驅者還白有一神居天八達之衢其鼻長七咫背長七尺餘當言七尋且口尻明耀眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也即遣從神往問時有八十萬神皆不得目勝相問故特勅天鈿女曰汝是目勝於人者宜往問之天鈿女乃露其胸乳抑裳帶於臍下而咲㖸向立是時衢神問曰天鈿女汝爲之何故耶對曰天照大神之子所幸道路有如此居之者誰也敢問之衢神對曰聞天照大神之子今當降行故奉迎相待吾名是猨田彥大神時天鈿女復問曰汝将先我行乎将抑我先汝行乎對曰吾先啓行天鈿女復問曰汝何處到耶皇孫何處到耶對曰天神之子則當到筑紫日向髙千穗槵觸之峯吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上因曰發顯我者汝也故汝可以送我而致之矣天鈿女還詣報状皇孫於是脱離天磐座排分天八重雲稜威道別道別而天降之也果如先期皇孫則到筑紫日向髙千穗槵觸之峯其猿田彥神者則到伊 勢之狹長田五十鈴川上即天鈿女命隨猿田彥神所乞遂以相送焉時皇孫勅天鈿女命汝宜以所顯神名爲姓氏焉因賜猿女君之號故猿女君等男女皆呼爲君此其縁也髙胸此云多歌武娜娑歌頗傾也此云歌矛志」、【既に降ってから、先に派遣したものが帰って、「一柱の神がいて、天八達が巷に居て、その鼻の長さ七咫で、背の長さ七尺余り。まさに七尋と言える。また唇の両端が明く輝いて、眼は八咫鏡のように、照り輝いてほおずきに似ている」と聞いた。それで一緒に神を派遣して、調べさせた。その時に八の十の萬神がいた。みな睨みつけて問いただせなかった。それで、特に天鈿女に「お前はこの萬神に勝る者だ。往って問いただせ」と詔勅した。天鈿女は、それで、その乳房を露にかき出だして、裳帶を臍の下に抑えて、笑い声を上げて向き直った。この時に、巷の神が、「天鈿女、お前はどうして聞くのか」と問いかけた。「天照大神の子が行く道に、このように邪魔をするのは誰だと敢えて聞いている。」と答えた。巷の神が、「天照大神の子が、今、降って行くと聞いた。それで、お迎えしようとみんなで待っていた。私の名は、猨田彦大神」と言う。その時、天鈿女は、復、「お前はどうして私に先立って行く。私を遮って先に行こうとする」と問いただした。「私が先頭に立って導く」と答えた。天鈿女は、復、「お前はどこに行こうとする。皇孫は何処に行けばよい」と問いかけた。「天の神の子は、筑紫の日向の高千穗の槵觸峯に行くべきだ。私は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に行く」と答えた。それで、「私を見つけたのは、お前だ。だから、お前は、私を送れ」と言った。天鈿女は、帰って状況を報告した。皇孫は、そこで、天磐座を離れて、天八重雲を押し分けて、神聖な道を押し分けて、天から降った。そして、最初の約束のとおり、皇孫を筑紫の日向の高千穗の槵觸峯についた。その猨田彦は、伊勢の狹長田の五十鈴の川上に着いた。それで天鈿女は、猨田彦の要望通りに、一緒に送った。その時、皇孫は、天鈿女に「お前は、現れた神の名を、氏姓としなさい」と詔勅した。それで、猨女君の名を得た。それで、猨女君達の男女は、皆、君と呼ぶのはこれが由縁だ。高胸、此を「たかむなさか」という。頗傾也、こえを「かぶし」という。】と訳した。

猿田彦の容貌は八岐大蛇と同じ「眼如赤酸醤」と表現し、官名が彦と『三国志』の「狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗」と同じ官位で、鈿女は珍彦と同じ地域の曲浦の人物、この地域の日神(ひみ)の夏磯姫は、「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊」と三種の神器を捧げて景行天皇を迎えた。

『後漢書』で邪馬台国は大倭王(景行天皇)が支配し、『日本書紀』では夏磯姫が代わりに伊都国を支配したと記述し、「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」と伊都国王は縣主と呼ばれ、『三国志』も「伊都國官曰爾支」と官位が主で、大倭国の官位が主だったことを示し、それ以前の大倭王侵略前の官位が彦、伊都国も大倭王が官位を与えたとき伊襲と熊襲の国で狗奴国も熊襲で官位が彦なのだから、伊都も官位は以前、彦だったと思われる。

すなわち、この天降りは前漢の伊都王は日子を名乗り、漢式鏡を副葬する地域に行ったことが、結果的に日向国に天降ることになったことが記述され、日向にも伊勢が有り、葛城神武の東征で、現在の伊勢に引っ越したと考えられ、神功皇后の「神風伊勢國之百傳度」は九州の伊勢神宮、仁徳天皇四十年「雌鳥皇女欲納伊勢神宮」は近江の伊勢神宮で、雄略天皇元年「稚足姫皇女是皇女侍伊勢大神祠」は現代の伊勢国で、平郡氏が『日本書紀』を記述した時に、近江の伊勢も現代の伊勢に変更したと思われる。

2021年9月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段2

  そして『日本書紀』慶長版一書は続けて一書()・・・既而天照大神以思兼神妹萬幡豊秋津媛命配正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊爲妃令降之於葦原中國是時勝速日天忍穗耳尊立于天浮橋而臨睨之曰彼地未平矣不湏也頗傾凶目杵之國歟乃更還登具陳不降之状故天照大神復遣武甕槌神及經津主神先行駈除時二神降到出雲便問大己貴神曰汝将此國奉天神耶以不對曰吾兒事代主射鳥遨遊在三津之碕今當問以報之乃遣使人訪焉對曰天神所求何不奉歟故大己貴神以其子之辭報乎二神二神乃昇天復命而告之曰葦原中國皆已平竟時天照大神勅曰若然者方當降吾兒矣且将降閒皇孫已生號曰天津彥彥火瓊瓊杵尊時有奏曰欲以此皇孫代降故天照大神乃賜天津彥彥火瓊瓊杵尊八坂瓊曲玉及八咫鏡草薙剱三種寶物又以中臣上祖天兒屋命忌部上祖太玉命猨女上祖天鈿女命鏡作上祖石凝姥命玉作上祖玉屋命凢五部神使配侍焉因勅皇孫曰葦原千五百秋之瑞穗國是吾子孫可王之地也宜爾皇孫就而治焉行矣寶祚之隆當與天壤無窮者矣・・・」、【すでに、天照大神は、思兼の妹の萬幡豐秋津媛を、正哉吾勝勝速日天忍穗耳に娶わせて妃とし、葦原中國に降らせた。この時に、勝速日天忍穗耳は、天浮橋に立って、臨み、「あの土地はまだ開けていない。頭をかしげるほど見るに堪えないから必要ない」と言って、すなわち帰って、詳細に降らない理由を言った。それで、天照大神は、また武甕槌、及び經津主を派遣して、先に行って平定するよう命じた。その時に二柱は、出雲に降り到って、すなわち大己貴に「お前は、この國を、天神に引き渡すか否か」と問いただした。「私の子の事代主が、狩りをして、三津の岬にいる。今、返答を待っている」と答えた。それで使者を送った。「天神が求めるのに、どうして引き渡さないものか」と答えて言った。それで、大己貴は、その子の返事で、二柱に報告した。二柱は、それで天に昇って、「葦原中國は、みなすでに平定し終えた」と復命した。その時に天照大神は、「もしそうなら、我が子を降らせよう」と詔勅した。丁度降らせようとしたときに、皇孫が、生れた。名を天津彦彦火瓊瓊杵と言う。この時に「この皇孫を代りに降せようと思う」と奏上した。それで、天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵に、八坂瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙劒の三種の寶物を与えた。また、中臣の上祖の天兒屋・忌部の上祖の太玉・猨女の上祖の天鈿女・鏡作の上祖の石凝姥・玉作の上祖の玉屋、全部で五部を、一緒に仕えさせた。それで、皇孫に「葦原の千五百の秋の瑞穗の國は、我が孫が王であるべき土地だ。お前皇孫よ、王に就いて治めなさい。行きなさい。天子の位が隆盛するように、天の土壌が困らないように」と詔勅した。】と訳した。

ここでは、高皇産霊を記述せず、栲幡千千姫を付加しない萬幡豐秋津媛で、多くの神話をつなぎ合わせる手法がよくわかり、名前で接合したり、親子関係で接合させ、あたかも、同じ人物の神話と見せている。

同一の一書内にもかかわらず、王の爾が弓矢から、玉と鏡と剱に変質し、国譲りの舞台が琵琶湖周辺から中国を支配する出雲に変質し、おそらく、 天津彦根か活津彦根の根国の国譲りを迫った説話に感じられ、安芸王になる思兼や中国王になる天兒屋の神話を内包していると考えられる。

そして、安芸王の思兼の婿の忍穗耳は安芸国の穂の王となって、耳という官位を持ったことを示し、高皇産霊を思兼の父とするのは、日王が高皇産霊と考えられ、その分国の豊国に安芸が支配されたため、神話で親子関係となったと考えられる。

出雲では矛と銅鐸が多数出土し、銅鐸の八国の琵琶湖周辺や君子国の末裔が大八国から追われて、銅矛の宗像の姫を得て出雲に天降った、建飯勝の王朝の遺跡で、孝霊天皇から崇神天皇の頃の出雲臣の遺跡と考えられ、崇神天皇の時に出雲には美鏡が有り、崇神天皇以降に中国への国譲り・天降りが有ったと考えられる。

三種の寶物に八咫鏡・草薙劒がある時点で、多紐文鏡・銅剣が見つかる弥生中期頃の開化・崇神の頃かそれ以降の神話であると解り、中臣氏の初出の遠祖の大鹿嶋が出現するのが前5年の垂仁25年で、神武東征で活躍する天種子が居た時代はこの頃の可能性が高く、中臣氏の祖探湯主が同年に出現し、天種子→宇佐津臣→御食津臣→伊香津臣→梨津臣→神聞勝→久志宇賀主→国摩大鹿嶋の系図があるが、おそらく、神聞勝から国摩大鹿嶋が名で宇佐津臣から 梨津臣は姓の可能性が高く、天種子=神聞勝で探湯主国摩大鹿嶋で中国王・中臣となり、仲足彦のために王位を下されて烏賊津連と配下になったようだ。

2021年9月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第九段1

  日本書紀慶長版は「天照大神の子正哉吾勝勝速日天忍穗耳は、高皇産靈の女𣑥幡千千姫を娶って天津彦彦火瓊瓊杵尊を生んだので、皇祖の高皇産靈が、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵を立てて、葦原中國の主としようとした。それで天穗日を派遣したが大己貴におもねり媚びて三年経っても報告が無かったので、その子の大背飯三熊之大人、またの名は武三熊之大人を派遣したが寝返って父に順って、音沙汰がなかった。それで、天國玉の子天稚彦に天鹿兒弓と天羽羽矢を与えて派遣しが、顯國玉の娘の下照姫(亦の名は高姫、亦の名は稚國玉)を娶って、葦原中國を治めようとしたので殺した。それで、また、磐裂根裂の子、磐筒男・磐筒女が生んだ子の、經津主と天石窟に住む稜威雄走の子甕速日、甕速日の子速日神、速日神の子の武甕槌を派遣し、出雲國の五十田狹之小汀に降り、大己貴に国譲りを求めた。すると、子の事代主神が答えると言ったので殺した。それで大己貴が王の璽である國を平定した時の杖にした廣矛を得た。そして、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵を降らせ、皇孫は日向の襲の高千穗峯に降り、吾田の長屋の笠狹之碕に来て、事勝國勝長狹から国を得て、大山祇神との子の鹿葦津姫(亦の名が神吾田津姫、亦の名は木花之開耶姫)を娶った。それで、火闌降(隼人等の始祖)、彦火火出見、火明(尾張連等の始祖)の三子を生んだ。 天津彦彦火瓊瓊杵が崩じ、筑紫の日向の可愛之山の陵に葬った。」と国譲り・ 天孫降臨を記述している。

この神話は耳や彦の官位を持ち、豊国にまだ支配されていない「なか」国の主(王)になろうとし、出雲臣の祖の穗日や稚彦、これは、子が武三熊之大人と君子国(三国)や君子国の配下の大人国と関係が深そうである。

武甕槌は建飯勝の亦の名で事代主の孫にあたり、穗日を襲名した出雲臣の娘の沙麻奈姫を娶り、耳の官位の渟名川耳は伯父で、祖父事代主の死亡で、後ろ盾が無くなって建飯勝が出雲国主→出雲使主→出雲臣になったようで、5代後が大田田根子と崇神天皇の時代、広矛が有る前漢の時代で背景が良くあてはまる。

この神話に接合した、日向に侵略した火瓊瓊杵、当然この火は漢字が導入された後の表意文字で、日国の日を火山の火に置き換え、火の中から生まれた説話に繋がっていて、実際は穂と考えられ、瑞穂の国の穂で、官位が彦である。

そして『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰天照大神勅天稚彥曰豊葦原中國是吾兒可王之地也然慮有殘賊強暴横思之神者故汝先往平之乃賜天鹿兒弓及天真鹿兒矢遣之天稚彥受勅来降則多娶國神女子經八年無以報命故天照大神乃召思兼神問其不来之狀時思兼神思而告曰宜且遣雉問之於是從彼神謀乃使雉往候之其雉飛下居于天稚彥門前湯津杜樹之杪而鳴之曰天稚彥何故八年之間未有復命時有國神號天探女見其雉曰鳴聲惡鳥在此樹上可射之天稚彥乃取天神所賜天鹿兒弓天真鹿兒矢便射之則矢達雉胸遂至天神所處時天神見其矢曰此昔我賜天稚彥之矢也今何故来乃取矢而呪之若以惡心射者則天稚彥必當遭害若以平心射者則當無恙因還投之即其矢落下中于天 稚彥之髙胸因以立死此世人所謂返矢可畏之縁也時天稚彥之妻子從天降来将樞去上而於天作喪屋殯哭之先是天稚彥與味耜髙彥根神友善故味耜髙彥根神登天弔喪大臨焉時此神形貎自與天稚彥拾然相似故天稚彥妻子等見而喜之曰吾君猶在則攀持衣帶不可排離時味耜髙彥根神忿曰朋友喪亡故吾即来弔如何誤死人於我耶乃拔十握剱斫倒喪屋其屋随而成山此則美濃國喪山是也世人要以死者誤己此其縁也時味耜髙彥根神光儀花艶映于二丘二谷之間故喪會者歌之曰或云味耜髙彥根神之妹下照媛欲令衆人知映丘谷者是味耜髙彥根神故歌之曰(略)此兩首歌辞今號夷曲・・・」、【一書に、天照大神は天稚彦に、「豐葦原中國は、吾が兒が王となる地だ。然しながら考えたら、殘賊強暴悪神がいる。それで、お前がまず言って平定しなさい」と詔勅した。それで天鹿兒弓、及び、天眞鹿兒矢を与えて派遣した。天稚彦は、詔勅を受けて降って来て、多くの国神の中の1女子を娶って、八年に経っても復命しなかった。それで、天照大神は、思兼を召して、帰ってこない理由を調べさせた。その時に、思兼は、考えて、「雉を派遣して調べさせましょう」と言った。そこで、その思兼の考えに従って、雉を使って往って調査させた。雉が飛び下って、天稚彦の門の前の湯津杜樹の梢で、「天稚彦は、何故八年の間経っても、復命しない」と鳴いた。その時に國神がいて、天探女と言った。雉を見て、「鳴聲の煩わしい鳥が、樹の上にいる。射て」と言った。天稚彦は、天神から貰った天鹿兒弓・天眞鹿兒矢を取って、射殺した。それで矢が、雉の胸から、遂に天神の所まで飛んできた。その時に天神は、其の矢を見て、「これは昔私が天稚彦に与えた矢だ。今、何故か飛んできた」と言って、それで矢を取って、「もし邪心を以って射たのなら、天稚彦には、きっと悪いことが起こる。若し穏やかな気持ちで射たのなら、何も起こらない」と呪った。それで、射返した。それで、その矢が落下して、天稚彦の胸に命中した。それで死んだ。これが、世の人が、所謂、返矢は畏しいと言うい由縁だ。この時に、天稚彦の妻子達が、天から降って来て、柩をもって上って行って、天に喪屋を作って殯して哭いた。これより前に、天稚彦と味耜高彦根は仲が良かった。それで、味耜高彦根は、天に登って喪に服して弔問に臨んだ。この時に、此の神の容貌が、天稚彦とよく似ていた。それで、天稚彦の妻子達は、見て喜んで、「私の夫はまだ生きていた」と言った。それで帶にしがみついて、振り払えなかった。その時に味耜高彦根は、「朋友が死んだ。それで、私は弔いに遣って来た。どうしてその死人と見誤るのだ」と怒って、それで、十握劒を拔いて、喪屋を切り倒した。その喪屋が崩れ落ちて山と成った。これが美濃國の喪山だ。世の人は、死者と他人を見誤ることを忌むのは、これが由縁だ。この時の、味耜高彦根の、様子は煌びやかで2山・2谷にわたる程輝いた。それで、喪で集まった者が歌って、あるいは、味耜高彦根の妹の下照媛が、衆人に丘谷に映える者が、味耜高彦根ということを知らしめようと思い、歌った(略)この2首の歌は、今、夷曲と呼ぶ。】と訳した。

この一書は、本文が、穂日の丹波大国への国譲りに対して、天穂日の説話が無く、天穂日が出雲王となった後の説話となっているが、これは、国譲りも、忍穗耳の天降り、忍穗耳の子の瓊瓊杵の天降り説話、穗日・天津彦根・活津彦根・熊野樟日の其々の国譲り神話があったことが想定される。

『日本書紀』・『古事記』で天降るのが瓊瓊杵で『舊事本記』で天降るのが饒速日で、父の忍穗耳事態が複数人いて、すなわち、時代が違う、国が違う忍穗耳がいて、弟が先に天降る神話が先在したことをこの神話は示している。

弓矢が王の璽である、一番最初の日国の穂にやって来た、穂という地域で王を日と呼ぶ時代、王の日によって日国が統一され、その王が稚という地域で日子と呼ばれた次の時代の神話、日子と同じように根子という王がいるのだから、根に天降った八国若しくは大八国王の配下の彦という官位を持つ王の神話が有り、それらの神話の一部をつなぎ合わせて『日本書紀』本文の神話を作り上げたと考えられ、この一書は、美濃の説話が語られるので、三国か近江の神話の可能性が高い。


2021年9月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段12

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は戻って第八段7に続けて「・・・次五十猛握神亦云大屋彦神次大屋姫神次抓津姫神巳上三柱坐紀伊國則紀伊國造齋祠神也次事八十神次大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社次須勢理姫神大三輪大神嫡后也次大年神次稲倉魂神亦云宇迦能御玉神次葛󠄀木一言主神坐倭國玉上郡兒大己貴神亦名大國主神亦云大物主神亦云國造大穴牟遅命亦云大國玉神亦云顯見國玉神亦云葦原醜雄命亦云八千矛神並有八名乎其子凡有百八十一神也先取宗像興都嶋神田心姫命生一男一女兒味鉏高彦根神坐倭國葛󠄀上郡髙鴨神云捨篠社妹下照姫命坐倭國葛󠄀上郡雲櫛社次娶坐邊都宮髙降姫神生一男一女兒都味齒八重事代主神坐倭國髙市郡髙市社亦云甘南備飛鳥社妹髙照光姫大神命坐倭國葛󠄀上郡御歳神社次娶稲羽八上姫生一兒兒御井神亦名木俣神次娶髙志河沼姫生一男兒建御名方神坐信濃國諏方郡諏方神社孫都味齒八重事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝材女活玉依姫生一男一女兒 天日方奇日方命此命橿原朝御世勑為食國政申大夫共奉妹(?)五十鈴命此命橿原朝立為皇后誕生二兒即神渟名河耳天皇 次彦八井耳命是也次妹五十鈴依姫命此命葛󠄀城髙岳朝立爲皇后誕生一兒即磯城津彦玉手看天皇也三世孫天日方奇日方命亦名阿田都久志(?)命此娶日向賀牟度美良姫生一男一女兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后誕生四兒即大日本根子彦耕支天皇次當津彦命々次磯城津彦命次研貴彦友背命四世孫建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫生一男五代孫建甕尻命亦名建甕槌命亦云建甕之尾命此命伊勢幡主女賀貝召姫為妻生一男六世孫豊御氣主命 亦名建甕依命此命紀伊名草姫為妻生一男七世孫大御氣主命此命大倭國民磯姫生二男八世孫阿田賀田須命和迩石等祖次建飯賀田須命此命鴨部美良姫為妻生一男九世孫大田田祢古命亦名大直祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻生一男十世孫大御氣持命此命出雲鞍山祇姫爲妻生三男十一世孫大鴨積命此命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓次大友主命此命同朝御世賜大神君姓次田田彦命此命同朝御世神部直大神部直姫次大年神凡御子十六神先娶須沼比神女伊怒姫爲妻生子五柱兒大国御魂神大和神也次韓神次曽富理神次白日神次聖神次娶賀用姫爲妻生子二兒年記御神兒大香山戸神次御年神次娶天知迦流美豆姫爲妻生九兒兒興津彦神次興津姫命此二神者諸人拝祠竈神者也次大山咋神此神者近淡海比叡山亦坐葛󠄀野郡松尾用鳴鏑神者也次庭津日神次阿須波神次波比岐神次香山戸神次羽山戸神次須庭高津日神次大土神亦名土之御祖神次羽山戸神凡御子八柱大気都姫神爲妻生八柱兒若山咋神次若年神妹若沙郡賣神次弥豆麻岐神次夏髙津日神亦名夏之女神次秋比女神次冬年神次冬記若室葛󠄀根神」とあり、訳は系図なので必要無いと考えた。

この項は、『舊事本記』の考える素戔嗚から系図が記述され、『舊事本記』は伊弉冉を「伊弉冉尊葬於紀伊國熊野之有馬村焉」と紀伊に居たと記述し、根国が紀伊にあったので、素戔嗚が根国の紀伊に赴任したから、その子達が紀伊に祀られているとしているようだ。

『舊事本記』に神武天皇を「即少年時号狭野尊也」のように「さの」と呼び、紀伊熊野から畿内に侵入し、素戔嗚(素のさの男)と類似して、素戔嗚は根国に来て、その根国が『舊事本記』は伊弉冉の出身地で葬った場所の熊野と類推し、その根国王の根子が大田田根子で御諸山の神を背景にしていると述べている。

このように、根国が複数あり、根国は葬った場所、初代の王を祀った場所を根国と呼ぶと私は考え、剱根は紀伊熊野の伊弉冉の墓を守っていた人物の意味で、ある地域の王が死後を支配する足尼や根神、すなわち神の子の根子・根国の天子と考えられる。

すなわち、廟を祀る神が根で、宮を守る神が神で岐国の宮の神が君で王が君子、その配下の神が臣で臣は隠岐神すなわち隠君が岐神に支配されて隠神→臣と記述され、大国の臣が大臣、中国の臣が中臣、日国の臣が日臣と呼ばれたのではないだろうか。

すなわち、『古事記』は神武天皇を「若御毛沼・豊御毛沼・三毛野」と「みけ」が語幹で、大御気主が大倭国の民磯姫と婚姻しているように丹波・山背の地域の神武で、其々の王朝に其々の素戔嗚・大己貴・事代主・神武天皇が存在する。

神武天皇の名が神倭磐余彦と、これは葛城氏の役職名としたが、葛城氏は神武天皇の時、三国と野洲国が支配する国の磐余で将軍を拝命していたことを意味し、天皇が野洲王事代主と三国王女活玉依姫の子の鞴五十鈴と天日方奇日方が神武天皇の朝廷だったと考えられる。

次代が建飯勝と渟中底姫が皇位を継承したが、飯勝が失脚して建氏を賜姓され、息石耳が継承し、娘婿の磯城彦・娘の天豊津媛が皇位を継承し、配下の葛城氏の磯城津彦が天皇磯城彦の妹の川派媛を妃として義弟となって、野洲王の配下の大国王耜友と役職名(大八足彦)を持ったと考えられる。


2021年9月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段11

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故其八上比賣者雖率來畏其嫡妻須世理毘賣而其所生子者刺挾木俣而返故名其子云木俣神亦名謂御井神也八千矛神將婚高志國之沼河比賣幸行之時到其沼河比賣之家歌曰夜知富許能迦微能美許登波夜斯麻久尓都麻々岐迦泥弖登々富々斯故志能久迩々佐加志賣遠阿理登岐加志弖久波志賣遠阿理登伎許志弖佐用婆比尓阿理多々斯用婆比迩阿理加用婆勢多知賀遠母伊麻陀登加受弖游須比遠母伊麻陀登加泥婆遠登賣能那須夜伊多斗遠游曽夫良比和何多々勢禮婆比許豆良比和何多多勢禮婆阿遠夜麻迩奴延波那伎佐怒都登理岐藝斯波登與牟尓波都登理迦都波那久宇禮多久母那久那留登理加許能登理母宇知夜米許世泥伊斯多布夜阿麻波勢豆加比許登能加多理其登母許遠婆尓其沼河比賣未開戸自内歌曰夜知富許能迦微能美許等怒(奴)延久佐能賣迩志阿禮婆和何許々呂宇良須能登理劔伊麻許曽婆和梯理迩阿良米能知婆那梯理尓阿良牟遠伊能知波那志勢多麻比曽伊斯多布夜阿麻波世豆迦比許登能加多理基登母許遠婆阿遠夜麻迩比賀迦久良婆奴婆多麻能用波伊傳那牟阿佐比能恵美佐迦延岐弖多久豆怒能斯路岐多陀牟岐阿和由岐能和加夜流牟流遠曽陀多岐多々岐麻那賀理麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐毛々那賀尓伊波那佐牟遠阿夜尓那古斐岐許志麻知富許能迦微能美許登許登能迦多理碁登母許遠婆故其夜者不合而明日夜爲御合也又其神之適告須勢理毘賣命甚爲嫉妬故其日子遅神和備弖自出雲將上坐倭國而來装立時片御手者繋御馬之鞍片御足蹈入其御鐙而歌曰奴婆多麻能久路岐美祁斯遠麻都夫佐尓登理與曽比游岐都登理牟那美流登岐婆多々藝母許禮婆布佐波受弊都那美曽迩奴岐宇弖蘇迩杼理能阿遠岐美祁斯遠麻都夫佐迩登理與曽比游岐都登理牟那美流登岐婆多々藝母許母布佐婆受弊都那美曽迩奴棄宇弖夜麻賀多尓麻岐斯阿多尼都岐曽未紀賀斯流迩斯米許呂母遠麻都夫佐迩登理與曽比游岐都登理牟那美流登岐婆多々藝母許斯與呂志伊刀古夜能伊毛能美許等牟良登理能和賀牟禮伊那婆比氣登理能和賀比氣伊那婆那迦上登波那布登母夜麻登能比登母登須々岐宇那加夫斯那賀那加佐麻久阿佐阿米能疑理迩多々牟劔和加佐久佐能都麻能美許登許登能加多理碁登母許遠婆尓其云取大御酒坏立依指舉而歌曰夜知富許能加微能美許登夜阿賀游富久迩奴斯許曽波遠迩伊麻世婆宇知微流斯麻能佐岐耶岐加岐微流伊蘇能佐岐游知受和加久佐能都麻母多勢良米阿波母與賣迩斯阿禮婆那遠岐弖遠婆那志那遠岐弖都麻波那斯阿夜加岐能布波夜賀斯多尓牟斯夫須麻尓古夜賀斯多尓多久夫須麻佐夜具賀斯多尓阿和由岐能和加夜流牟泥遠多久豆怒能斯路岐多陀牟岐曽陀多岐多々岐麻那賀理麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐毛那賀迩伊遠斯那世登與美岐多弖麻都良世如此歌即爲宇岐由比而宇那賀氣理弖至今鎮坐也此謂之神語也故此大國主神娶坐胸形奥津宮神多紀理毘賣命生子阿遅鋤高日子根神次妹高比賣命亦名下光比賣命此之阿遅鋤高日子神者今謂迦毛大御神者也大國主神亦娶神屋楯比賣命生子事代主神亦娶八嶋牟遅能神之女鳥耳(取)神生子鳥鳴汝(海)神(訓鳴云那留)此神娶曰名照額田毗道男伊許知迩神生子國忍富神此神娶葦那陀迦神亦名八河江比賣生子速甕之多氣佐波夜遅奴美神此神娶天之甕主神之女前玉比賣生子甕主日子神此神娶游加美神之女比那良志毘賣生子多比理岐志麻流美神此神娶比比羅木之其花麻豆美神之女活玉前玉比賣神生子美呂浪神此神娶敷山主神之女青沼馬沼押比賣生子布忍富鳥鳴海神此神娶若盡女神生子天日腹大科度美此神娶天狭霧神之女遠津待根神生子遠津山岬多斯神右件自八嶋士奴美神以下遠津山岬帯神以前稱十七世神・・・」、【それで、その八の比賣を連れて来たが、その嫡妻の須世理毘賣を恐れて、その生んだ子を、木の俣に刺し挾んで帰った。それで、その子を名づけて木俣といい、亦の名を御井と言う。この八千矛は、高志國の沼河比賣と婚姻しようと、幸行した時、その沼河比賣の家に来て、歌った(略)。それで、その夜は会わずに帰って、翌日の夜、会った。また、その嫡后の須勢理毘賣は、とても嫉妬した。それで、その日子遲の和備弖が出雲から倭國に上っていて、束裝つけて立つ時に、片手は馬の鞍にかけ、片足はその鐙に蹈み入れて、歌った(略)。このように歌って、盃を交わして今に至るまで鎭坐している。これを神語という。(系図略)】と訳した。

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「・・・其八上姫者難率來而畏其嫡妻須勢理姫而(?)生之子者判挾木俣名其子云木俣神亦名謂御井神也大巳貴命將婚高志國之沼河姫行幸之時至其沼河姫家歌日云云如此歌即為宇佐田北而宇那賀氣理之至今鎮坐此謂神語矣素戔烏尊此尊與天照太神共誓約則(?)生三女是爾兒早田心姫命亦名奥津嶋姫命亦瀛津嶋姫命坐宗像興津宮是(?)居于遠瀛嶋者也次市杵嶋命亦佐依姫命云云中津嶋姫命坐宗像中津宮是(?)居于中嶋者也次湍津姫命亦名多岐都姫命亦名遺津嶋姫命坐宗像邊都宮是(?)居于海濵者也巳上三神天照太神(?)生三女之神是汝兒也因授素戔烏尊則降居於葦原中國冝降居於筑紫國宇佐嶋在比海道中号日道中貴因教之日奉(?助 目+)天孫而爲天孫(?)祭即宗像君(?)祭也亦云水沼君祭並三柱神宗像君齋祠三前大神也・・・」と宗像の女神を記述するが、子は記述しない。

この説話によって、大国主が越や宗像に女漁りをした奇妙な神話が、実際は時代が違う、葦原色許男と大穴牟遲と八千矛と大國主の説話が合わさったものと解り、大国主は稚彦が若狭に天降った時代で 阿遲鋤高日子根が稚彦の友で稚彦の喪屋が美濃にあるのは八国の山をを越えれば美濃で理に適い、同じ根神の剱根が葛城の始祖で地域が接近し、「惶根」が始祖神であった可能性が有る。

伊弉冉の出身地の根国は、『日本書紀』本文に葬った場所が記述されず、一書に紀伊国熊野有馬村と記述し『古事記』は出雲と伯伎との堺の比婆山と異なり、平郡王朝は紀伊から三輪山近辺・難波・山背と根神を始祖とする葛城氏等の勢力が増し、その王が大田田根子・山背根古・眞根子・難波根子達と考えられ、巨勢氏の女系が比婆山出身だったと考えられる。

天皇名は葛城氏の役職名と思われ、天皇名が隠されていて、記紀に記述されない、『舊事本記』等に記述される人物が天皇の可能性が高く、『古事記』には宗像の神話を詳細に記述し、物部氏や蘇我氏にとっては、重要な氏族と考えられ、産霊は宗像の素という地域の日神と考えるべきかもしれない。

ある王が八国の姫を娶って三国王御井、これは神八井の、高志の沼河比賣、高志は八俣遠呂智、八俣遠呂智は君子国の北の八足八尾の天呉の国で八国の沼河比賣、沼河比賣は神渟名川耳と同郷の人物で、神渟名川耳は神八井の兄弟(義兄弟)、神渟名川耳の神は三国配下を意味し、耳は三国配下の神を意味する役職・姓であり、『古事記』の『日本書紀』に出現しない神話は『日本書紀』の神武から崇神近辺までの部分の葛城氏の神話と考えられる。

2021年9月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段10

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・其大神出見而告此者謂之葦原色許男命即喚入而令寝其蛇室於是其妻須勢理毘賣命以蛇比禮授其夫云其蛇將咋以此比禮三舉打撥故如教者蛇自静故平寝出之亦來日夜者入呉公與蜂室亦授呉公蜂之比礼教如先故平出之亦鳴鏑射入大野之中令採其矢故入其野時即以火廻焼其野於是不知所出之間鼠來云内者富良富良外者須須夫夫如此言故蹈其處者落隠入之間火者焼過尓其鼠咋持其鳴鏑出來而奉也其矢羽者其鼠子等皆喫也於是其妻須世理毘賣者持喪具而哭來其父大神者思已所訖出立其野尓持其矢以奉之時率入家而喚入八田間大室而令取其頭之虱故尓見其頭者呉公多在於是其妻以牟久木實與赤土授其夫故咋破其木實含赤土唾出者其大神以爲咋破呉公唾出而於心思愛而寝尓握其神之髪其室毎椽縁著而五百引石取塞其室戸負其妻須世理毘賣即取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而逃出之時其天詔琴拂樹而地動鳴故其所寝大神聞驚而引仆其室然解結椽髪之間遠逃故尓追至黄泉比良坂遥望呼謂大穴牟遅神曰其汝所持之生大刀生弓矢以而汝庶兄弟者追伏坂之御尾亦追撥河之瀬而意礼爲大國主神亦爲宇都志國主(玉)神而其我之女須世理毘賣爲嫡妻而於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理於高天原氷椽多迦斯理而居是奴也故持其大刀弓追避其八十神之時毎坂御尾追伏毎河瀬追撥而始作國也故其八上比賣者如先期美刀阿多波志都・・・」、【それでその大神が出て見て、「これは言わば葦原色許男だ。」と告げて、喚び入れて、その蛇の部屋に寢させた。そこでその妻の須勢理毘賣は、蛇の比禮をその夫に授けて「その蛇が咋いつこうとしたら、この比禮を三回持ち挙げて打ちはらいなさい。」と言った。それで、教のようにしたら、蛇は自然に静まった。それで、平穏に寝て出てきた。また明くる夜は、百足と蜂の部屋に入れたので、また百足と蜂の比禮を授けて、先のように教えた。それで、難なく出てきた。また鳴り鏑を大野の中に入射して、その矢を採せた。それで、その野に入った時、火でその野を周りから焼いた。脱出口が解らなかったが、鼠が来て、「中は富良富良」と言った。この様に言って、そこを踏んだら、落ちて隱れている間に火は焼いて過ぎ去った。そこでその鼠は、その鳴り鏑をくわえて持って、出で来て渡した。その矢の羽は、その鼠の子達が皆、食った。そこでその妻の須世理毘賣は、喪具を持って、哭いてやって来て、その父の大神は、もう死んだと思ってその野に出て立った。そこにその矢を持ってきたので、家に引き入れて、八田の間の大室に喚び入れて、その頭の虱を取らせた。それでその頭を見ると、百足が多くいた。そこにその妻が、むくの木の実と赤土を取って、その夫に授けた。それで、その木の実を食い破って、赤土を含んで吐き出すと、その大神は、百足を咋ひ破って吐き出したと思って、心から愛しく思って寝た。そこでその神の髮を握って、その部屋のたるき毎に結び著けて、五百引の石でその部屋の戸を塞いで、その妻の須世理毘賣を背負って、その大神の生大刀と生弓矢と、その天の詔り琴を取り、持って逃げ出した時、その天の詔り琴が樹に触れて地が震えて鳴った。それで、寝ている大神が、聞いて驚き、その部屋を引き倒した。しかしたるきに結った髮を解く間に、遠くへ逃げた。それで黄泉比良坂に追って来て、遥に望み、大穴牟遲を呼んで、「お前が持っている生大刀・生弓矢で、お前の庶兄弟を、坂の尾に追い伏せ、また河の瀬に追ひはらって、意禮大國主となり、亦宇都志國玉となって、我が娘の須世理毘賣を嫡妻にして、宇迦の山の麓に、底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷椽多迦斯理ていなさい。こやつめ」と言った。それで、その大刀と弓を持って、その八の十柱を追ひ出した時に、坂の御尾毎に追ひ伏せて、河の瀬毎に追ひはらって、始めて國を作った。それで、その八の比賣は、先の約束通り、婚姻した。】と訳した。

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「・・・故隨詔命而(?)到於速素戔烏尊御(?)者其女須勢理姫命出見為目合而相婚還人白其父言甚麗神來矣尓其大神出見而造此者謂之葦原色許男即喚入而令覆其蛇室於是其妻須勢理命以蛇比禮授其夫云其蛇將坐以此禮三擧打揆故如教者蛇自靜故乎寝出覆來日夜者八蜈公與虻室亦授蜈公蜂之此禮教如先故乎出矣覆鳴鏑射入於大野之中令採其矢故入其野時則以火廻焼其野於是不知(?)出之間時(?)來云内者冨良外者須須夫如此言故蹋其處者落隠入間火者焼過尓其(?)子等皆喫矣於是須世理姫者持(?)具而哭來其父大神者思巳死訖出自其野矣尓時其矢以奉之時率入家而喚入以田間大室而令取其頭虬之故令咋其夫故咋破々其木實含赤玉唾出其大神以為咋破呉公唾出而於心思愛而寝尓(?握 木片)其神之髪於室毎掾結著而五百引石取塞其室戸負其妻須勢理姫即取持其大神生太刀與生弓矢及天河(?)琴而逃出之時其天詔琴拂樹而地動鳴因(?)寝大神聞驚而引伏其室然解結掾髪之間遠逃矣尓追至黄泉平坂揺望呼謂大巳貴神日其汝(?)持之生太刀生弓矢以此事汝庶兄者追伏坂之御尾亦澄河之瀬而意禮爲大國主神亦爲顯見國主神其我之女須世理姫爲嫡妻而於宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理於高天原水様高知而居是奴也故持其大弓追避其八十神之時毎坂御尾追伏毎河瀬追澄而始作國矣・・・」とあり、『古事記』とほゞ同様である。

百足を呉公と記述しているが、『山海經』に「八岐大蛇」を表現した君子国三国の北に「八首人面八足八尾」の「朝陽之谷」があり、その神を「天呉」と記述していて、百足と記述するのは天呉が八百神が支配する事を意味していて、八国の神を貶めた説話で、蛇は八岐大蛇を意味し、比禮は日禮・日神を祀ることを意味していると考えられる。

すなわち、これは、神(三)国が木国を併合して君(きみ)国の王の君子になった時の説話で宇迦に宮殿を造り、猾(うかし)は宇迦主の意味と思われ、神倭(三八)王が宇迦主を破った説話が神武東征の始まりである。

そして、「底津石根宮柱」と所謂大黒柱を建てることが建国の象徴で、瓊々杵も『舊事本記』に「底津石根宮柱太敷而於高天原」、神武天皇は『日本書紀』も共に「太立宮柱於底磐之根」と大黒柱を建て、伊弉諾・伊弉冉も「磤馭慮嶋爲國中之柱」と大黒柱を拠り所に国生みを行い、大日貴自体が「天柱」と呼び、現代でも神を数える時、柱と数える。

2021年9月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段9

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故尓八十神怒欲殺大穴牟遅神共議而至伯伎國之手間山本云赤猪在此山故和禮共追下者汝待取若不待取者必將殺汝云而以火焼似猪大石而轉落尓追下取時即於其石所焼著而死尓其御祖命哭患而参上于天請神産巣日之命時乃遣𧏛臭(貝)比賣與蛤貝比賣令作活尓𧏛貝比賣岐佐宜集而蛤臭(貝)比賣待承而塗母乳汁者成麗壮夫(訓壮夫云袁等古)而出遊行於是八十神見且欺率入山而切伏大樹茹矢打立其木令入其中即打離其水自矢而拷殺也尓亦其御祖哭乍求者得見即析其木而取出活告其子言汝者有此間者遂爲八十神所滅乃速遣於木國之大屋毘古神之御所尓八十神覓追臻而矢刺乞時自木俣漏逃而云可参向須佐能男命所坐之根堅州國必其大神議也故随詔命而参到須佐之男命之御所者其女須勢理毘賣出見爲自(目)合而相婚還入白其父言甚麗神來尓・・・」、【それで八の十柱は怒って、大穴牟遲を殺そうと一緒に相談して、伯伎の國の手間の山本について、「赤い猪がこの山にいる。それで、和禮が一緒に追ひ下すので、お前は待って捕まえろ。もし待って捕まえなかったら、きっとお前を殺す。」と言って、火で猪に似た大石を燒いて、転げ落した。それで追ひ下したものを取る時、その石に焼き付いて死んだ。それでその祖は、泣き憂いて、天に參上して、神産巣日にお願いした時、乃ち𧏛貝比賣と蛤貝比賣とを派遣して、もとどうりに復活させた。それで𧏛貝比賣は、削り集めて、蛤貝比賣は、待ち受けとり、母の乳汁と塗ったら、麗しい壯夫に成って、外出して歩き回った。そこで八の十柱は、また騙して山に引き入れ、大樹を切り伏せて、茹でた矢を楔としてその木に打ちつけ、その中に入ったら、その楔を打ち離して、打ちたたいて殺した。それでまた、その祖は、哭いて救いを求めると、睨みつけて、その木を折って取り出し復活させて、その子に、「お前はここにいたら、いつか八の十柱の爲に滅ぼされる。」と告げて、それで木國の大屋毘古の所にすぐに派遣した。そこに八の十柱は追い求めてやって来て、矢で刺そうとした時に、木の俣から漏れ逃がれて「須の佐能男のいる根の堅州國に行きなさい。きっとその大神が相談に乗る。」と言った。それで、言われたとおりに、須の佐能男の所に行くと、その娘の須勢理毘賣が出て来て、見染めて、婚姻して、還って来て、その父に「とても麗いある神が来た。」と言った。】と訳した。

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「・・・因斯事八十神急欲殺大巳貴神共議而到伯耆國之手向山本云赤猪在此山故吾共追下者汝待取若不待取者必將殺汝云而以火焼似猪大石而轉落尓追下取時即於其石(?)焼著而死矣尓其御祖命哭患而叅上于天請神髙皇産靈尊之時乃造訓黒具姫與蛤貝八姫命作治尓訓黒貝姫岐佐冝集而蛤具姫侍承而塗母乳汁者成麗帳夫而出遊行矣事八十神且欺率八山而切狀大樹茄矢打立其手合入其木中則打離其氷目矢而栲殺矣尓亦其御祖命哭乍求者得見即折其木而取出治矣御祖命告其子言汝有此間者遂為八十神(?)滅矣乃速遣於紀國之大屋彦神御所八十神覔追臻而矢(?)之時自木俣漏而逃矣御祖命告子云可(?)速素戔烏尊(?)坐之根之堅(?)國必其大神議矣」、とほゞ同じである。

この説話は大國建国説話の「三身」の綱で建国した後の説話で三(神)国の産巣の神名が「ひ」の神になっていて、木国の王が「日子」の官位を持ち、安寧天皇から懿徳天皇の頃の「八国」衰退時の前6世紀頃の神話と考えられる。

因幡が和珥で伯耆が和禮で、『古事記』が神武天皇を神倭と「みや」の「や」を倭と書き換えて特別視していることから、この和珥や和禮も八珥・八禮のことで、因幡も伯耆も八国の構成国と解り、大八国の説話と考えられ、宗像(日国)・小国・三国・八国・安芸国・岐(隠岐・対岐・壱岐)国・道国(因幡・伯耆)・木国と大国と八つの国があったので神話を造った恐らく野洲の人物が、自国のや国に八の国が配下になったことで八国と記述したと考えられる。

君子国の三国王の溝橛が八国王の事代主に敗れて、前7世紀に神倭国となり、日国の援助を受けた大国の大巳貴に神倭国が敗れて大倭国(磯城王朝)、前5世紀は剱根が皇位を奪って東鯷国、前3世紀には物部氏による辰国、前1世紀は大彦の大国に敗れて分裂し、物部氏の伊勢遺跡の秦国と尾張氏の貴(木)国(日本国)、東鯷国は若狭・大国・中国(豊国)を分家が支配し、後漢時代には『後漢書』に「大倭王居邪馬台國」と倭奴国も配下としたと考えられる。

2021年9月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・所以避者其八十神各有欲婚稲羽之八上比賣之心共行稲羽時於大穴牟遲神負佩(帒)爲從者率往於是到氣多之前時裸菟伏也尓八十神謂其菟云汝將爲者浴此海塩當風吹而伏高山尾上故其菟從八十神之教而伏尓其塩随乾其身皮悉風見吹析故痛苦泣伏者最後之來大穴牟遅神見其菟言何由汝泣伏菟荅言條(僕)在淤岐嶋雖欲度此地無度因故欺海和迩(此二字以音下効此)言吾與汝競欲計族之多少故汝者随其族在悉率來自此嶋至于氣多前皆列伏度尓吾蹈其上走乍讀度於是知與吾挨熟多如此言者見欺而列伏之時吾蹈其上讀度來今將下地時吾云汝者我見欺言竟即伏最端和迩神(捕)我悉剥我衣服因此泣患者先行八十神之命以誨告浴海塩當風伏故爲如教者我身悉傷於是大穴牟遲水門以水洗汝身即取其水門之捕(蒲)黄敷散而輾転其上者汝身如本膚必差故爲如教其身如本也此稲羽之素菟者也於今者謂菟神也故其菟白大穴牟遅神此八十神者必不得八上比賣雖負佩(帒)汝命獲之於是八上比賣八十神言吾者不聞汝等之言將嫁大穴牟遅神・・・」、【支配されることになったのは、その八の十柱が、各々、稻羽の八の比賣と婚姻しようと考えて、一緒に稻羽に行った時、大穴牟遲に帒を負わせ、従者として連れて行った。そして氣多の前についた時、裸の菟が伏せっていた。そこに八の十柱は、その菟に、「お前がするべきは、この潮を浴び、風が吹くのにあたって、高山の尾の上に伏っていなさい。」と言った。それで、その菟は、八の十柱の教えどおり伏ていた。しだいにその塩が乾くと、その体の皮が残らず風に吹きさらされて裂けてしまった。それで、痛み苦しんで泣き伏せっていると、最後に来た大穴牟遲が、その菟を見て、「どうしてお前は泣き伏せっている。」と言うと、菟が「私は隠岐の島にいて、この地に渡ろうとしたが、方法が無かった。それで、海の和迩を欺して、『私とお前が競って、同族の多少を調べよう。それで、お前はその同族の在るまま、残らず率いて来て、この島から気多の前まで、皆並べ伏して差し渡せ。そこを私がその上を蹈み数えて渡ろう。それでに私の同族とどちらが多いか調べよう。』と言った。この様に言ったら、騙されて列をなして伏せったので、私はその上を踏んで、数え渡って来て、今にも地に降りようとしたとき、私は、『お前は私に騙された。』と言ひ終わると、最後に伏せった和迩が、私を捕えて残らず私の衣服を剥いだ。そのため泣き患いていたら、先に行った八の十柱に、『潮を浴びて、風にあたって伏せていなさい。』と教えられた。それで、教えどうりしていたら、私の体が傷んだ。」と言った。そこで大穴牟遲は、その菟に、「今、すぐにこの水門に往って、水でお前の体を洗って、その水門の蒲の穂を取って、敷き散らして、その上で転げまわれば、お前の体はもとどうりに、きっと癒える。」と教えた。それで、教のとおりに、その体が本どうりになった。これが稻羽の素菟だ。今は菟の神という。それで、その菟が、大穴牟遲に、「これらの八の十柱は、きっと八の比賣を得られない。帒を背負っていても、お前が得るだろう。」と言った。そこで八の比賣は、八の十柱に答へて「私はお前たちの言うことを聞かない。大穴牟遲に嫁ぐ。」と答えた。】と訳した。

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は一部前後させて「・・・大巳貴兄事八十神也夫所以奉避此國於大巳貴神者兄弟二神各有欲(?)羽稻八上姫之心共行稲羽之時於大巳貴神負袋爲願従者率往相是到於氣多﨑之時裸(?)有狀矣于時兄事八十神謂其(?)白汝將爲者浴此海塩當風吹而伏髙尾山上其(?)隨八十神教而伏之時其塩隨乾其身皮悉風見吹故病若泣々伏矣其最後來大穴遅神大巳貴神見其(?)言何由汝泣付伏(?)荅言僕在於岐嶋雖欲渡此地不由渡傳故欺海和迩言吾與汝競欲計族之多少故汝者隨其族在皆悉率來始自此嶋迄氣多崎背列伏渡尓吾蹋其上乍走讀渡爰知與吾族熟多如此言者見欺而列伏之時吾蹋其上讀渡々來今將下地時吾云汝者我見欺言竟則伏最端和迩捕吾悉剥我衣服因此泣患者先行事八十神令以誨告浴塩當風伏故爲如教者我身悉傷矣大巳貴神教告其(?)今急往此水門以水洗汝身即取其水門之蒲黄敷散而轉其上者汝身如本薦必差故爲如教其身如本矣今謂稲羽素(?)(?)神是也于時(?)白大巳貴神云八十神者必不得八上姫雖負袋而汝命獲矣於其八上姫荅八十神云不聞汝等之言將嫁於大巳貴神矣・・・」とあり、『古事記』とほとんど類似しているが、『舊事本記』は兄弟2神として、『舊事本記』は古代の神話を現実的に理解している。

この説話は最も古い大穴牟遲の説話で、『日本書紀』に出現しない説話ということは、巨勢氏と平郡氏の家系で異なる系図は雄略天皇の皇后が葛城氏、巨勢氏の皇后が和珥臣なので、和珥臣の神話が基と考えられ、う狭岐すなわち「う」という「狭」国の神が因幡に出兵して和珥氏の先祖と戦い敗れた時に、八国の十臣も和珥氏の先祖に加担したのを、丹波大国王の大穴牟遲がう狭岐を助け、八国の女王を妻にすることが出来たという神話と思われる。

この神話の舞台は、稲葉、大国である丹波・山背、神国は三国で、その東には能登の八岐大蛇がいて、三国と思われる「君子國」の北に「兩水間」と半島の住人で「八首人面八足八尾」の「朝陽之谷」があり,「神」がいると『山海經』に記述され、「三国」は「神国」のことだ。

八国は奈良県に事代主が居たのだから、大和より東で能登から建御名方が諏訪に逃げているので、少なくとも諏訪、時代は殷以前なので、勢力範囲は土器の共通性から越後までが八国の勢力範囲だったと考えられ、「八国」の起源を私は「野洲」と考え、若国は若狭、木(貴)国は木津、君主国は三国から木津までの日本海・琵琶湖西岸・淀川水系の地域と考えている。