2021年9月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段11

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故其八上比賣者雖率來畏其嫡妻須世理毘賣而其所生子者刺挾木俣而返故名其子云木俣神亦名謂御井神也八千矛神將婚高志國之沼河比賣幸行之時到其沼河比賣之家歌曰夜知富許能迦微能美許登波夜斯麻久尓都麻々岐迦泥弖登々富々斯故志能久迩々佐加志賣遠阿理登岐加志弖久波志賣遠阿理登伎許志弖佐用婆比尓阿理多々斯用婆比迩阿理加用婆勢多知賀遠母伊麻陀登加受弖游須比遠母伊麻陀登加泥婆遠登賣能那須夜伊多斗遠游曽夫良比和何多々勢禮婆比許豆良比和何多多勢禮婆阿遠夜麻迩奴延波那伎佐怒都登理岐藝斯波登與牟尓波都登理迦都波那久宇禮多久母那久那留登理加許能登理母宇知夜米許世泥伊斯多布夜阿麻波勢豆加比許登能加多理其登母許遠婆尓其沼河比賣未開戸自内歌曰夜知富許能迦微能美許等怒(奴)延久佐能賣迩志阿禮婆和何許々呂宇良須能登理劔伊麻許曽婆和梯理迩阿良米能知婆那梯理尓阿良牟遠伊能知波那志勢多麻比曽伊斯多布夜阿麻波世豆迦比許登能加多理基登母許遠婆阿遠夜麻迩比賀迦久良婆奴婆多麻能用波伊傳那牟阿佐比能恵美佐迦延岐弖多久豆怒能斯路岐多陀牟岐阿和由岐能和加夜流牟流遠曽陀多岐多々岐麻那賀理麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐毛々那賀尓伊波那佐牟遠阿夜尓那古斐岐許志麻知富許能迦微能美許登許登能迦多理碁登母許遠婆故其夜者不合而明日夜爲御合也又其神之適告須勢理毘賣命甚爲嫉妬故其日子遅神和備弖自出雲將上坐倭國而來装立時片御手者繋御馬之鞍片御足蹈入其御鐙而歌曰奴婆多麻能久路岐美祁斯遠麻都夫佐尓登理與曽比游岐都登理牟那美流登岐婆多々藝母許禮婆布佐波受弊都那美曽迩奴岐宇弖蘇迩杼理能阿遠岐美祁斯遠麻都夫佐迩登理與曽比游岐都登理牟那美流登岐婆多々藝母許母布佐婆受弊都那美曽迩奴棄宇弖夜麻賀多尓麻岐斯阿多尼都岐曽未紀賀斯流迩斯米許呂母遠麻都夫佐迩登理與曽比游岐都登理牟那美流登岐婆多々藝母許斯與呂志伊刀古夜能伊毛能美許等牟良登理能和賀牟禮伊那婆比氣登理能和賀比氣伊那婆那迦上登波那布登母夜麻登能比登母登須々岐宇那加夫斯那賀那加佐麻久阿佐阿米能疑理迩多々牟劔和加佐久佐能都麻能美許登許登能加多理碁登母許遠婆尓其云取大御酒坏立依指舉而歌曰夜知富許能加微能美許登夜阿賀游富久迩奴斯許曽波遠迩伊麻世婆宇知微流斯麻能佐岐耶岐加岐微流伊蘇能佐岐游知受和加久佐能都麻母多勢良米阿波母與賣迩斯阿禮婆那遠岐弖遠婆那志那遠岐弖都麻波那斯阿夜加岐能布波夜賀斯多尓牟斯夫須麻尓古夜賀斯多尓多久夫須麻佐夜具賀斯多尓阿和由岐能和加夜流牟泥遠多久豆怒能斯路岐多陀牟岐曽陀多岐多々岐麻那賀理麻多麻傳多麻傳佐斯麻岐毛那賀迩伊遠斯那世登與美岐多弖麻都良世如此歌即爲宇岐由比而宇那賀氣理弖至今鎮坐也此謂之神語也故此大國主神娶坐胸形奥津宮神多紀理毘賣命生子阿遅鋤高日子根神次妹高比賣命亦名下光比賣命此之阿遅鋤高日子神者今謂迦毛大御神者也大國主神亦娶神屋楯比賣命生子事代主神亦娶八嶋牟遅能神之女鳥耳(取)神生子鳥鳴汝(海)神(訓鳴云那留)此神娶曰名照額田毗道男伊許知迩神生子國忍富神此神娶葦那陀迦神亦名八河江比賣生子速甕之多氣佐波夜遅奴美神此神娶天之甕主神之女前玉比賣生子甕主日子神此神娶游加美神之女比那良志毘賣生子多比理岐志麻流美神此神娶比比羅木之其花麻豆美神之女活玉前玉比賣神生子美呂浪神此神娶敷山主神之女青沼馬沼押比賣生子布忍富鳥鳴海神此神娶若盡女神生子天日腹大科度美此神娶天狭霧神之女遠津待根神生子遠津山岬多斯神右件自八嶋士奴美神以下遠津山岬帯神以前稱十七世神・・・」、【それで、その八の比賣を連れて来たが、その嫡妻の須世理毘賣を恐れて、その生んだ子を、木の俣に刺し挾んで帰った。それで、その子を名づけて木俣といい、亦の名を御井と言う。この八千矛は、高志國の沼河比賣と婚姻しようと、幸行した時、その沼河比賣の家に来て、歌った(略)。それで、その夜は会わずに帰って、翌日の夜、会った。また、その嫡后の須勢理毘賣は、とても嫉妬した。それで、その日子遲の和備弖が出雲から倭國に上っていて、束裝つけて立つ時に、片手は馬の鞍にかけ、片足はその鐙に蹈み入れて、歌った(略)。このように歌って、盃を交わして今に至るまで鎭坐している。これを神語という。(系図略)】と訳した。

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「・・・其八上姫者難率來而畏其嫡妻須勢理姫而(?)生之子者判挾木俣名其子云木俣神亦名謂御井神也大巳貴命將婚高志國之沼河姫行幸之時至其沼河姫家歌日云云如此歌即為宇佐田北而宇那賀氣理之至今鎮坐此謂神語矣素戔烏尊此尊與天照太神共誓約則(?)生三女是爾兒早田心姫命亦名奥津嶋姫命亦瀛津嶋姫命坐宗像興津宮是(?)居于遠瀛嶋者也次市杵嶋命亦佐依姫命云云中津嶋姫命坐宗像中津宮是(?)居于中嶋者也次湍津姫命亦名多岐都姫命亦名遺津嶋姫命坐宗像邊都宮是(?)居于海濵者也巳上三神天照太神(?)生三女之神是汝兒也因授素戔烏尊則降居於葦原中國冝降居於筑紫國宇佐嶋在比海道中号日道中貴因教之日奉(?助 目+)天孫而爲天孫(?)祭即宗像君(?)祭也亦云水沼君祭並三柱神宗像君齋祠三前大神也・・・」と宗像の女神を記述するが、子は記述しない。

この説話によって、大国主が越や宗像に女漁りをした奇妙な神話が、実際は時代が違う、葦原色許男と大穴牟遲と八千矛と大國主の説話が合わさったものと解り、大国主は稚彦が若狭に天降った時代で 阿遲鋤高日子根が稚彦の友で稚彦の喪屋が美濃にあるのは八国の山をを越えれば美濃で理に適い、同じ根神の剱根が葛城の始祖で地域が接近し、「惶根」が始祖神であった可能性が有る。

伊弉冉の出身地の根国は、『日本書紀』本文に葬った場所が記述されず、一書に紀伊国熊野有馬村と記述し『古事記』は出雲と伯伎との堺の比婆山と異なり、平郡王朝は紀伊から三輪山近辺・難波・山背と根神を始祖とする葛城氏等の勢力が増し、その王が大田田根子・山背根古・眞根子・難波根子達と考えられ、巨勢氏の女系が比婆山出身だったと考えられる。

天皇名は葛城氏の役職名と思われ、天皇名が隠されていて、記紀に記述されない、『舊事本記』等に記述される人物が天皇の可能性が高く、『古事記』には宗像の神話を詳細に記述し、物部氏や蘇我氏にとっては、重要な氏族と考えられ、産霊は宗像の素という地域の日神と考えるべきかもしれない。

ある王が八国の姫を娶って三国王御井、これは神八井の、高志の沼河比賣、高志は八俣遠呂智、八俣遠呂智は君子国の北の八足八尾の天呉の国で八国の沼河比賣、沼河比賣は神渟名川耳と同郷の人物で、神渟名川耳は神八井の兄弟(義兄弟)、神渟名川耳の神は三国配下を意味し、耳は三国配下の神を意味する役職・姓であり、『古事記』の『日本書紀』に出現しない神話は『日本書紀』の神武から崇神近辺までの部分の葛城氏の神話と考えられる。

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