『日本書紀』慶長版一書は一書(3)「一書曰初火燄明時生兒火明命次火炎盛時生兒火進命又曰火酸芹命次避火炎時生兒火折彦火火出見尊凢此三子火不能害及母亦無所少損時以竹刀截其兒臍其所棄竹刀終成竹原故號彼地曰竹屋時神吾田鹿葦津姫以卜定田號曰狹名田以其田稻釀天甜酒嘗之又用淳浪田稻爲飯嘗之」、【一書に、初め火炎が明るい時に生んだ子は、火明。次に火炎が盛んな時に生んだ子は、火進。または、火酢芹。次に火炎が小さくなる時に生んだ子は、火折彦火火出見という。すべてで三人の子は、火で害されなかった。母もまた少しも傷つかなかった。その時に竹の刀で、その子の臍の緒を切った。その棄てた竹の刀は、とうとう竹林となった。それで、その地を竹屋と名付けたと言う。その時に神吾田鹿葦津姫が、占って決めた田を、狹名田と呼んだという。その田の稻を、天のおいしい酒に釀もして供えた。また渟浪田の稻を用いて、飯にして供えた。】と訳した。
『日本書紀』慶長版一書は一書(4)「一書曰髙皇産靈尊以真床覆衾裹天津彥國光彥火瓊瓊杵尊則引開天磐戸排分天八重雲以奉降之于時大伴連遠祖天忍日命帥来目部遠祖天槵津大来目背負天磐靫臂著稜威髙鞆手捉天梔弓天羽羽矢及副持八目鳴鏑又帶頭槌剱而立天孫之前遊行降来到於日向襲之髙千穗槵日二上峯天浮橋而立於浮渚在之平地膂宍空國自頓丘覓國行去到於吾田長屋笠狹之御碕時彼處有一神名曰事勝國勝長狹故天孫問其神曰國在耶對曰在也因曰隨勅奉矣故天孫留住彼處其事勝國勝神者是伊弉諾尊之子也亦名鹽土老翁」、【一書に、高皇産靈は、床に敷く寝具を、天津彦國光彦火瓊瓊杵にまとい、天の磐戸を引き開けて、天の八重雲をおし分けて降った。その時に、大伴連の遠祖の天の忍日と、來目部の遠祖の天の槵津の大來目を率いて、天の磐靫を背負い、肘には威光がある高鞆を着けて、手には天の赤黄色の弓と天の羽羽矢をとって、八の目が有る鏑矢を一緒に持って、また持ち手が槌の形をした劒を帯びて、天孫の前に立って、降って来て、日向の襲の高千穗の槵日の二上の峯の天の浮橋に到り、渚に浮かぶ平地に立って、背筋の肉のような空国を、急な丘の上から国を探し回り、吾田の長屋の笠狹の岬に着いた。その時そこに一柱の神がいて、名を事勝國勝長狹と言った。それで、天孫は、その神に「國が在るか」と問いかけた。「在る」と答えた。それで、「詔勅のとうり差し上げましょう」と言った。それで、天孫は、そこに留り住んだ。その事勝國勝は、伊奘諾の子だ。またの名は鹽土老翁という。】と訳した。
ここの一書は本文とは異なる鹿葦津姫と亦の名の神吾田津姫の合成や、火折と彦火火出見の合成、本文に出現しない忍日などの人名や大伴氏の祖の出現は神武紀、鹽土老翁は海幸伝説で海神のいる場所に案内し、異なる場面での出現を記述している。
私は、これまでも「天」国の王が天子、「神(み)」国の王が神子(みこ)とのべ、王の子達が「みこと」と述べてきたが、これは、すなわち、「みこと」が神の孫なのだから、天子の子達が天孫、すると、神孫は皇の表音は「み」だったので、皇孫が「み」国の孫達にあたる。
そして、王の名はこのようにインフレを起こし、本来、史上最初の王は「むすひ」の「ひ」が神祖で「日」国の初代の王は「霊(ひ)」、すなわち、「神」国の初代の王が「神(み)」で『山海經』の「神霊」、そして、殷以前には「神霊」の他には「聖」と「倭」と「大人」が存在し、「聖」は「日後」で「三身国」の王たちのことと理解でき、「三身国」の王たちも「聖」すなわち後の「日」、そして、その子達が「日子」・「日女」で「日別」などの王達は日孫の「人(日と)」となる。
一書(4)の時代は、宇摩志摩治・兄弟の髙倉下と鹽土老翁の「じ」と同じ官位がある時代で、大伴連の祖の日臣は高倉下の居住地で神剣の「韴靈(帶頭槌剱?)」を得た日臣や大久米が記述され、高倉下の親が饒速日と日国の構成国の「速」国の王、母親が天道日女と「速」国の分国の「道」国王で、高倉下(手栗彦)が「日子」、その子がおそらく忍日、その妻が忍日女で忍日は「日臣」と呼ばれ、神武東征で「道国」が速日国の配下となり、日臣が道臣と名を変えたと考えられる。
そして、大伴の連の祖が出現するのは「垂仁天皇二五年」で「我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇惟叡作聖」のように「崇神天皇は聖」と述べている時に記述され、崇神天皇の東征の時の説話と考えられ、朝廷を開いた時、「我皇祖大啓鴻基其後聖業逾髙王風」と聖業・ひじりの政治と述べている。
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