2021年9月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段12

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は戻って第八段7に続けて「・・・次五十猛握神亦云大屋彦神次大屋姫神次抓津姫神巳上三柱坐紀伊國則紀伊國造齋祠神也次事八十神次大巳貴神坐倭國城上郡大三輪神社次須勢理姫神大三輪大神嫡后也次大年神次稲倉魂神亦云宇迦能御玉神次葛󠄀木一言主神坐倭國玉上郡兒大己貴神亦名大國主神亦云大物主神亦云國造大穴牟遅命亦云大國玉神亦云顯見國玉神亦云葦原醜雄命亦云八千矛神並有八名乎其子凡有百八十一神也先取宗像興都嶋神田心姫命生一男一女兒味鉏高彦根神坐倭國葛󠄀上郡髙鴨神云捨篠社妹下照姫命坐倭國葛󠄀上郡雲櫛社次娶坐邊都宮髙降姫神生一男一女兒都味齒八重事代主神坐倭國髙市郡髙市社亦云甘南備飛鳥社妹髙照光姫大神命坐倭國葛󠄀上郡御歳神社次娶稲羽八上姫生一兒兒御井神亦名木俣神次娶髙志河沼姫生一男兒建御名方神坐信濃國諏方郡諏方神社孫都味齒八重事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝材女活玉依姫生一男一女兒 天日方奇日方命此命橿原朝御世勑為食國政申大夫共奉妹(?)五十鈴命此命橿原朝立為皇后誕生二兒即神渟名河耳天皇 次彦八井耳命是也次妹五十鈴依姫命此命葛󠄀城髙岳朝立爲皇后誕生一兒即磯城津彦玉手看天皇也三世孫天日方奇日方命亦名阿田都久志(?)命此娶日向賀牟度美良姫生一男一女兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后誕生四兒即大日本根子彦耕支天皇次當津彦命々次磯城津彦命次研貴彦友背命四世孫建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫生一男五代孫建甕尻命亦名建甕槌命亦云建甕之尾命此命伊勢幡主女賀貝召姫為妻生一男六世孫豊御氣主命 亦名建甕依命此命紀伊名草姫為妻生一男七世孫大御氣主命此命大倭國民磯姫生二男八世孫阿田賀田須命和迩石等祖次建飯賀田須命此命鴨部美良姫為妻生一男九世孫大田田祢古命亦名大直祢古命此命出雲神門臣女美氣姫為妻生一男十世孫大御氣持命此命出雲鞍山祇姫爲妻生三男十一世孫大鴨積命此命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓次大友主命此命同朝御世賜大神君姓次田田彦命此命同朝御世神部直大神部直姫次大年神凡御子十六神先娶須沼比神女伊怒姫爲妻生子五柱兒大国御魂神大和神也次韓神次曽富理神次白日神次聖神次娶賀用姫爲妻生子二兒年記御神兒大香山戸神次御年神次娶天知迦流美豆姫爲妻生九兒兒興津彦神次興津姫命此二神者諸人拝祠竈神者也次大山咋神此神者近淡海比叡山亦坐葛󠄀野郡松尾用鳴鏑神者也次庭津日神次阿須波神次波比岐神次香山戸神次羽山戸神次須庭高津日神次大土神亦名土之御祖神次羽山戸神凡御子八柱大気都姫神爲妻生八柱兒若山咋神次若年神妹若沙郡賣神次弥豆麻岐神次夏髙津日神亦名夏之女神次秋比女神次冬年神次冬記若室葛󠄀根神」とあり、訳は系図なので必要無いと考えた。

この項は、『舊事本記』の考える素戔嗚から系図が記述され、『舊事本記』は伊弉冉を「伊弉冉尊葬於紀伊國熊野之有馬村焉」と紀伊に居たと記述し、根国が紀伊にあったので、素戔嗚が根国の紀伊に赴任したから、その子達が紀伊に祀られているとしているようだ。

『舊事本記』に神武天皇を「即少年時号狭野尊也」のように「さの」と呼び、紀伊熊野から畿内に侵入し、素戔嗚(素のさの男)と類似して、素戔嗚は根国に来て、その根国が『舊事本記』は伊弉冉の出身地で葬った場所の熊野と類推し、その根国王の根子が大田田根子で御諸山の神を背景にしていると述べている。

このように、根国が複数あり、根国は葬った場所、初代の王を祀った場所を根国と呼ぶと私は考え、剱根は紀伊熊野の伊弉冉の墓を守っていた人物の意味で、ある地域の王が死後を支配する足尼や根神、すなわち神の子の根子・根国の天子と考えられる。

すなわち、廟を祀る神が根で、宮を守る神が神で岐国の宮の神が君で王が君子、その配下の神が臣で臣は隠岐神すなわち隠君が岐神に支配されて隠神→臣と記述され、大国の臣が大臣、中国の臣が中臣、日国の臣が日臣と呼ばれたのではないだろうか。

すなわち、『古事記』は神武天皇を「若御毛沼・豊御毛沼・三毛野」と「みけ」が語幹で、大御気主が大倭国の民磯姫と婚姻しているように丹波・山背の地域の神武で、其々の王朝に其々の素戔嗚・大己貴・事代主・神武天皇が存在する。

神武天皇の名が神倭磐余彦と、これは葛城氏の役職名としたが、葛城氏は神武天皇の時、三国と野洲国が支配する国の磐余で将軍を拝命していたことを意味し、天皇が野洲王事代主と三国王女活玉依姫の子の鞴五十鈴と天日方奇日方が神武天皇の朝廷だったと考えられる。

次代が建飯勝と渟中底姫が皇位を継承したが、飯勝が失脚して建氏を賜姓され、息石耳が継承し、娘婿の磯城彦・娘の天豊津媛が皇位を継承し、配下の葛城氏の磯城津彦が天皇磯城彦の妹の川派媛を妃として義弟となって、野洲王の配下の大国王耜友と役職名(大八足彦)を持ったと考えられる。


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