そして『日本書紀』慶長版一書は続けて一書(1)「・・・已而且降之閒先驅者還白有一神居天八達之衢其鼻長七咫背長七尺餘當言七尋且口尻明耀眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也即遣從神往問時有八十萬神皆不得目勝相問故特勅天鈿女曰汝是目勝於人者宜往問之天鈿女乃露其胸乳抑裳帶於臍下而咲㖸向立是時衢神問曰天鈿女汝爲之何故耶對曰天照大神之子所幸道路有如此居之者誰也敢問之衢神對曰聞天照大神之子今當降行故奉迎相待吾名是猨田彥大神時天鈿女復問曰汝将先我行乎将抑我先汝行乎對曰吾先啓行天鈿女復問曰汝何處到耶皇孫何處到耶對曰天神之子則當到筑紫日向髙千穗槵觸之峯吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上因曰發顯我者汝也故汝可以送我而致之矣天鈿女還詣報状皇孫於是脱離天磐座排分天八重雲稜威道別道別而天降之也果如先期皇孫則到筑紫日向髙千穗槵觸之峯其猿田彥神者則到伊 勢之狹長田五十鈴川上即天鈿女命隨猿田彥神所乞遂以相送焉時皇孫勅天鈿女命汝宜以所顯神名爲姓氏焉因賜猿女君之號故猿女君等男女皆呼爲君此其縁也髙胸此云多歌武娜娑歌頗傾也此云歌矛志」、【既に降ってから、先に派遣したものが帰って、「一柱の神がいて、天八達が巷に居て、その鼻の長さ七咫で、背の長さ七尺余り。まさに七尋と言える。また唇の両端が明く輝いて、眼は八咫鏡のように、照り輝いてほおずきに似ている」と聞いた。それで一緒に神を派遣して、調べさせた。その時に八の十の萬神がいた。みな睨みつけて問いただせなかった。それで、特に天鈿女に「お前はこの萬神に勝る者だ。往って問いただせ」と詔勅した。天鈿女は、それで、その乳房を露にかき出だして、裳帶を臍の下に抑えて、笑い声を上げて向き直った。この時に、巷の神が、「天鈿女、お前はどうして聞くのか」と問いかけた。「天照大神の子が行く道に、このように邪魔をするのは誰だと敢えて聞いている。」と答えた。巷の神が、「天照大神の子が、今、降って行くと聞いた。それで、お迎えしようとみんなで待っていた。私の名は、猨田彦大神」と言う。その時、天鈿女は、復、「お前はどうして私に先立って行く。私を遮って先に行こうとする」と問いただした。「私が先頭に立って導く」と答えた。天鈿女は、復、「お前はどこに行こうとする。皇孫は何処に行けばよい」と問いかけた。「天の神の子は、筑紫の日向の高千穗の槵觸峯に行くべきだ。私は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に行く」と答えた。それで、「私を見つけたのは、お前だ。だから、お前は、私を送れ」と言った。天鈿女は、帰って状況を報告した。皇孫は、そこで、天磐座を離れて、天八重雲を押し分けて、神聖な道を押し分けて、天から降った。そして、最初の約束のとおり、皇孫を筑紫の日向の高千穗の槵觸峯についた。その猨田彦は、伊勢の狹長田の五十鈴の川上に着いた。それで天鈿女は、猨田彦の要望通りに、一緒に送った。その時、皇孫は、天鈿女に「お前は、現れた神の名を、氏姓としなさい」と詔勅した。それで、猨女君の名を得た。それで、猨女君達の男女は、皆、君と呼ぶのはこれが由縁だ。高胸、此を「たかむなさか」という。頗傾也、こえを「かぶし」という。】と訳した。
猿田彦の容貌は八岐大蛇と同じ「眼如赤酸醤」と表現し、官名が彦と『三国志』の「狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗」と同じ官位で、鈿女は珍彦と同じ地域の曲浦の人物、この地域の日神(ひみ)の夏磯姫は、「上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡下枝挂八尺瓊」と三種の神器を捧げて景行天皇を迎えた。
『後漢書』で邪馬台国は大倭王(景行天皇)が支配し、『日本書紀』では夏磯姫が代わりに伊都国を支配したと記述し、「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」と伊都国王は縣主と呼ばれ、『三国志』も「伊都國官曰爾支」と官位が主で、大倭国の官位が主だったことを示し、それ以前の大倭王侵略前の官位が彦、伊都国も大倭王が官位を与えたとき伊襲と熊襲の国で狗奴国も熊襲で官位が彦なのだから、伊都も官位は以前、彦だったと思われる。
すなわち、この天降りは前漢の伊都王は日子を名乗り、漢式鏡を副葬する地域に行ったことが、結果的に日向国に天降ることになったことが記述され、日向にも伊勢が有り、葛城神武の東征で、現在の伊勢に引っ越したと考えられ、神功皇后の「神風伊勢國之百傳度」は九州の伊勢神宮、仁徳天皇四十年「雌鳥皇女欲納伊勢神宮」は近江の伊勢神宮で、雄略天皇元年「稚足姫皇女是皇女侍伊勢大神祠」は現代の伊勢国で、平郡氏が『日本書紀』を記述した時に、近江の伊勢も現代の伊勢に変更したと思われる。
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