2021年4月30日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書第一段 3

  次の一書、一書()一書曰天地初判始有倶生之神號國常立尊次國狹槌尊又曰髙天原所生神名曰天御中主尊次髙皇産靈尊次神皇産靈尊皇産靈此云美武湏毘【一書に、天地初めてわかれたときに、始めてともに生れたがいる。國常立という。次に國狹槌。又、高天原に生れ神の名を、天御中主という。次に高皇産靈。次に神皇産靈。皇産靈これをみむすひというと訳した。

 この一書は常立国の神話で、なか国の祖神が皇産靈でその国の王が中主でなか国を狹槌の国が奪ったと述べ、豊国となか国が入れ替わって、『古事記』の神話はこの天御中主の国すなわち中(なか)国の神話で、『古事記』を作成した王の建国後に平郡氏が建国した国に奪取されたようで、主という官位がある時代の神話だ。

神皇産靈は君子国三国の神で、神の霊が支配する日国を支配したとする神話と考えられ、その国を高皇産靈が支配したと示し、神国を三国に文字を当て嵌めたのは、神の「み」と三身国を支配下にしていたことからと考えられ、『後漢書』には邪馬台国を大倭王が支配したとある。

『日本書紀』を平郡氏が最初に纏めた時、臣が尾張王朝の姓のため、自王朝の「おみ」に使主と文字を当て嵌め、使は押や忍の意味で支配することを意味し、主は国神を意味したようで、御中主は押中国主・中臣のことで、まだ臣の姓がないのに臣を使う中臣や日臣・道臣の臣は大倭国の配下の国神の臣・使主を意味したと考えられ、景行の時代にこれらが臣下となったと考えられる。

次の一書、一書()一書曰天地未生之時譬猶海上浮雲無所根係其中生一物如葦牙之初生埿中也便化爲人號國常立尊【一書にいまだ天地生れていない時に、たとへば海上に浮雲の根がどこにもつながらないようだ。その中に一の物生れ。葦牙初めて埿の中に生れたようだ。すなはち人と化った。國常立という。】と訳した。

この一書は一書()の内容を流用して創った常立が建国した「ね」国の神話で、神話が変化していく過程がよくわかり、帝俊の国を生んだ神話が『山海經』に記述されるのは、既に殷以前から、神の合祀が始まり、帝俊に合祀していた可能性があり、その為帝俊が多くの国を生んでいる。

次の一書、一書()一書曰天地初判有物若葦牙生於空中因此化神號天常立尊次可美葦牙彥舅尊又有物若浮膏生於空中因此化神號國常立尊【一書に、天地初めてわか時にあるがあった。葦牙のようで何もないところから生れ。此った神を、天常立という。次に可美葦牙彦舅。又物あって浮かぶ膏のように何もない中に生れ。これった神を、國常立という。】と訳した。

 この一書は一書()の王朝を常立の海流の上流の母国の「天」の王が日を奪取した神話で、葦牙彥舅と常立を入れ替え、葦牙彥舅と常立は同等で習合・合祀した神で、おそらく、父方と母方の神話を融合したのだろう。

我々は、この神の系譜を系図と勘違いしているが、実際は神達の上下関係を表し、「亦は」は習合・合祀させた神で征服者が被征服者を同じ神と宣言することで被征服者を征服者と同等の人々と扱うことで反乱を抑え、その筆頭者の神が征服者である。

それは、270年即位の応神天皇と390年即位で応神天皇十六年「百濟阿花王薨」と記述された応神天皇と、396年即位で応神天皇二五年「百濟直支王薨」と記述された応神天皇がいるのと同じで、常立は縄文時代の常立と弥生時代の常立と古墳時代の常立がいて、ひとまとめにしてる。

大国主を「亦名謂大穴牟遅神亦名謂葦原色許男神亦名謂八千矛神亦名謂宇都志國玉神」はキリストを種々の名で呼ばないように大国主は大国王で大穴牟遅や葦原色許男などではなく、後代に大穴牟遅や葦原色許男の子孫が大国主の子孫に臣従して、初代を大国主と同じ時代に当て嵌めたのに過ぎない。

2021年4月28日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書第一段 2

  次の一書、一書()一書曰古國稚地稚之時譬猶浮膏而漂蕩于時國中生物狀如葦牙之抽出也因此有化生之神號可美葦牙彥舅尊次國常立尊次國狹槌尊葉木國此云播舉矩爾可美此云于麻時【一書、昔、国が出来たばかり、土地が出来たばかりの時に、譬へば浮ぶ膏のようにただよっていたある時に、の中にある生れ状態は、葦ぬけ出でたようだったこれがかわって生まれたがいた。可美葦牙彦舅尊という。次に国の常立尊。次に国の狹槌尊。葉木、此をばはこくにいう。可美、これをうましと云。】と、訳した。

 この一書は内容に豊国のかわりに葉木国が記述され、葉木国の神話ということが解り、一書()の常立の国は葉木にあり、その国を「可美葦牙彦舅」が海からやって来て葉木を奪取したと記述し、葦牙彦の国は語幹から豊国に併合された「豊葦原」が一番ふさわしいと考えられ、『日本書紀』の書き出しは可美葦牙彦舅」の神話を採用したと考えられる

可美葦牙彦舅は蛭子が葦船で水葬されたように船がある葦国が想定され、「彦」は『三国志』の「對馬國其大官曰卑狗」の「卑狗」で上位国に任命された長官程度の地位の人物で、この葦国の牙という地域の彦の舅という人物が建国した彦を冠位に持つ時代にできた「じ」を神と呼ぶ神話で、彦は本来、中国の天国の王が天子であるように、日国の王が「日子」で、「神国」の王が「神子」・みこ、「き神国」の王が「きみこ(君子)」、根国の王が「根子」で、後漢時代、敦賀の王の神功皇后は大倭王の「き」神子の君子で邪馬台国を統治したが、それを奪った魏・晋時代の邪馬壹国女王が日神子の卑弥呼である。

『三国志』では「彦」を「卑狗」と記述し、『古事記』は「日子」・「比古」・「毘古」・「日高」を使用するが、『日本書紀』がどうして「彦」の文字を使用したかを考え、私は、呉と西晋で活躍した吾彦が呉の人物の為「呉彦」と呼ばれ、倭国では元嘉二年425年、部下に「司馬」を使ったように、官位の表音「卑狗」を表意文字として英雄の名「彦」を用い、それが、日向国出身の葛城朝の扶桑国が用いたのではないかと考えている。

次の一書、一書()一書曰天地混成之時始有神人焉號可美葦牙彥舅尊次國底立尊彥舅此云比古尼【一書、天わってできた時に、始めて神がいた。可美葦牙彦舅尊という。次に国の底立尊。彦舅此をばひこぢと云。】と訳した。

 この一書は一書()の底立の国を奪っ可美葦牙彦舅が日国を建国した王「日子」と述べているが、『日本書紀』の常立が生まれる接頭語「含牙」はこの牙彦舅のもので、牙彦舅を常立に書きかえたと考えられ、「三身国」・日国の建国神話でその前に底立、すなわち、「ち」という霊の国があった。

すなわち、彦舅の「ぢ」も「ち」の神と同一時代の『山海經』の神霊の霊を意味したと考えられ、連・倉下の「ぢ」も同じく霊を崇拝する土地神の呼称だったと考えられ、殷時代より前に日本での2大人種の融合が始まっと考えられ、弥生人と縄文人は縄文時代には帝俊達によって既に始まっていたことが解る。

2021年4月26日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第一段1

  それでは、今回から一書の分析を、本文と対比することで、本文を検証するだけでは解らなかったことを発見していこうと思う。

『日本書紀』本文は、天地の創めで、常立・狹槌・斟渟を記述していて、これは、『日本書紀』の王朝の最初に王を意味する日本語が「ぬ」で、おそら、「ぬ」という国名、「産靈」の「ひ」も国名、おそらく、小字名が王名を意味し、斟渟にのみ「豊」と国の名を有して、「ち」の神が豊の国を奪った、時代の豊国の神話のようである。

最初の一書、簡易的に()と番号をつけて(以下同様)一書()一書曰天地初判一物在於虛中狀貌難言 其中自有化生之神號國常立尊亦曰國底立尊次國狹槌尊亦曰國狹立尊次豊國主尊亦曰豊組野尊亦曰豊香節野尊亦曰浮經野豊買尊亦曰豊國野尊亦曰豊囓野尊亦曰葉木國野尊亦曰見野尊、【一書に、天地初めて別れるときに、一の物が空虚の中に在った状態も形状も言うことが出来ない。其の中に自づからに化り生れたが有った。國常立尊という。亦は國底立尊。次に國狹槌尊。亦は國狹立尊。次に豐國主尊。亦は豐尊。亦は豐香節尊。亦は浮經豐買尊。亦は豐尊。亦は豐齧尊。亦は葉木尊。亦は見尊。】と訳してみた。

この一書は同系の3氏族神話を纏めた、其々時代が異なる、大元の氏族からいつ別れたかによって、神の名前が異なる説話を纏めたことを意味し、最後が一番古く、最初が新しい神話と考えられ、葦牙から生まれた説話の影響を受けていない。

『伊未自由来記』の「木葉比等」は『日本書紀』の葉木国を前提に文字選択したと考えられ、木の文字も「木祖句句廼馳」が前提、葉も同地域の「日向泉長媛生大葉枝皇子小葉枝皇子」と後漢時代以前の「拘奴國」の神話で、『伊未自由来記』の「木葉比等」、但し、「木葉比等」は最初の流入者なので、後から来た入れ墨を施した人々がこの地域から来たと考えられる。

すでに、國という概念があり、狹槌国主という地位を与えている、そんな時代の神話がこの一書で、垂仁天皇七年「出雲國有勇士曰野見宿禰」は出雲の配下の野見国王の意味で豊のの見(=神)王(=宿祢)と考えればよく合致し、「狹」は『舊事本紀』の「狭霧尊」の出身地である

丹波の大国主は越と宗像の女王を手に入れて、領有しているのだから、『山海經』の「女戚在其北居兩水閒」の海の中道の女王と考えられる「草野姫」・「野槌」が配下となり、野姫や 野槌は野の日の女神・野の津の神の意味で出雲は大国の領地で「野見宿禰」は良く符合する。

天皇に氏姓が不要なように、家族内では名前すら不要で、どんな小さな領域でも支配者に氏姓は不要、部族王にも氏姓は不要で、複数の家族が出来ると人名が出来、他王の配下になるとき、地名(豊・大など)や役職名(彦・尊など)が必要になる。

地後定然後神聖生其中の聖人は肅慎國で肅慎人に代わって統治して雒棠を取って衣を作った」とある、その神・や聖人のことを『日本書紀』は記述したのである。

そして『日本書紀』は國常立が建国した国で豐斟渟が建国した国を國狹槌が奪いその国を國常立が奪ったものだと主張し、『山海經』は3国を統一したのが帝俊・天常立だと言っている

豊国は『日本書紀』では敦賀にいた神功皇后が穴門、さらに、『後漢書』の「其大倭王居邪馬臺國」と筑紫を奪い『三国志』では邪馬台国は卑弥呼に奪われるが、『古事記』は「肥国謂建日向日豊久士比泥別」、『舊事本記』は「日向國謂豊久士比泥別」と「豊久士比泥別」の国が豊国領だったと、久士比泥が肥国から日向国に変わっていて、扶桑国の神武天皇の母日向髮長大田根の祖先は、伊都国が主を官位とする国に支配されて、伊都の配下だった日向国で建国したと思われる。

伊都の「一大率」は聖と呼ばれる熊襲の銅鏡を副葬する甕棺墓に埋葬される伊都彦が「三身国」を支配していたが、景行天皇の頃、大倭国に負けて主を官位とする伊襲縣主が支配したと考えれば、史書や、伊都が甕棺の中心で、邪馬台国の糟屋郡から甕棺墓が無くなっていくことと符合する。

2021年4月23日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 初めに

  日本書紀慶長版の出だしの神話は古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬・・・」から始まり天地の創めを記述している

これは、昔、氷河時代の氷に日本海が包まれていた頃、海流も無く、上流の天も、下流の地の区別も無かったという言い伝えと、船を発明して水蒸気に霞んだ、見知らぬ日本海の島々に移住し、それらの場所に神()と霊()が出会い、その中のある地域を最初に統治した人物が常立だったが、狹槌と斟渟が分国したという意味と思われる。

この神話は 『山海經』の「三身國」や『出雲風土記』の国引き神話の「三身之綱打挂而」の三身で、大国建国時は、 三身國と3国に分国していた時の事で、『古事記』の「筑紫国謂白日別豊国謂豊日別肥国謂建日」、おそらく、建日の祖神が常立、白日が狹槌、豊日が斟渟と思われる。

なぜなら、帝俊が天常立で建日国が黄海・天に一番近く、「建日方別」や「建依別」の支配地を持ち、帝俊が多くの海で活動しているからである。

「身」は神の「み」で、中国が『山海經』などで「神」や「身」と記述した文字を輸入して「み」と呼んだと思われ、「君」も岐()()で『山海經』などの「君子國」の「君」の文字を輸入したと考えられ、『三国志』の韓の「國邑各立一人主祭天神名之天君 」も同一概念で、『山海經』の水流の上流の「天」、「神靈所生」の「神」、「君子國」の君と考えるべきだろう。

  『日本書紀』は多くの王朝の説話を一つの王朝の歴史に纏め上げた紀伝体の史書と説明してきたが、これまで触れてこなかった一書群がまさに幾つかの王朝の母系・父系の神話群で、それを纏めたものが『日本書紀』の内容で、一書群の作者は『日本書紀』本文を知らないと思われる

ここで、 『山海經 海經 海外南經』 「地之所載六合之閒四海之內・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道【地の載せる所、六合の間、四海の内・・・神靈生まれる所、ただ聖人能くその道を通う。】 『山海經 海經 海外西經』肅慎之國在白民北有樹名曰雒棠聖人代立于此取衣【肅慎之國白民の北に在り,樹有て名雒棠という,聖人代りて立ち,これを取りて衣とす。】とある。

 『山海經 海外南經』は東海や黄海や東シナ海などの海中の外の日本海が海外でその南側の六合(玄界灘)で四海(海内東・海外(瀬戸内)、海外西海外東)の内側に神が生まれて聖人がいるところ、済州島や五島列島・天草など隆起文土器が分布した地域で、海流の上流にあるから「天」で7千年前にアカホヤ大噴火で逃げ出した人々が海流を降った先で一人神と呼ばれ、『伊未自由来記』の「木葉比等」が「西方千里」の加羅斯呂からって来たとある。

 この千里は短里では海中となってしまうので長里で唐以降のと考えられ、釜山・対馬・壱岐あたり木葉比等」は船で来たと記述していないので、氷河時代に来て、加羅斯呂は『山海經』に類似の国名が無く、『三国志』の「斯盧國 」と考えられ「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王と神国日本の領域と記述している。

後に西の浦へ着いて、海岸沿いに重栖の松野・後・北潟に来て定住した男女二人と記述して船で来ているので、1万2千年前以降で、8千年前頃対馬海流が発生した後、対馬海流上流から流れてきた二人の人物で、その後同族の男女3人がやって来て子孫を増やしたが、出雲から入れ墨をした漁が得意な海人族が大挙してやってきて3民族が雑居したと残され、隠岐の三小島の説話の様である

2021年4月21日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』本文と一書群 序文3

  続けて、「時有舎人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聡明度目誦口拂耳勒心即勅語阿禮令誦習帝皇日継及先代舊辞然運移世異未行其事矣伏惟皇帝陛下得一光宅通三亭育御紫震(宸)而徳被馬蹄之所極坐玄扈而化照舩頭之所逮日浮重暉雲散非烟連柯并穂之瑞史不絶書列烽重譯之貢府無空月可謂名高文命徳冠天乙矣於焉惜舊辞之誤忤正先紀之謬錯以和銅四季(年)九月十八日詔臣安萬侶撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辞以獻上者謹随詔旨子細採摭然上古之時言意並朴敷文構句於字即難已因訓述者詞不逮心全以音連者事趣更長是以今或一句之中交用音訓或一事之内全以訓録即辞理叵見以注明意況易解更非注亦於姓日下謂玖沙訶於名帯字謂多羅斯如此之類随本不改大抵所記者自天地開闢始以訖于小治田御世故天御中主神以下日子波限建鵜草葺不合尊以前爲上巻神倭伊波禮毘古天皇以下品陀御世以前爲中巻大雀皇帝以下小治田大宮以前爲下巻并録三巻謹以獻上臣安萬侶誠惶誠恐頓首頓首和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶」、【その時に付き人がいた。姓は稗田、名は阿禮、年は廿八だった。人柄は聡明で、見ただけで空で誦み、聞いただけで記憶した。それで、阿禮に詔勅して帝皇日繼及び先代舊辭を繰り返し読ませた。しかし、時代が移り世代が異なっても、まだ詔勅を実行できていない。謹んで考えると、皇帝陛下は、陛下一人で広く光がおよび、天地人すべてを養い育てる。天子の御殿で国を治めて徳は馬で行ける果てまでおよび、玄扈に座り、王化は海外の船で行ける場所まで照らしている。太陽が昇ると陛下と重なって輝き、雲はかき消されて煙も無い。枝が連なって、穂が合わさっているのは良い験で、陛下の歴史は絶えることなく、国境の防御は万全で、外国の朝貢が重なり、倉が空になる月がない。文命よりも高名で、徳は天乙(周初代皇帝)より優れていると言える。ここで、舊辭の誤り反したことを惜しみ、先紀の間違いを正そうとして、和銅四年九月十八日をもって、臣下の安萬侶に詔勅して、稗田阿禮に誦むように命令した勅語の舊辭を作って記録して献上させ、謹んで詔旨のとおりに、子細にひろい集めた。しかし、古代では、言葉の意味はどれも純真さを失っておらず、文を作成するのに、漢字を使えない。既に訓で述べたのは本意ではなく、全て音を連ねると、言おうとしていることを書き表すとさらに長くなる。それで今、或いは一句の中に、音訓を交へて用い、或いは一句の内に、全て訓を以ちて記録した。それで、言葉の意味が分かりにくいときは、注で明らかにし、意味が解りやすいときは注を重ねなかった。また姓では日下をくさかと言い、名では帶の字をたらしと言うようなものは、本のまま改めなかった。大方、記した所は、天地開闢から始めて、小治田の世で終わる。それで、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合命以前を上卷とし、神倭伊波禮毘古天皇から、品陀の世以前を中卷とし、大雀皇帝から、小治田大宮以前を下卷とし、あわせて三卷を記録して、謹んで献上します。臣下の安萬侶は、おそれてかしこまり、二度頭を地面に打ちつけてお辞儀します。和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶。】と訳した。

安萬侶が和銅年号を使ったように、自王朝の年号は正確に使ったのに対し、前項の「歳次大梁月踵侠鐘」は白鳳なのか朱雀なのか大化なのか具体的に記述せず、2月は降婁とするなど、自王朝の元号でなく、年号の記録が無く、自王の即位年の干支の記録があやふやだった。

玄扈は黄帝の座る場所のことで、『山海經』では鹿の蹄で、元明天皇は鹿より遠くまで行く馬が行きつくところと黄帝より徳が上と言っていて、「飛鳥清原大宮」天皇が帝位につかない王とするのに対して、元明天皇は、文命と中国最初の王朝夏の初代皇帝より高名で、徳は天乙と周初代皇帝より優れているとこれ以上ない世辞を述べて、元明天皇が王朝初代の天皇と言い、大長年号が711年で終了しているように、總持天皇の治世が終了している。

『続日本紀』には唐人が「海東有大倭國謂之君子國」と日本ではなく大倭と呼び、文武天皇は「倭根子豊祖父天皇」と謚号され、文武朝の国号は日本ではなく、元明天皇が「日本根子天津御代豊國成姫天皇」と日本を国号にして、大長年号までは九州に日本国があった。

701年に稗田阿禮が28歳なのだから、和銅四年711年には38歳で働き盛りだが、天武元年671年に28歳では68歳になり、死んでいるか、生きていても能力はかなり衰えていて、音で表現したと記述している「たい」の音を、「帯」という字を「たらし」と読み、「くさか」の音を「日下」という字で示して伝えたように、『古事記』の原本を3ヶ月で一人で書いて読み、天皇に上梓するほどの完成度で安萬侶が清書したとは考えられない。

なお、太朝臣安萬侶は『続日本紀』に704年慶雲元年「正六位下太朝臣安麻呂」、711年和銅四年四月「正五位下・・・太朝臣安麻呂」、715年霊亀元年正月「正五位上・・・太朝臣安麻呂」、723年養老七年七月「民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒」、『太安万侶墓 墓誌の銘文』に「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」と実在が証明されて、偽書説は否定されている。


2021年4月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』本文と一書群 序文2

  序文のあるもう一つの一書の、『古事記』 前川茂右衛門 寛永21年版は「臣安万侶言夫混元既凝氣象未効無名無爲誰知其形然乾坤初分参神作造化之首陰陽斯開二霊爲群品之祖所以出入幽顯日月彰於洗目浮沈海水神祇呈於滌身故太素杳(杏)窅(?冥)因本教而識孕土産嶋之時元始綿邈頼先聖而察生神立人之世寔知懸鏡吐珠而百王相續喫釼切蛇以万神蕃息歟(?與)議安河而平天下論小濵而清國土是以番仁岐命初降于高千嶺神倭天皇經歴于秋津嶋化熊出爪(?川)天釼獲於高倉生尾遮經大烏(?焉)導於吉野列儛攘賊聞歌伏仇即覺夢而敬神祇所以稱賢后望烟而撫黎元於今傳聖帝定境開邦制于近淡海正姓撰氏勒于遠飛鳥雖歩驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期聞夢歌而想(相)纂業投夜水而知承基然天時未臻蝉蛻於南山人事共給虎歩於東國皇輿忽駕凌渡(山)川六師雷震三軍電逝杖矛舉威猛士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解未移浹辰氣弥(沴)自清乃放牛息馬愷悌歸於華夏巻旌戢戈儛詠停於都邑歳次大梁月踵侠鐘清原大宮昇即天位道軼軒后徳跨周王握乾符而摠六合得天統而包八荒乗二氣之正齊五行之序設神理以奨俗敷英風以弘國重加智海浩汗潭探上古心鏡煒煌明覩先代於是天皇詔之朕聞諸家之所齎帝紀及本辞既違正實多加虚偽當今之時不改其失未終(經)幾年其旨欲滅斯乃邦家之經緯王化之鴻基焉故惟撰録帝紀討覈(竅)舊辞削偽定實欲流後葉」、【臣下の安萬侶が言います。国は、元々混とんとしていて固まらず、何も起こらず名も何もなかった。誰れもそのころのことを知りません。しかし、乾坤が初めて分れて、3神が初まりとなって、森羅万象が始まり、夫婦神が国の祖神となった。それで、生き死にを繰り返して、日神と月神は清めた目で生み、諸神は海水に浮き沈みして身を滌いで生んだ。それで、黄帝の述べる太素ははっきりしないが、本文によって土地を得て島()を産んだ(?得た)時をしり、世の始まりは幽遠だが、昔の聖人を頼って神が生まれ、人が立てた世を察することが出来た。鏡を懸け珠を吐き、百王が相續し、劒を喫う蛇を切り、萬神が繁栄したことを知る。安河で協議して天下を平げ、小濱で論じて國土を祓い清めた。それで、番仁岐命が初めて高千嶺に降り、神倭天皇が秋津島に順をおって経てきた。化熊川に出て、天の劒を高倉から獲て、尾がある者に徑を遮られ、大烏が吉野に導いた。列をなして舞いながら賊を攘い、歌を聞いて仇きを屈伏させた。そして、夢のお告げで神祇を敬った。そのため賢后と言った。烟を望んで人民を労った。今、聖帝と伝わった。境を定め邦を開いて、近淡海で制し、正しい姓を氏から撰んで、遠飛鳥で統御した。緩急は其々異なり、形式と内容も同じとは言えないが、昔とくらべて考えて既に頽れたものを調べ正し、今に照らしてただしい教えが絶えないよう補うことが出来る。飛鳥の清原の大宮で大八州を御す天皇の世になって、力を蓄えて潜んでいる若い龍が善徳を身につけ、雷鳴に応じた。夢の歌を披歴して本務をまとめようと、夜間、田に水をひく頃まで考えた結果、根本を継承しようとした。しかし、天命はまだ下りず、南山で俗世間に惑わされず、人事共に準備が出来て、東國へ勇猛に前進した。天皇の乗る輿はすぐに凌駕して、山川を渡り、六師団は雷鳴のように打ち震わし、三軍は雷光に当たったように死んでいった。杖矛で威勢を発し、兵の勢いは煙が襲うようで、赤い旗は軍を耀かし、悪者は瓦解した。まだ十二日にもならないのに、損なう気持ちが自ら清まった。乃ち、牛を放ち馬を休ませ、楽しく、心安く(愷悌:楽易↔辛苦)華夏に帰り、旌を卷き戈をおさめ、舞歌って都邑に停まった。酉年の二月に、清原の大宮で、天位に昇って即位した。道理は軒后にまさり、善い特質は周王より卓越する。天子の爾を手にして六合を統治し、皇統を得て国の隅々まで一まとめにした。日神と月神の正しい教えに従って五行の言う序列をきちんとし、神の道理をこしらえて人民に行うようにすすめ、りっぱな風習をしき及ぼし国中にゆき渡らせた。海のように広く深い智慧にさらに加えて、際限なく広大な教えで底深く昔を探り物事を映しだす心は明るく輝き、明確に前朝廷を見つめた。ここで天皇が「私は聞いたのだが、諸家が持ってくる帝紀及び本辭はもう、新しい朝廷の実情と違って、たくさんの虚偽が加えられている。私の朝廷になって、新しい朝廷の実情に改めなければ、ほんの数年で、本旨が忘れ去られてしまう。これが、私の血統の推移と私の政権奪取の大きな事業の基礎だ。だから、帝紀を述作して記録し、舊辭をさがし求めてしらべ、当家にあわないことを削って、当家の成り立ちを定めて後世に流通させたい」と詔勅した。】と訳した。

乾坤は天地とされているが、おそらく、元々は西北の水が湧き出す天と呼ばれる場所から、西南の揚子江の会稽までを中原の中国人が呼び、日本では安芸の人々が天と呼んだ対馬海流の上流すなわち、奄美から五島列島・天草までの日本海岸から九州本土を安萬侶は表現したのだろう。

『山海經』にある「天」は中国大陸の西部山岳地帯や黄海を指し、河の上流や水が湧き出て、玉を産出する場所を記述していて、中原を天下と呼び、『日本書紀』の神話は『山海經』の用法を踏襲し、三身国や六合等の地名を用い、霊や神が生まれることも合致し、大国は『山海經』の大人国から「大」を使い、「あま」を「天」と書き、「そら」は「宇宙」や「虚空」と書いている。

歳次大梁月踵侠」は普通に言うと酉年の二月で、673年2月は「二月丁巳朔癸未天皇命有司設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮」の記事と対応するが、丁巳朔は1月30日で朝廷の記事ではなく、30日が朔とする王朝の記事で、安萬侶は「癸酉年乙卯月朔戊午」という干支を知らなかった、すなわち、酉年では何年か特定できず、朝廷の暦法を知らないで、十二次の知識が記述されたことを意味した。

そして、朝廷以外の王は王の即位が元年だから、大梁は「酉年」ではなく文武が即位してから「1.星紀・2.玄枵・3.諏訾(娵訾)4.降婁・5.大梁」と5番目すなわち5年目、697年即位でその5年の701年のこと、すなわち701年2月大宝元年二月「庚午車駕至自吉野宮」と吉野から帰った時のクーデタとなる。

飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元」と飛鳥清原大宮天皇の時潜んでいたとなっているが、672年「是歳營宮室於岡本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」と671年には「飛鳥淨御原」では無く、704年慶雲元年に「壬寅始定藤原宮地」と遷都するまで飛鳥清原大宮が首都だった。

持統三年に建てられた『采女氏塋域碑』や700年に建てられた『那須国造碑』には飛鳥浄御原天皇で707年に作られた『大村骨臓器銘文』は「後清原聖朝」・「藤原聖朝」で、701年即位した文武天皇が後清原宮天皇であり、704年に藤原宮に遷都して藤原宮天皇と金石文とも合致する。

そして、名目上の大長年号を発布している總持天皇が存在し、それを滅ぼした天皇が元明天皇なので、 「飛鳥清原大宮」文武天皇は周王朝の天子にならなかった周王や最初の王朝の夏朝の前の軒后と比較して、それより立派だと言っている。

そして、「削偽定實」は『舊事本紀』の「生一神號日天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」や『日本書紀』の「于時天地之中生一物状如葦牙便化爲神號國常立尊」と諸氏の神祖が文武天皇の神祖の御中主と違うから書き直し、皇極・孝徳・天智・天武・持統は文武天皇の王朝の人物ではないから削除し、田村王は宝王を糠代として、その糠代を田村王に亦名で変更を加えた。

2021年4月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』本文と一書群 序文1

  『日本書紀』には『日本書紀』の元となった文献群が存在し、『日本書紀』を記述した王朝が王朝自身の文献に他の文献群を取り入れて、扶桑国・秦王国・倭国・日本国を中心国とする史書を記述したもので、時代が解らない文献群をそれぞれ、年代が解っている神(辰・秦)国・倭奴国・台奴国・扶桑国・秦王国・俀国・倭国・日本国の首都(宮で治めた天皇)に振り分けて完成させた。

『日本書紀』は歴代の王朝が残してきた史書に付け加えたため、序文が存在しないが、秦王国・倭国の史書をまとめて提出した『舊事本紀』の序文と『日本書紀』が完成した直前に元明天皇に献上した『古事記』の序文が残っている。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版には「先代舊事本紀序大臣蘇我馬子宿禰奉勅修撰夫先代舊事本紀者聖徳太子且(?)撰也于時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇即位廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌攝政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉勅定宜録先代舊事上古國記神代本紀神祇本紀天孫本紀天皇本紀諸王本紀臣連本紀伴造國造百八十部公民本紀者謹據勅旨因修古記太子為儒釋説次録而修撰未竟太子薨矣撰録之事輟而不續因斯且所撰定神皇系圖一卷先代國記神皇本紀臣連伴造國造本紀十卷号曰先代舊事本紀(?)謂先代舊事本紀者蓋謂開闢以降當代以往者也其諸皇王子百八十部公民本紀者更待後勅可撰録于時卅年歳次壬午春二月朔己丑是也凡厥修撰題目顯録如右」、【「先代旧事本紀の序」大臣蘇我馬子宿祢が、詔勅をうけて撰修した。そもそも、『先代舊事本紀』は、聖徳太子がかつて撰じたものである。小治田豊浦宮で天下を治められた豊御食炊屋姫天皇の治世二十八年庚辰春三月朔が甲子(646年または庚辰620年)の戊戌に、摂政の上宮厩戸豊聡耳聖徳太子の尊が編纂を命じた。大臣蘇我馬子宿祢らは、先代舊事、上古國記、神代本紀、神祇本紀、天孫本紀、天皇本紀、諸王本紀、臣連本紀、伴造・国造・百八十部の公民本紀を記せという詔勅をうけて撰定した。詔勅により、古い文献に従い、太子が導き手となって解釈と説明をしたが、記録し撰修することが終わらないうちに、太子が亡くなった。編纂は中断し、続けることができなかった。このような経緯で、かつて撰定された神皇系図一巻、先代國記、神皇本紀、臣・連・伴造・国造本紀の十巻を、名づけて『先代舊事本紀』という。いわゆる『先代舊事本紀』は、天地開闢から当代までの過去について述べたものである。漏れた諸皇王子、百八十部の公民本紀は、さらに後の勅を待って編纂するべきである。ときに、三十年壬午春二月朔が己丑の日のことである。すべて、その題目を修め撰び、記録することは次のとおりである。】と訳した。

『舊事本紀』は物部氏の史書なので、当然、『舊事本紀』を提出される人物は推古天皇こと御井夫人と贄古太子で太子が薨じたのが622年1月で編纂を停止したと翌年の2月の慧慈死亡まで記述しているが、『日本書紀』は「廿九年春二月己丑朔癸巳半夜厩戸豐聰耳皇子命薨」と621年2月で朔は正しいが卅年622年の壬午年ではなく、621年の辛巳年で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』は「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と622年1月とあり、『日本書紀』とは合致せず、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』は合致するが丗二年ではなく、二月朔己丑は621年か652年か682年の2月である。

すなわち、この序文の「且所撰定」以降は「國造本紀」を追加し、『舊事本紀』は舒明天皇まで記述された『日本書紀』と『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』をもとに付け加えた文で、「廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌」は2月30日で九州の馬子の暦と考えられ、三月甲子朔は646年で、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に池邊大宮治天下天皇が崩じ、おそらく御井夫人が皇后になって廿八年にあたり、池邊大宮治天下天皇をついで天皇になり、太子の贄古が史書を編纂させたと考えられる。

そして、実際は647年・大化三年十二月の晦の「災皇太子宮時人大驚恠」が贄古太子の死亡なのではないだろうか。

『舊事本紀』は政権の真っただ中で、物部氏の推古天皇御井夫人を中心に、年号は首都の年号に直結しているので、朔の日干支も正しいことが考えられ、白雉元年652年に即位した物部氏の天皇の30年682年に『舊事本紀』を上程し、御井夫人の子の蝦夷の妻で入鹿の母の鏡姫王の物部鎌媛大刀自に上程したと考えられる。

八色の姓は684年に制定とされるが、そこで制定された眞人が天武天皇に付与されて、天武天皇は諸王の地位で眞人だった人物が皇位に就いたのだから、もし大海皇子のこととすれば、671年以前に八色の姓を施行したことになる。

そして、682年天武天皇十一年の「筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘」と記述され、八色の姓は天武死後の付与ではなく、天智天皇が即位して間もなく669年頃に公布された可能性が高く、天渟中原瀛眞人は息長足日廣額の子なので、息長公すなわち諸王眞人で理に適い、『舊事本紀』は682年上程で、「物部連公麻侶馬古」の朝臣賜姓は矛盾が無い。


2021年4月14日水曜日

最終兵器の目 『日本書紀』本文と『山海經』4

 前項の続きで、三身国の前身の日国王若しくは、日後国王は肅慎国やその南の白民国、その南に日後国王が関与する鰕が有り、日国が分裂した三身国の綱を使って『出雲風土記』に「三身之綱打挂」と日後国の支配地を大国が領土にして、『海外東經』の大人国は「削船」と舟を作り、『海内東經』・『大荒東經』・『大荒北經』に大人国の分国や市があり、『大荒北經』は肅慎国と接していて、大人国の分国が日後国の配下の肅慎国を支配地にした神話が『出雲風土記』に反映されていると考えられる。

君子国と 丈夫国は 「衣冠帶劍」と剣を所有するが、『日本書紀』の神話に出現する剣は「十握劔」と「草薙劔」で素戔嗚と八岐大蛇が所有し、素戔嗚が日子、八岐大蛇が君子と考えられ、君子国の北に「朝陽之谷・・・在北兩水間其為獸也八首人面八足八尾背青黃」と、まさに八岐大蛇その物で、丈夫国は三身国の北方で、両国間に「女祭女戚在其北居兩水閒」と半島と思われる女戚が有り、女戚は海の中道、その北の宗像が素戔嗚の丈夫国で、素戔嗚は宗像3姫の父で、よく符合する。

女戚は女祭と女王が統治し、その女王は日女と呼ばれたと考えられ、最初に生まれた「草野姫」が類推され、女戚と三身国の間に「奇肱之國・・・有陰有陽」と陰神陽神と呼ばれる伊弉諾・伊弉冉を類推させ、丈夫国の北方に「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と島に二人の女王が統治する国が有り、天照・月読を類推させ、「帝俊妻娥皇生此三身之國」と三身国の神話が伊弉冉・伊弉諾の国生みや、常立のモデル帝俊が國常立・國狹槌・豐斟渟の神を生み、大人国の舟による国生みや嶋生みなどのモデルとなったことが解る。

すなわち、日本の神話は多くの国々の神話の寄せ集めで、それは、多くの王を習合・合祀して1体の王やその妻や子に割り当てた神々で、『日本書紀』は国常立が建国し、天照が初代の王であるが、多くの男王の常立と多くの女王の天照の説話が1つの説話に纏められていると思われる。

これらから、殷以前には中国が『後漢書』の「大倭王」と考え、大倭にあると考えた君子国が有り、「朝陽之谷神曰天吳・・・八首人面八足八尾」の八岐大蛇、すなわち天呉が支配し、君子国の南に「大人國・・・坐而削船」と大人国すなわち大国が有り、舟で中国やオホーツク海諸国と交易して、九州は日国が白日・豊日・建日に分国して、剣を持つ君子国と素戔嗚の丈夫国が対峙し、素戔嗚が女子国の天照・月読と連合しようとしている時代だったことを念頭に『日本書紀』を理解しなければならない。

『日本書紀』は「於母」と表音された地域を『山海經』の大人国の地域大国と理解して「大」を当て嵌め、『伊未自由来記』には遠呂智が出雲からやって来て隠岐を支配したと記述し、遠呂智は出雲で素戔嗚と闘い、倭も『日本書紀』の編集者の平郡氏が大和と呼ばれる地域を倭と表記し、大倭はおそらく大国が倭国を支配した国を意味すると思われ、『古事記』には開化天皇は「旦波之大県主名由碁理之女竹野比売」と妃にしているが、丹波が大県と呼ばれて、『山海經』と大県の人大人と合致する。

そして、殷時代になると、素戔嗚の丈夫国が根国の出雲を支配し、周饒國の大己貴が出雲・畿内を支配し、天照の女子国が三身国の糸島の日向そして日向国さらに畿内を支配した。

畿内は殷時代以降に、三嶋溝橛の島は岐と呼ばれたりする国を意味し、三国にあった君子国を紀元前700年頃に、周饒國の八重事代主が支配し、三身国の力を借りた船を出土する三方五湖がある丹波の大人国出身の物部氏が紀元前300年頃に大八国王となったと考えられる。

『日本書紀』の神話は殷以前から葛城氏が扶桑国を建国するまでの説話を神武天皇以前に纏められ、饒速日が祖神の出雲醜は天皇と考えられる磯城彦の共同統治している真鳥姫を娶って皇太子と同等の大臣となったと考えられる。


2021年4月12日月曜日

最終兵器の目 『日本書紀』本文と『山海經』3

  『山海經』を理解するにあたって、「海内」・「海外」・「大荒」の位置を確認しなければならず、その起点となるのが、三身国を記述する『海外西經』と『大荒南經』と『海內經』で、三身国は「一首而三身」と一人の王が3国を支配して、その3国が3つの海に面している。

そして、『海外西經』の三身国の南に結匈国が有り、『海外南經』に記述され、「海外自西南」と西南隅に存在し、『海外西經』を北上すると、良く知られている肅慎国が「至西北陬」と朝鮮半島の東北が海外の西北隅と記述され、海外西は日本海西と理解され、三身国が九州の国と理解される。

『海內東經』と『海內西經』に渤海が記述され、『海內東經』に倭や朝鮮が記述され、『海內經』にも朝鮮が記述されるので、海内は渤海・黄海を意味し、海外は日本海を意味する。

大荒は『海外東經』の東南隅に大人国や君子国が有り『大荒東經』にも記述され、琵琶湖周辺の国と理解され、『大荒東經』と『大荒南經』に羲和の国が有り、「東南海之外」と海内である東南海の外、海外の一種の関門海峡・瀬戸内海を思わせ、3海の接する紀伊半島先端を思わせ、『大荒東經』には「海內有兩人名曰女丑」と『海外西經』と『大荒西經』に記述される女丑を記述し、瀬戸内海を通して繋がっていることを示す。

すなわち、『大荒東經』は紀伊半島より東の太平洋、『大荒南經』は四国・九州南の太平洋、『大荒西經』は九州西の太平洋と解り、『海外南經』の「六合之閒,四海之內」の四海は『大荒西經』・『大荒東經』・『海外南經』・『海内經』の4海と理解され、九州北部から中国地方を現す場所が「六合」と解る。

そして、この六合は「神靈所生其物異形」と、ここで神が生まれ、三首国は「一身三首」と1国だが3つの顔がある、『古事記』に「生隠伎之三子島亦名天之忍許呂別」の「隠岐之三子島」とピタリの国があり、「天之忍許呂」島は『海外南經』の「冠帶一曰焦僥國在三首東」と、いかにも三首国を統治しているように思われる。

六合には、「神靈所生」・「唯聖人能通其道」と神人・靈人・聖人がいて、「有神人二八連臂」と28の国が連合し、聖人は「肅慎之國・・・聖人代立」、肅慎の南に「鰕即有神聖乘此以行九野」と神人・聖人が関与し、中国の天王が天子なので、神人・靈人・聖人の王は『海外西經』「丈夫國・・・人衣冠帶劍」・海外西經「君子國・・・衣冠帶劍」・『海外南經』「周饒國・・・冠帶」と 冠帯の国の王と考えられ、 周饒国王が 神人の神子・君子国王が 靈人で君子・ 丈夫国王が聖人で日子と考えている。

それは、『日本書紀』が日後「ひじり」に聖の文字を当て嵌め、三身国が3国の「日別」の国と考えられ、三身国は「帝俊妻娥皇生此三身之國」と俊天子と日国王・日女の娥皇が生んでおり、天子と皇が生んだ日後国の流れを汲む神武を「謂日本亦有聖王謂天皇必其國之神兵也」の言葉を受けて天皇と記述したことから考えた。

そして、「忍許呂」島は伊弉冉・「いざな」の神が生んで、「み」を神の文字に当て嵌めていて、「みこ」を「神子」と当て嵌めたと考え、君子は「いざな」の「き」神・岐「き」神「み」子を君子と文字を当て嵌め、天皇に使用される「根子」も同様で、根神の王と考えた。

日国人を「ひと」、支配された王の「ち」神は「ひこぢ」・「村ぢ」・「くらぢ」・「うかち」で、それぞれ、「彦舅」・「連」・「倉下」・「猾」と文字を当て嵌め、支配された「み」神は「おみ」で「使主」・「臣」と、『日本書紀』製作者の平郡氏は文字を当て嵌めた。

2021年4月7日水曜日

最終兵器の目 『日本書紀』本文と『山海經』2

  前回に続いて、天の文字が

海外西經』「刑天與帝爭神帝斷其首」、

『海外東經』「朝陽之谷神曰天吳是為水伯」、

『大荒東經』「有神人・・・名曰天吳」、「有山名曰鞠陵于天」、「有山名猗天蘇門」、「東海中有流波山・・・以威天下」、

『大荒南經』「阿山者南海之中有汜天之山」、「有山名曰融天」、「山名曰天臺」、

大荒西經』「西北海之外赤水之西有天民之國」、「有弇州之山五采之鳥仰天」、「有山名曰日月山天樞也吴姖天門日月所入・・・帝令重獻上天」、「有人反臂名曰天虞」、「有赤犬名曰天犬」、「西南海之外・・・開上三嬪于天・・・此天穆之野」、「氐人之國・・・氐人是能上下于天」、「魚婦・・・風道北来天乃大水泉」、

『大荒北經』「有山名曰衡天」、「有山名曰北極天櫃海外北注焉」、「有山名曰成都載天」、「黄帝乃下天女曰魃雨止遂殺蚩尤」】と記述され、やはり水を注いだり、天からのベクトルを示している。

さらに、

【『海内經』「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮天毒其人水居」、「有人名曰柏子高・・・至于天」、西南黑水之閒有都廣之野・・・蓋天地之中」、「有人曰苖民・・・伯天下」、「有鸞鳥・・・見則天下和」、南海之内有衡山有菌山有桂山有山名三天子之都」、「洪水滔天」、

海内南經』「三天子鄣山在閩西海北一曰在海中」】と記述されて、東・南シナ海に「天」と呼ぶ地域が有り、天子が住み、渤海岸で天地が別れ、海内以外でも、海内と関係深い地域に天が既述されていた。

海經』に記述される天子は

【『海內北經』「帝堯臺帝嚳臺帝丹朱臺帝舜臺」、

『大荒東經』「東海之外大壑少昊之國」、「中容之國帝俊生中容」、「白民之國帝俊生帝鴻帝鴻生白民」、「黑齒之國帝俊生黑齒」、「帝俊下友帝下兩壇」、「東海中・・・夔黃帝得之」、

大荒南經』「帝俊妻娥皇生此三身之國」、「季釐帝俊生季釐故曰季釐之國」、「東南海之外甘水之間有羲和之國有女子名曰羲和・・・羲和者帝俊之妻」、

大荒西經』「帝俊生后稷」、「帝俊妻常羲生月十二」、

『大荒北經』「黄帝乃令應龍攻之冀州之野」、『海內經』「黄帝妻嫘祖生昌意・・・阿女生帝顓頊」、「黄帝所為」、「黄帝生駱明」、「帝俊生禺號」、「帝俊賜羿彤弓素矰」、「帝俊生晏龍」、「帝俊生三身」、「帝乃命禹卒布土以定九州」】と記述され、多くが渤海・黄海に接する地域で天子が活躍し、この地域が天と『山海經』は認識している。

その、天と呼ばれる場所を、『日本書紀』も天と記述し、「六合」と『山海經』の『海外南經』に記述される「地之所載六合之閒四海之內・・・神靈所生」と両書共に同じ地域を「六合」と理解して『日本書紀』は文字を当て嵌めたと考えられ、六合で生まれた神に「神」の文字を当て嵌めた。

『出雲風土記』には「三身」と『山海經』の『海外西經』に記述される「三身國在夏后啟北一首而三身」を理解した上で記述し、三身国の影響下で「三身之綱打挂」と国を拡げた。

そして、平郡王朝の『日本書紀』は帝俊が三身国を生んだ国常立と想定し、配下になった2国の王が「國狹槌尊次豊斟渟尊」と考えられ、常世は天に存在し、『大荒南經』の「羲和之國」を紀伊熊野近辺と考え、三毛入野が「母及姨並是海神」と東シナ海にある母の国常世に向かう船があったので、常世に旅立ったと記述したと考えられる。


2021年4月5日月曜日

最終兵器の目 『日本書紀』本文と『山海經』1

 『日本書紀』は『四方志』を基に平郡氏が第一群の安康天皇までをまとめたもので、それは、森博達が雄略天皇から漢字音が変わったと述べていることからも解り、漢字も『三国史記』375年近肖古王三十年に「古記云『百濟開國已來未有以文字記事至是得博士高興始有』」と、平郡氏の応神天皇が375年以降に「習諸典籍於王仁」と漢字の用例を学び、応神天皇十六年は応神天皇三年是歳百濟國殺辰斯王以謝之」の内容が392年にあたり、応神天皇の16年は405年の事と考えられる。

すなわち、『四方志』は『梁書』の「倭国・分身国・大漢国・扶桑国」の4国の表音漢字で記述された歴史を、中国典籍をもとに『日本書紀』のような表意文字に変換したと考えられ、安康天皇までは漢字で理解しないで、読みで理解しなければならず、倭も大倭も晋時代の史書の『三国志』や『後漢書』を基に漢字を当て嵌めていて、大倭は『続日本紀』に君子国があった場所と記述し、すなわち『山海經』の日本海東部の南端が舞鶴近辺の「三国」を指していると理解すべきである。

漢字を表音文字に変換する時、『古事記』に「論語十巻千字文一巻」とあり、また、『日本書紀』には「魏史云」と『三国志』も『百濟記』も記述され、『百濟記』は476年雄略天皇二十年まで記述されていて、これ以前に書かれた文献をもとに表意漢字を当て嵌めたと考えられる。

天という文字が【

『山海經』『南次三經』「曰天虞之山其下多水」、「東五百里」に「丹穴之山其上多金玉丹水出焉而南流注于渤海・・・則天下安寧」、その東三千三百里に「雞山其上多金其下多丹雘・・・見則天下大旱」、その東四百里に「令丘之山無草木多火・・・天下大旱

『西山經』「天帝之山上多椶枏下多菅蕙」、「東二千里」に「太華之山・・・天下大旱

『西次二經』に「女牀之山其陽多赤銅・・・天下安寧」、『西次三經』「崇吾之山在河之南・・・天下大水」、「峚山・・・丹水出焉・・・天地鬼神」、「泰器之山觀水出焉西流注于流沙・・・天下大穰」、「有淫水・・・有天神焉」、「昆侖之丘・・・司天之九部及帝之囿時・・・東南流注于氾天之水洋水出焉」、「流沙・・・天之九德也」、「玉山是西王母所居也・・・天之厲及五殘」、「陰山濁浴之水出焉・・・有獸焉其狀如狸而白首名曰天狗」、「天山多金玉有青雄黃英水出焉

『北山經』「嶽法之山瀤澤之水出焉而東北流注于泰澤・・・天下大風」、『北次三經』「天池之山・・・澠水出焉」、「馬成之山・・・有獸焉・・・其名曰天馬

『東山經』「犲山・・・天下大水」、『東次二經』「空桑之山・・・天下大水」、「姑逢之山・・・天下大旱」、『東次四經』「女烝之山・・・天下大旱」、「曰欽山・・・天下大穰」、「子桐之山・・・天下大旱」、「剡山・・・天下大水」、「太山・・・天下大疫

『中山經』「金星之山多天嬰」、『中次三經』「和山其上無草木而多瑤碧・・・九水出焉合而北流注于河其中多蒼玉・・・天地氣也」、『中次五經』「尸水合天也」、『中次六經』「嶽在其中以六月祭之如諸嶽之祠法則天下安寧」、『中次七經』「堵山神天愚居之是多怪風雨其上有木焉名曰天楄方莖而葵狀」、『中次一十一經』「天井夏有水」、「几山,・・・天下大風」、「大凡天下名山五千三百七十居地大凡六萬四千五十六里

『五臧山經』「天下名山,經五千三百七十山,六萬四千五十六里,居地也・・・天地之東西二萬八千里南北二萬六千里出水之山者八千里受水者八千里出銅之山四百六十七出鐵之山三千六百九十此天地之所分壤樹穀也戈矛之所發也刀鎩之所起也」】と記述される。

このように、「天」は水源で、その近くに「天下」や「天」の付く動物や人物がいて、山經のまとめの『五臧山經』に水を出す山が天、銅や鉄を算出する山が天地を分け、木が茂り穀物を産出する場所が地で戈矛刀を作ると記述し、青銅器も鉄器も殷時代の遺跡で発掘され『山海經』が殷以前の五帝や夏の禹、殷の始祖の契の義父帝嚳を記述して矛盾しない。

 

2021年4月2日金曜日

最終兵器の目 持統天皇17

日本書紀 慶長版は

「十一年春正月甲辰饗大夫等戊申賜天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者稻各有差癸丑饗公卿百寮二月丁夘朔甲午以直廣壹當麻真人國見爲東宮大傅直廣參路真人跡見爲春宮大夫直大肆巨勢朝臣粟持爲亮三月丁酉朔甲辰設無遮大會於春宮夏四月丙寅朔已己授滿選者淨位至直位各有差壬申幸吉野宮己夘遣使者祀廣瀬與龍田是日至自吉野五月丙申朔癸夘遣大夫謁者詣諸社請雨六月丙寅朔丁夘赦罪人辛未詔讀經於京畿諸寺辛巳遣五位以上掃灑京寺甲申班幣於神祇辛夘公卿百寮姶造爲天皇病所願佛像癸夘遣大夫謁者詣諸社請雨秋七月乙未朔辛丒夜半赦常?(+)盜賊一百九人仍賜布人四常伹外國者稻人二十束丙午遣使者祀廣瀬與龍田癸亥公卿百寮設開佛眼會於藥師寺八月乙丑朔天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」

【十一年の春正月の甲辰の日に、公卿と高官達を饗応した。戊申の日に、天下の男女のやもめ・独り身・障害のある人・貧しくして生活できない者に稲を各々差を付けて与えた。癸丑の日に、公卿と役人を饗応した。二月の丁卯が朔の甲午の日に、直廣壹の當麻の眞人の國見を、皇太子の師にした。直廣參の路の眞人の跡見を皇太子の高官にした。直大肆の巨勢の朝臣の粟持を補佐とした。三月の丁酉が朔の甲辰の日に、法施を行う大法会を春宮で開催した。夏四月の丙寅が朔の己巳の日に、多くの選ばれた者に、淨位から直位までを授け、各々差をつけた。壬申の日に、吉野の宮に行幸した。己卯の日に、使者を派遣して、廣瀬と龍田とをお祭りさせた。この日に、吉野から帰った。五月の丙申が朔の癸卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に雨乞いで参詣させた。六月の丙寅が朔の丁卯の日に、罪人を赦免した。辛未の日に、詔勅して畿内の諸寺で読経させた。辛巳の日に、五位以上を派遣して、京の寺を掃除させた。甲申の日に、幣を神祇に配布した。辛卯の日に、公卿と役人が、はじめて天皇の病の回復を願うために佛像を造った。癸卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に雨乞いの参詣をさせた。秋七月の乙未が朔の辛丑の夜半に、常習の盜賊(?敵軍の捕虜)百九人を赦免した。なほ、布は、人毎に四常与えた。ただし外国の者は、稲を人毎に二十束。丙午の日に、使者を派遣して、廣瀬と龍田とをお祭りさせた。癸亥の日に、公卿と役人が、佛の開眼する法会を藥師寺で開催した。八月の乙丑が朔の日に、天皇は、内裏で臣下が天子を擁立する策を決めて、皇太子に天皇位を譲った。】とあり、二月丁卯朔は1月30日、六月丙寅朔は6月2日で5月が小の月、八月乙丑朔も8月2日で7月が小の月と、30日が晦日で朔の暦を使っている政権の記録を挿入し、それは、文武天皇を含むが元明天皇がこの記録間違いと認識していない。

しかし、『続日本紀』では文武元年「元年八月甲子朔受禪即位」と8月1日に禅譲したと記録して、政権にも正しい朔の記録があったにもかかわらず、他王朝の記録をそのまま採用した。

平朔法の元嘉暦との説があるが、697年は『日本書紀』では大の月が11大・12小・1小・2大・3小・4大・5大・6小・7大と平朔法に当てはまらない。

「東宮大傅」の東宮は聖徳太子・天智天皇・天武天皇・日並が呼ばれ、日並は『粟原寺鑪盤銘』「日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始」と694年に東宮と呼ばれ、草壁皇子とは別人の「浄御原宮天下天皇」の子以外の続柄で、東宮は天皇の子以外の後継者が居住するところである。

そして、「定策禁中」は臣下が相談して後継者を決めることで、顕宗天皇と文武天皇のみに出現し、顕宗天皇は平郡王朝清寧天皇真鳥と後継者鮪を殺害して後継者がいないので、顕宗天皇が臣下達の相談で後継者になったのであり、持統紀の「定策禁中」は文武天皇には当てはまらず、總持天皇を打ち破った元明天皇が總持天皇の臣下達に推挙され大長年号が終了した翌年、713年1月1日乙丑に日本国の天皇に即位した可能性が高い。

 これまで、白石や宣長達に影響されない慶長版の『日本書紀』の一書を無視した本文を基に検証してきたが、天文学的朔の日干支を標準陰暦として、それに合わない日干支と区別してきたが、王朝に2つの暦が有るはずがなく、標準陰暦以外の暦は朝廷以外の暦と考えるのが妥当である。

そして、推古天皇時代の日食が2日に発生したと記述されたが、実際は天文学的朔の日干支で、従来の天文学の計算式で日食を検証すると、畿内では見られず、九州で見られた日食だったことから、30日が晦日の暦を九州の朝廷が使っていたことがり、中国や朝鮮の史書の朔の日干支や日食の日干支もほとんど天文学的日干支と合致し、これらの史書が信頼できることが解った。

今までの古代史は証拠がない、『三国志』の東が正しかったり間違っていたりする、大家が言うがまゝの論理を基に推論されてきたが、天文学的朔の日干支という証拠と金石文という証拠によって、初めて証拠がある、誰もが再検証できる論理を遂行出来るようになり、中国史書や『日本書紀』の間違って配置された資料と正しい朝廷の資料を分けることが出来た。

そして、『山海經』の『海外西經』の「奇肱之國」が「有陰有陽」の王すなわち、男女の王が支配し、伊弉諾・伊弉冉が陽神・陰神と言われたように、また、女子國が「兩女子居水周之」と島にいる天照・月読の2柱の女神を表し、「三身國」は「帝俊」の「妻娥皇」が生み、まさに、国生み神話で筑紫から対馬の国々の神話を纏めたものが『日本書紀』の神話だったように、それぞれの天皇も幾つかの王朝の王を纏めた記録と理解できた。

そして、これらの中国史書や『三国史記』・『続日本紀』に記述される証拠から、日本には、君子国、辰国、秦国、大倭・扶桑国、秦王国、倭国、俀・日本国そして大倭・日本国と王朝が推移したと記述され、事代主、建氏、尾張氏、物部氏、葛城・息長・紀氏、平郡氏、巨勢氏、物部氏、蘇我氏、天氏、中臣氏、天氏と政権が推移したが、皇太后と皇后と爾によって王朝間の継続性を確保してきたことを述べてきた。

次回からは、『日本書紀』の1書や『古事記』・『先代舊事本紀』などと『日本書紀』本文と比較しながら、検証していきたい。